2006年11月08日

ケータイ社会の恐怖

アップロードファイル 58KBNHK『クローズアップ現代』を車の中で観ていたが、若者が日本語を知らないそうだ。ある会社では「差異」の意味を知らなかった若い社員がミスをして、多大な損失を出した、と。で、日本語の力はケータイメールを使う時間に比例して落ちるそうだ。ケータイを使う場合、脳の活動が手書きの場合よりぐんと落ちるという報告もあった。

さもありなん。我が学生諸君も、私の試験問題が解けないと言うので理由を聞いてみたら、何と問題文が読めないとのこと!?もっとも私の本も読むのが大変だとよく言われてますが・・・汗。最近では講義の時も、単語を理解しているかどうか確認しながら進めている始末。なにしろ「あばたもえくぼ」が分からない人たちですからね(→参考記事)。

言葉が通じないことはまさに社会の基盤を揺るがす。私は若者を20年に渡って定点観測しているが、昔予想したとおりの社会になっているのが、むしろ不気味である。言葉が通じない以上、殺(や)るしかないわけで、最近も女子高生が交際を断わられた男子学生に刺されている。思えばまことに怖い社会に生きているものだ。

あいみての/後の心にくらぶれば/昔はものを想わざりけり

なんてほとんど宇宙語なんでしょうね、彼らにとっては。かくして「逝け!」とか「死ね!」とか「ウザイ・キモイ・クサイ」だけの世界になるわけです。まさに豊かな色彩のアナログ的情緒の欠如したデジタル語の世界です。だからいじめられてもそれを昇華し表現することができない。この場合は自分を殺るしかないわけだ。言葉の貧困と最近の病理現象は明らかにシンクロしている。

 * * *

中間選挙は民主党の大躍進だそうだが、さてさて、残りの任期、ブッシュはどうするのでしょう。Time誌では"The Lone Ranger"と言われていたが。そして次期はヒラリーが、ってことになるのだろうか?

(写真はケータイ社会と無縁の今朝の富士山)

Commented by DJ Jerry Eメール 2006年11月09日(木)01:45

たらちねの 母の命を 一目見ん・・・
故郷の 訛り懐かし 停車場に・・・

Dr Luke のコメントを読んでいたら、中学のときに詠んだ歌が浮かんできました。今の生徒は「たらちね」も「停車場」も知らないんでしょうね。僕の家は昔駅の近くにあったので、親戚の間では「停車場」と呼ばれてました。去年、授業中に「老婆心ながら」と言ったら生徒はみんなキョトンとしてました。

白鳥は 悲しからずや 空の青 海の青にも 染まず漂う

短歌に限らず、昔の文学っていいですね。僕は寺田寅彦が好きで、随筆に出てくる古き良き日本の匂いに涙します。あ〜、京都や奈良のお寺の林の中で北原白秋でも読みたくなってきました。

ところで、誰かこの俳句の読み手をご存知ないですか?高校生のときに耳にした歌です。とても気に入ってます。
下駄からり ころり源太が 夕涼み

Commented by Luke 2006年11月09日(木)19:52

いいですね、LAでも俳句どんどん詠んでください^^

自分の居場所

4人の部活の友人の名前を書いて自殺した女子生徒は、リーダーシップもあり、正義感が強く、つねに弱い者をかばうタイプの子だったらしい。いわゆる「いじめられッ子」のイメージとはかなり違う。その父親が「私は人格者です。娘にも私を超える人格者に育って欲しかった。最後まで人の悪口を言うな、と言う私の教えをまっとうしてくれた・・・」と語っていた。

これを聴いてやや「?」と言うか、違和感を禁じ得なかった。この女子はそのリーダーシップや正義感を揶揄されたのだろう。こういった「浮いた人」に対する言葉が、「ウザイ」、「キモイ」、「クサイ」なのだ。女子高生あたりは周りから浮くことを極度に恐れると同時に、出っ張った人を引きずり下ろして、「平等化」する。また現代は「おちゃらかしの時代」と言え、「2ちゃんねる」に見える病理からも明らかだ。聖書の

すべて真実なこと、気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心にとめなさい

と言う勧めにあえて抵触する風潮がある。しかもこの世ばかりではなく、クリスチャンと自称する人々すらも同じ。この御言葉をそっくり否定すると世と教界の現状となる。倒錯者が自分の倒錯に気づかない時代と言える。

このような中でこの女子は自分の居場所を喪失したのであろう。が、先の父親の言葉から、友人の間で失う前に、何かご両親との関係において失っていたような感じを受けるのだが、私のうがち過ぎだろうか。もちろんご両親の心痛は、私も人の親であるから分かり過ぎるほどに分かるが、やや懸念を覚える次第。

彼女の遺書の言葉、「もうがんばるのに疲れた・・・」、これは多分ニッポンキリスト教のクルシチャンたちの叫びでもあるかも知れない。そしてもっとも深刻なことはその叫びを互いに共有できず、表向きは「真っ白」に繕わなくてはならないこと。自分が自分でおれなくなるのは何もカルトに限らない。

ただし注意すべきは、神はありのままの私を受け入れることはない。だからこそ、キリストは私と共に死なれたのだ(死のうとするのは罠です!)。そして私も復活し、今や新しい創造とされた。これがゆえに、神は私を受け入れ、私は自分が自分でおれるのだ。すべて十字架を回避した「福音」は偽りである。私たちはすでに死んだ、復活した、新しい創造とされている!あなたはこれを信じますか?

信じた者は自らのわざをやめ、安息に入る。

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アップロードファイル 9KBFaith06-Amazing-のサンプルビデオをもひとつ紹介しましょう。これはイントロですが、福音の伝道メッセージになっています(ただし英語)。こちらからご覧いただけます。