2007年03月07日

本日の一冊

アップロードファイル 59KB捏造された聖書』(柏書房)−ノースキャロライナ大学宗教学部長にして、聖書本文批評の専門家による聖書の改竄の歴史を論証した本。著者はもともと監督派教会出身。十代で「本物の"再生"を経験し」、儀式としてのキリスト教から脱皮し、きわめて熱心な福音主義かつ聖書原理主義クリスチャンとなり、ムーディーズ神学校から、ホイートン大学へと進み、ギリシャ語、ヘブル語、ラテン語を学び、ついに霊感されている聖書本文は存在しないことから、聖書学を学ぶほどに「信仰を保つことに困難を覚えるようになった」とのこと。結論として彼は、聖書はあくまでも人間が神についてそれぞれの意見を述べた書物に過ぎないと言う。

と言うわけで、学ぶほどに信仰を持てなくなる−何と言う逆説!?確かに写本しか残っていないわけで、現存する聖書のテキストに転記ミスや意図的改竄があるかもしれない。そこで福音主義では、原典において霊感された神の言葉であると信じる、とするわけです。リベラル系になりますと、まさにこの著者のように聖書は人間が神について記録した記事に過ぎないとなるわけです。実際、前にも書きましたが、処女懐胎をも信じない方々がいるわけです。聖霊派では御言葉はそっちのけで、「悪霊よ、出ろ〜」、「主は・・・と言われます」・・・。

いかがでしょう、こう言った本や主張で皆さんの信仰は揺るぐでしょうか。もし揺るがないとか言えば、妄信しだとか、MCされてカルト思考にはまっているとか言われるでしょうね。で、Dr.Lukeはどうなんだと問われますと、私はあまり葛藤は覚えないのです。なぜならそのお方こそが私の信仰の対象ですから。

Commented by ゆっきー 2007年03月08日(木)00:13

神学校に行って信仰を失う、典型的な例ですね。
自分の場合は福音派の逐次霊感論に疑問を感じていたときにカトリックに移りました。
カトリック神学に接して確かめたことは、まさしく「あの方」に出会えたという喜びであり、聖書は教会の文書として「あの方」を指し示す正典(カノン=ものさし)であるという事実でした。
カトリックの場合、超保守派から超リベラルにカリスマ派、政治的にも極左から極右までいます。なんでもありです。でも、多くの人はみ言葉としるしによって「あの方」に出会っています。そのような出会いがあればどの教会にいても信仰は養われ、「あの方」の復活のいのちに生かされるのだと思います。

Commented by Luke 2007年03月08日(木)08:20

おっしゃるとおりですね。感謝いたします^^

Commented by Luke 2007年03月08日(木)08:56

ちなみにこの著者は昨年話題になった『ユダの福音書』(http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_1.shtml)の編者のひとりでもあります。ナショナル・ジオグラフィックを読みましたが、その本文に覚える理屈を超えた霊の違和感が偽りであることを教えます。内なる真理の御霊が教えてくださるのです。(CTについても同様の感覚を覚えるわけですが・・・)

Commented by ひろこ 2007年03月08日(木)17:45

今ではあのお方に出会えて、平安の中にいるわたくしです。周りのことはかかわりのないことになりました。もちろん普通のことを普通にしながら、心からであえてよかったと、喜んでいます。

Dr.Lukeの一言映画評

アップロードファイル 36KBパトリック・ジュースキント原作小説の映画化作品『パヒューム』。

以下はチネチッタの紹介より:

それは、昨日まで人だったもの。

舞台は18世紀のパリ。悪臭立ちこめる魚市場で一人の子供が産み捨てられる。名をジャン=バティスト・グルヌイユ。グルヌイユは生まれながらに体臭がなく、神が彼に唯一与えたのは、あらゆるものを嗅ぎ分ける驚異的な嗅覚だった。やがて彼は、天才香水調合師となり、世間を驚かせる芳香を生み出していく。時を同じくして、パリを震撼させる連続殺人事件が発生。被害者はすべて若く美しい娘で、髪を刈り落とされた全裸死体で発見されるのだった…。犯罪史上最も純粋な動機が彼を狂気へと駆り立て、そして物語は、かつて誰も目にしたことのない驚愕の結末へと向かっていく…。

11週間連続1位を記録したあの『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』を抜き、驚異の全世界BOX OFFICE No1!という記録を樹立した本作。原作は、世界45カ国で1500万部も出版された大ベストセラー、パトリック・ジュースキントの「香水 ある人殺しの物語」。永い間、最も映画化の待たれる小説として、その座に君臨してきた幻の小説で、スピルバーグやスコセッシがこぞって映画化権を熱望したと言われる話題の小説だ。その禁断のベストセラーが、『ラン・ローラ・ラン』の鬼才トム・ティクヴァ監督の手により、遂に完全映画化!未曾有の衝撃が、あなたの五感を貫く!(作品資料より)

確かに臭覚は大脳辺縁系の深いところを通るため、人格の深層と密接に関係していることは前にも書いた。ある意味世界の認識が匂いだけになった世界を描いてもいる。で、当初は単なる匂いフェチの人格障害者を描いたサスペンス物と思って観ていたが、ある場面で作者の意図が見えたような気がした。もしかすると私の思い過ごしかもしれないし、少なくとも聖書を知らない日本人には意味不明の作品だろう。その真偽を確認するためにも原作者の個人歴が知りたい。

女性の体臭に惹かれてそれを保存しようとし、若い女性を殺して体臭のエキスを抽出し、それらを調合して究極の香料を作り上げる。当時パリで流行していた「愛と精霊」などはインチキであるとして、それを超える作品を作るわけ。しかし殺人者として囚われ、処刑判決を受ける。が、その執行日、その究極の香料を振りまくとカトリックの司祭からはじまって、怒りに燃えていた群集がトランス(恍惚)状態に陥り、ひざまづき彼を天使としてあがめつつ、恥を忘れた行為に及ぶ。彼に最愛の娘を殺された父親すらも、「私は騙されないぞ」と剣をもって処刑台に登るが、その香によって逆に「私を赦して下さい」と懇願する始末。ついに彼の代わりに別の無実の者が処刑される。かくしてこの香料により世界を支配することも可能となるのだが、彼はパリに戻りオルレアン門から入る。と、自分の誕生した臭い場所において香料を頭から注ぐや、そこにいた人々が再び恍惚として彼を天使とあがめつつ、彼を、なんと食べてしまう!(すみません、オチを明かしました)

何じゃ、この映画は。単なるシュールかつグロテスクな猟奇映画?ここで思い起こすのが、ジョン・レノンの歌。「キリストさんよ、あんたの弟子たちはクサイぜ」と。そして牧師ですらキリストの生まれはローマ兵のレイプによるもので、素性の分からない私生児あると説教する昨今。愛と聖霊はインチキ。民衆が恍惚としてグルヌイユを崇め、彼が手を振るとバタバタと倒れる場面はついヒン様の聖会を連想してしまった。旧約の調合された香油はキリストの御霊を象徴する。キリストの香ははたしてキリスト教から発散されているだろうか。キリストの身代わりの処刑などはインチキであり、彼に赦しを請うことはかの父親のように愚かなことである。そして最後に彼は愛の証として人々に食べられてしまうというカニバリズムのオチ。イエスも言われた、「わたしの血を飲み、肉を食べるならば、あなたがたは永遠に生きる」と。そしてキリストの意味は香油を注がれた者。

いかがでしょう。この映画にはキリスト教の臭さ、いかがわしさ、ペテン性がこめられていると考えるとすべてが解けるわけです。確かにジョン・レノンが言うとおりキリスト教はクサイのです。しかし、ここで見かけのキリスト教を否定することによって、キリストご自身とその御業を否定しまう危険性を、聖書をなまじっか知っている欧米人は有している。すなわちイエス・キリスト御自身を知ることとキリスト教の一員となることの違いが分かることは幸いです。私はイエスを肉において現れた神と信じ、その十字架の贖罪に与るキリスト者ですが、キリスト教を信じているわけではありません。このお方に捕らえられた者であり、キリスト教の教義や神学や実行に捕らえられたものではありません。

イエス・キリストとキリスト教−歴史的にも後者は福音にとって多くのつまづきを与えてきたし、今もなお与えている。だからキリスト者である私にとってもジョン・レノンやこの映画の動機も理解できてしまう。昨年女性と裸で飛び降りた牧師も、イエスは好きだが、キリスト教は嫌いだと言っていたそうな。むしろイエスご自身につまづくならば、幸いなのだ。ここにイエスご自身を知ることとキリスト教徒になることの間には大きな溝が横たわっている。キリストはまさにその愛の動機ゆえに、私たちに食べられるほどに小さくなられたお方なのです。

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

Commented by Luke 2007年03月07日(水)21:28

ちょうどSaltさんの日記(http://sakura.huua.com/cgi-bin/diary04/cdiary.cgi?room=ikemoto7)に本質的ポイントが触れられていました。ちょっと引用を:

----
当事者の思いは当事者にしかわからない。人が自分が体験したことのない人の悲しみや痛みに共感するには、人となられたイエスの味わってくださった痛みとその憐れみの感受性の中に求める以外ないと思っている。クリスチャンの霊とともに住んでおられる方は、人間が経験するすべての悲しみや痛みにどこまでも共感しうる方であるという信仰に立つことである。いや十字架はそれ以上である。十字架の苦しみは、当事者の苦しみを越えている。

そうでなければ、この世の悲しみや痛みはあまりにも深くて大きすぎる。
----

十字架の痛み・悲惨さと今の自分の、あるいは他人の痛み・悲惨さ。どっちが重いだろうか。もし後者が重かったら確かに十字架は人類の包括的救いとはなり得ない。ここで私はイエスの十字架をまだほとんど知らないのだと言うことが分かる。逆に言えば、救いとはこの十字架を知ることがすべてとも言える。イエスとは何者?ますます分からなくなる魅力を持たれたお方。パウロですら言っている:

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・

Commented by イザヤ・ベン・ハー 2007年03月08日(木)11:41

この映画の原作小説は全世界で1,500万部も売れているのですか!驚きました。

森進一VS川内康範

川内氏のあの立派な耳毛には感動した。歳を取るとちらちらと気になって、私などは丁寧に刈り取りをしている次第。その川内氏が水原弘について、「人はどん底まで落ちないと、下を蹴って上がることはできない。アイツを落ちるところまで落とせ」と言いつつ、「君こそわが命」を書いたそうだ。『巨人の星』の星一徹を彷彿とするこの手の逸話はけっこう好きな方でして、川内氏がただ単に因業爺ではないことが分かった。大下氏が「森さんは身を切る必要がある」と言っていたが、相当の腹をくくる必要があるのかも。別の評論家は「川内さんが怒っている間は希望がある。それは愛の現れである」という言葉にはかなり感動してしまった。主とパウロも言っている:

いつまであなたがたにがまんしなくてはならないのか!

ああ、愚かなガラテヤ人よ!

今のニッポンキリスト教からは、イエスもパウロも愛と忍耐が足りないと評されそうですが。叱責されることはけっこううれしいことなのです^^

Commented by ゆっきー 2007年03月07日(水)14:03

芸能界の論争についてはよくわからないのですが、我が国のキリスト教については同感です。
文章を拝見していて、「神の愛のサクラメント(しるし)」という言葉を思い出しました。福音を、神の愛を生活の中で証していくことが私たちの責任なのかもしれません。

Commented by DJ Jerry Eメール 2007年03月07日(水)15:49

ありがとうございます。Dr Lukeのお陰で川内康範氏を知ることができました。かなり僕には刺激になる人物です。これからもっと勉強します。