2007年03月24日

あしたのジョーと団塊世代

本日のNHK教育の特番は面白かった。最近の『華麗なる一族』や漫画『20世紀少年』の時代であり、68年の東大安田講堂の攻防や、よど号ハイジャックなど、私は小学6年くらいで、テレビを通してバーチャルな世界として観ただけ。ちなみに私が学生時代(70年代後半)にも安田講堂はその痕跡を残し、臭いが何となくきな臭かった。

ジョーについては私はテレビで知ったわけで、それほどのめり込みもしなかった。あの虚無感がどちらかと言えば嫌だったかな。「サンドバッグに〜」というあの歌は渋くて好きだったが、むしろエイトマンや鉄人28号だったわけ。力石の葬式が行われた時は、「漫画のキャラクターの葬式?馬鹿じゃないの」と思った程度。

当時団塊の方々は内側に解消されない「何か」の葛藤を抱え、その不完全燃焼している自分の理想像を、灰になって燃え尽きたジョーに投影したようだ。対する力石は打ち倒すべき体制そのもの。しかし猪瀬氏に言わせると、みんなで連帯して垂直に飛び上がったのはいいが、着地する時は個々バラバラ。脚力によって骨折したり、うまく降りて会社人間になった者がいた、という次第。かくして彼らはその時代を総括し切れていない。この世代は壊したがいいが、何も築けなかった。ただひたすら経済大国まっしぐら。それも最後はバブルで崩壊したと。その団塊の世代の抱えた心の空洞をその子供世代が抱え込み、ニートだのフリーターだのといった現象として現れている。団塊の世代とニート世代の共通項は、2ちゃんの病理でも論じたがエネルギーの空転現象だ。
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Commented by ドクターK 2007年03月25日(日)18:39

私のブログで「律法学者やパリサイ人は、結果として神のご計画を遂行した。主のことばによって裁かれた者たちが用いられ、神のご計画が成し遂げられた。不思議ですが、これが神の摂理です」と書きました。

「ニッポンキリスト教界でも様々のたいそうな名を冠した団体があるようだが、どうもそういった団体にはある種の恐怖を感じるのだ」という貴兄のご意見も「神の摂理」の時系列上の一コマである可能性があります。見張り続ける必要はありますが、コチラからチョッカイを出す必要はないでしょう。

私もニッポンキリスト教界に対しては、ブチまけたいことは山ほどあります。しかし、敬虔なキリスト者も確かに居られるです。

Commented by サラ 2007年03月25日(日)20:16

同世代として、何だか書いておられることすべてに納得して、今、胸がすーとしています。団塊の世代の罪と罰・・・毎日、味わっているように思います。若い人の何かがわからないという悲鳴、上を牛耳っている団塊の世代の政治家ぶり、蓋されているものが多いと思います。どちらにも接している微妙な私たちの世代は技の伝承を含めて日本の危機を本気で思います。ルークさん、いつもありがとうございます。

Commented by Luke 2007年03月25日(日)21:17

ドクターKさま、ありがとうございます。いつも啓発を受けて感謝です。クリスチャンが「枠」から解かれることを夢見ているのですが・・・。

サラさま、メールをありがとうございました。「枠」からは自由でいたいと思っております。それにしても私たちもあまり若くない世代となってきましたね。「イチゴ白書をもう一度」では、「もうわかーくないさと、髪をきっった時に・・・・」とありますが。今いろいろな人の様々の転機とも関わり、残された時間を何に捧げるか、問われている昨今です。

Commented by サラ 2007年03月25日(日)23:45

ハレルヤ。「枠からは自由でいたい」。アーメンです。 

得度

本日もプールとサウナはなし(体は疼いているのだが・・・)。長女の大学の卒業式で、朝から着付けやらパシフィコ横浜の国際会議場への移動やら、昼食抜きで4時過ぎまで、ややグロッキー。これで一つの仕事が終わった・・・。うれしいような、さみしいような・・・。

 * * *

アップロードファイル 40KB最近、俳優の保坂尚希氏が得度して出家したとのこと。何でも7歳の時に両親が自殺をしたようだ。高岡早紀との離婚会見などよく分からない部分があり、彼には何か屈折したと言うか、内側に忸怩たるものを抱えているように感じていたが、今回自ら真実を語られ、やや同情を覚える次第。

私も禅にはまっており、静岡臨済寺の倉内松堂師と一緒の写真もご紹介したり、永平寺76世管主秦慧玉師と間接的に関係していることも前に書いた。と言うわけで、実は私も得度を考えたこともあったのだ。今でも雲水には憧れがあるし、禅寺の生活には実に心惹かれる次第。彼らは野心に満ちて脂ぎった牧師先生よりもはるかにサラッと生きている。一言で言えば、捨てる生活。清々として。
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Commented by Luke 2007年03月24日(土)21:56

もちろん、私たちはアブソリュート・ナウに、永遠のあるという方と共に、いや、そのうちに生きるわけ。この方はつねに永遠の現在―あってある。この方と私はひとつ。

Commented by イザヤ・ベン・ハー 2007年03月25日(日)08:44

「前後裁断」とは実数論の「デデキントの切断」と同じ様なものでしょうか?

Commented by Luke 2007年03月25日(日)12:09

これは面白いですね。有理数は稠密(任意の二つの有理数の間には可付番無限個の有理数が存在する)ですが、連続ではありませんから、実数連続体を切ったとき、断端の両者が有理数であることはない(その有理数ではない端が無理数で、かくして稠密性が連続性に至るわけ)、と言うのがデデキントの切断による実数の定義ですね。

物理学的時間論はこの実数の連続に基づいて展開されるわけですが、道元の言う「前後裁断」はニュートン的物理的時間ではなく、主観的時間論だと思います。「今」になり切ると言うか。鈴木大拙は「今に切り込んだ永遠」と言う言い方をしていますが。