* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
再建主義の富井さんがまたまた面白いことを言われています。サタンは妻を狂わして、御国建設を妨げると。
・・・アダムの地上支配を邪魔するサタンの根源的な方法は、「妻を使う」ということである。我々が御国の働きを開始する場合に、奥さんがおかしくなっても驚いてはならない。突然、悪霊が取り付いたように夫に不従順になる。
・・・
あなたが、御国を地上に打ち立てるということを決意したら、奥さんに働くサタンに注意しなさい!
それまでのキリスト教を信じている間には働かなかった霊が働きはじめるから。
・・・
しかし、「地上支配を主張する」カルヴァン主義のキリスト教を一言でも唱えようものなら、サタンは奥さんに働きはじめる。
・・・
再建主義は、普通のキリスト教とは次元のまったく異なる運動である。それは、サタンのもっとも痛いところを突く働きである。だから、霊的な攻撃を受けることを覚悟しなければならない。
聖書にはこうありますね: 御国は私たちの内側に自然と育ちつつあるのです: このいのちのDNAが自然と実をならせますから、安心して主に信頼しましょう。聖書はこう約束していますから:
Commented by kenji 2007年03月08日(木)22:24
最近の主婦は家の奥にいないことが多いようです 汗 あ、そうですね(笑) この方は、奥さんとの間に何かあったんですかね。同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。
あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。
昨日紹介した本では聖書の写本の歴史や本文を再構成する手法などが紹介されており、知的にはかなり面白い。例えば一つ紹介しましょう。
1テモテ3:16に
キリストは肉において現れ、聖霊によって義とされ・・・
とあるわけですが、KJVでは と「神が肉において現れ、聖霊によって義とされ・・・」となっています。
Commented by 千葉ドクターK 2007年03月08日(木)22:08
>そこで正しい意味は、「肉において現れたところのキリストは聖霊によって義とされ・・・」と言うわけです。で、これでキリストの神性が削除されます。 あ、これはフォローを感謝いたします。God was manifested in the flesh, Justified in the Spirit...
この相違はどこから出るかということですが、ある写本を見ると"ΘΕΟΣ"(God)と言う単語を短縮形で"ΘΣ"(上に短縮の記号バーを付ける)と書くそうです。ところが写本を良く見るとこのバーが他の部分とは違うインクで書かれており、後代の付けたしと分かり、しかももっとよく調べるとΘの中の横棒は実は裏に書かれたインクの染みだと分かったとか!つまりここの単語は"ΟΣ"(関係代名詞のwho)だったのです。そこで正しい意味は、「肉において現れたところのキリストは聖霊によって義とされ・・・」と言うわけです。で、これでキリストの神性が削除されます。
皆さん、いかがでしょう。インクのシミとか、ちょっとできすぎだよと感じませんか?(松本清張の小説に油絵の中についていた昆虫の羽根が犯人特定の決め手になったのがあったが、何だか似てるぞ・・・)こうして新約聖書の中にはキリストの神性を明示している箇所はないのだ、と聖書本文学的には結論されるのだそうです。エホバの証人が喜びますね。
ここで問題は聖書テキストだけを相手にして信仰を持とうとする姿勢ですね。信仰は聖霊が内側で私たちの霊に働きかける結果として生まれます。すでに存在する霊的リアリティを語って下さるわけです。ですから原文はギリシャ語であったとしても、日本語訳に触れる私たちでも信仰を持ち得るわけです。白黒の文字で指し示されている霊的事実を実体化することが信仰の作用です(ヘブル11:1、ダービー訳)。かくして理屈を超えて分かるわけですね。そうでなければギリシャ語どころか、日本語すら危うい私たちのような者が救いに与ることができるでしょう。マックスウェルの電磁気学は4つの微分方程式で書かれていますが、それを知らずとも、あるいは試験でちょっと×と・を間違って書いてしまっても、誰でも電磁気の恩恵に与ることができるのです。それが眼です。眼の網膜による電磁気(光)の情報処理手法を知らなくても、単純に瞼を開ければ、光は入ってくるのです。視力は電磁波を実体化するのです。実にありがたいことです。と、思いません?
信仰は望む事柄の実体(substance)であり、見えない事柄の証拠(evidence)である(KJV)
・
まず、第1印象として、ガリ勉の言うことは聞かない方が良いのではないかと言うことです。
早速、提示された第1テモテ3章16節を考察します。
直訳します。
信仰深さの奥義は確かに偉大である。この方は肉にあって明らかにされ、霊において正しいと証明された、御使いにあって見られ、国民の中に宣べ伝えられ、この世において信じられ、栄光によって上げられた。
この聖句から何故イエスの神性が削除されるのか。
主は肉という姿を取る必要があったという全知全能の神のご計画が何故理解できないのか。この直訳から「これでキリストの神性が削除される」という論理が全く理解できません。
「肉にあって明らかにされ」とは、「ことばは肉となって、われわれの間に幕屋を張った」と同義でしょう。「霊において正しいと証明された」とは、主は罪を犯さなかったということでしょう。
「国民の中に宣べ伝えられ、この世において信じられ、栄光によって上げられた」とは、パウロによって成し遂げられた偉大なる宣教活動のことでしょう。この宣教も主による宣教であるとパウロは告白してます。
この聖句の何処に「キリストの神性が削除される」理由があるのか、私は全く理解できません。
一言で言うと、空虚な人々が好む世界なのではないでしょうか。
>ガリ勉の言うことは聞かない方がよい」
確かに(笑)。これらの学者の議論を追っていると、先ず「信仰の否定ありき」と感じます(やはりある種の霊が働くのでしょう)。そこに到達するように写本を選択し、つなげていると言うか。一応方法論なども整っているようですが、所詮は文献学。自然科学系の私からすると何とも稚拙です。せめて統計学的に計量文献学の手法などを使って欲しいと思いますが。
>一言で言うと、空虚な人々が好む世界なのではないでしょうか。
おっしゃるとおりです。