2007年04月09日

誰の信仰?

ガラテヤ2:20はきわめて有名であるが、大いなる誤訳のある聖句でもある。ここのギリシャ語の構造は大変にややこしく、よって訳者の主観を入れて訳してしまうのです。

さっそくDr.Kさまが取り上げてくださり、次のように訳されました。これで大いなる解放が訪れるのではないでしょうか?昨今の人間中心の「○○さんの信仰は素晴らしい」と言ったヨイショ的"証し"を聴くたびに私はうんざりしているわけです。私たちは誰の信仰で生きるのでしょうか?

私はキリストと共に十字架に付けられてしまった結果、今私は死んでいる。
だから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きている。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。

となります。「私は死んでいる」ので信仰を持ちたくても持てないのです。死んだ私に代わって、主イエスの信仰(神への従順)が私を生かしているのだ、とパウロは言っているのです。

主イエスの信仰が私(たち)を生かしているのです。言い換えると、主イエスの信仰によって私(たち)は生きているのです。

ちなみに英訳では、分かりにくい訳ですが、YoungのYLTが一番ギリシャ語に近いと思います:

with Christ I have been crucified, and live no more do I, and Christ doth live in me; and that which I now live in the flesh--in the faith I live of the Son of God, who did love me and did give himself for me

Commented by kenji 2007年04月10日(火)10:35

信仰も私とイエスとではえらい違いですな。

くまえりさまにみる自己の病理

わが故郷の諏訪を震撼させた放火魔「くまえり」こと平田恵里香容疑者に懲役10年の判決。その時の彼女の言にいわく、「これじゃあ、出るときは32歳。20台は人生をもっとも楽しむ時期なのに、刑務所で過ごすなんて、もう人生終わった・・・」。やれやれ、どこかズレていませんかねぇ。まあ、ホリエモンでも同じ印象を受けましたが、視点が自己にしか置かれていない。これが現代の自己愛性人格による「自己の病理」の典型。

ニッポンキリスト教も同じ。自分が大切にされること−これがすべて。あなたは神のVIPと。しかし主は言われる:

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂を失う者は、それを救うのである。

どなたかがBBSに書かれていたが、主イエスが今日ニッポンキリスト教(ばかりでなく、アメリカのメガチャーチなど)をごらんになったらどう言われるであろうか。多分こう言われるだろう、「キリスト教?それはいったい何なのか?」

Commented by まあまあ 2007年05月24日(木)14:12

ところで、国際評論家小野寺光一氏の「政治経済の真実」というブログがあります。
そこには、下記のような記述があります。

http://blog.mag2.com/m/log/0000154606/

>今月号の「創」という雑誌で、くまえり(長野で放火した女の子)の手記が載っていたが、
>そこには、「どうしてあんなことをしたのか自分でもよくわからない」
>「ところで、留置場には、私のお気に入りのパキシルがない。
>私は昔からパキシルをとっていたのに」という記述がある。

>パキシルは、今問題の 覚せい剤類似物質である。

>つまり
>「どうしてあんなことをしたのか自分でもよくわからない」

>「ところで、留置場には、私のお気に入りの覚せい剤類似物質(パキシル)がない。
>私は昔から覚せい剤類似物質(パキシル)をとっていたのに」

>と言っているようなもので、

>本人は、実はその覚せい剤類似物質をずっとお気に入りでとっていたことが、
>衝動的な放火の原因だと知らないのである。

ようするに、くまえりこと平田恵里香容疑者はパキシル中毒だったという主旨です。

神学の罠

前に<カルヴァンvsアルミニウス>の議論が無意味なものであることを指摘した(このBlogの過去ログまたは「ハードコア・セッション」参照)。また今回、ウェスレーの「全き聖化」なるものにある人間性疎外を指摘し、ウェスレーのパーソナリティとその神学が不可分であると述べた。よって神学は「学」足りえないと。これで怒り出す人もいるとは思うが、事実である。

神学は単なる個人的信仰あるいは経験の告白レベルに留めておくべきと思う。無限なる神を人間の言葉の中に固定化する試みなどは恐るべき高ぶりの罪であろう。無限なる神とある種の病理傾向を持つパーソナリティが相互作用して言語化されたものがいわゆる神学に過ぎない。ウェスレー神学はウェスレーの人格(多分、強迫性人格傾向)の反映であって、それ以上のものではない。再建主義にはまる人たちもある種の精神病理傾向を帯びているし、福音派だの聖霊派だの人たちもまた同じ。
... 続きを読む