2004年01月03日

私たちの「花」とは?

それは私の才能の開花でもなく、私のハッピーな人生でもなく、私の教会の拡大でもなく、私たちの内なるキリスト御自身です。

2コリント3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます(※)。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ローマ8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで(※)、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

※メタモルフォーシス:昆虫が成長段階に応じて形態を変え、ついには美しい蝶になるプロセス

主のサムライとは

昨日の日記に早速、典型的ニッポンキリスト教徒から御質問をいただきました。「サムライ」とは右翼的ではないか、と。やれやれ、この方の論では聖書そのものが右翼ですね(笑)

聖書には何とあるか見てみましょうか:

Uテモテ2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。

Tコリント9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

Tテモテ1:18 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。

Tテモテ6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

Uテモテ4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

ヘブル10:32 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

ヘブル11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

現在の「あなたは神のVIP、世界でオンリーワン、ただひとつだけの花、その花をきれいに咲かせましょう」といった「マショマロ福音」はヒューマニズムに過ぎません。こんな台詞はこの世の代表であるSMAPに歌わせておけばよろしい。

まことの福音に応答するには覚悟を要求されます。つまり「あなたは主イエスのために死ねますか?」と。クリスチャンの美的感覚は「散り様」にこそあります。私たちの「花」は私の「死」の上に咲くのです。

あなたがたは死に至るまで忠実であれ(黙示録2:10)−イエス・キリスト