2004年01月15日

武士道−サムライとは−

トム・クルーズの映画の影響で、新渡戸稲造の『武士道』が売れているそうだ−

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000002-mai-l03

私が武士道に惹かれるのはその精神性あるいは霊性のため。かつて禅に入れ込んでいた私は鈴木大拙の『禅と精神分析』との出会いを通して、柳生但馬の『活人剣』などによって剣に惹かれた。

サムライとは「さぶろう」が語源。すなわち「傍にいて仕える者」の意味。自分の命を賭して主(あるじ)に仕える。私は昨今のSMAPよろしく「あなたは神のVIP、なたはオンリーワン。ただひとつの花を咲かせましょう」的な浅薄な「福音」にはウンザリ。福音とSMAPの違いはどこになるのか!?

自己を失うか否か、これが鍵である。ドイツの実存主義哲学者のオリゲン・ヘリゲルの『弓と禅』などを読めば、実は福音に共通する霊性に触れることができる。自己を忘れた世界。自己から離れた世界。人の心に対する洞察と処方は東洋の方がはるかに優れている。柳生但馬は言っている、「およそ心の病とは心が滞ることなり」と。囚われである。

禅も剣も求めるところは同じ。「流れる心」である。「心は万境に従って転ずるところ実に良く幽なり」心がさらさらと流れる時、それは注意が自己から離れたまことの自由の世界。これが囚われない心。霊的ないのちの違いは別として、禅者もキリスト者も魂のいのちの経験は同じ。達人の境地である。しかし鈴木大拙は「わしはイエスが覚者であるとわかるが、聖霊だけはわからん」と言った。ここが両者を分ける分水嶺である。

これ以上の詳細はトピックの

「信仰と精神分析」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/faith_psychoanalysis.html

および

「意識の取り扱い方について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/consciouness.html

をお読みいただきたい。

これからの日本のリバイバルの鍵は、主のサムライが出ることであり、これは少数でよろしい。ギデオンの場合もエリヤの場合も、残された者たちによって神は御業をなされる。人受けする「VIP福音」はヒューマニズムにすぎない。神は「私のためにいのちを捨てる覚悟があるのか」と問うている。

 「ご覚悟はできていますかの、おのおの方。」

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『白い巨塔』がけっこう面白くなってきた。唐沢財前の顔がどんどんケンが立って、悪くなってきているのがいい。設定も以前のものより現代的にヒネリを効かせてあり、別の作品として見ることができる。