2004年01月25日

神の強制?-真の福音-

BBSでも触れていますが、とても重要な論点なので、採録します:

人には自由意志があるが、人がイエスを信じなければ裁かれるのであれば、実質的には神に服従するしかないわけで、自由意志は形だけになるのではないか、という議論があります。

イエスは「信じない者はすでに裁かれている」(ヨハネ3:18)と言われました。"すでに"裁かれている、のです。私たちは自分の意志によらず、親を選んだわけでもなく、誕生させられたわけですが、その時点ですでに裁かれていたわけです。理由は単にアダムの系列に生まれたからです。私は何をする前にすでに有罪判決を受けていたのです。親が負債を抱えているために、子もその負債をいやおうなく負わされるわけです。何という不条理!!!

しかし神はご自分の罪の無い御子に私たちの罪を負わせ、さらに御子を罪とさえされ、その肉体において罪を処罰されました。御子が死んだ時、アダムにある私も死に、御子が復活した時、私もキリストの系列に生まれ直したのです。この罪の無い御子が他人の罪のために死ぬという究極の不条理が私たちの不条理をキャンセルするのです。かくして私たちはこの死と復活―十字架―という逃れ口から脱出できるのです。

スタローンの『デイライト』という映画に、水中に閉じ込められた彼らが、十字架の根元にあった穴から脱出するという場面がありますが、きわめて聖書的(!)です。アダムに生まれたから不条理を負ったのであれば、そのアダムの系列に死んで、キリストの系列に生まれ直せば、すべての負債はクリアにされる、さらにはキリストのプラスの資産が私のものとなる―これが神の恵みによる救いです。私のわざによらず罪人とされたのですが、十字架を経ることにより、私のわざによらず義人とされるのです!ポイントは「生まれ」の問題です。

鍵は自分がすでに判決を受け、刑の執行を待っている罪人であることを知ること、これは御霊の働きによります。御霊が来る時、罪と、義と、裁きについて、この世の誤りを正すのです。

多くのクリスチャンが自分のわざに頼ってガムバッテ、結果クルシチャンになっています。彼らはこの誕生の系列の問題を見ていないからです。誕生の系列を見るためには死と復活を見る必要があります。そこで私は単なる「あなたはオンリーワン」的"福音"を明確に批判しています。それは神の救いの根幹を無にするからです。このような"福音"がはびこっていることも世の終わりの兆候です。

一方では、大リバイバルの預言だ、新しい霊の流れだ、しるし不思議だ、金歯金粉だ、バタバタ倒れるだ、使徒・預言者の回復だ、教会の新しい霊的次元が開かれるだ、天国でパウロに会ってきただ・・・などの「聖霊様現象」を求めるだけの浅薄な傾向が見られます。聖書は何と言っていますか、「あなたがたは初めから聞いていたところにとどまれ」です!イロハのイに戻ることです。原点に戻ることです。座標軸の原点にはx軸とy軸のクロス(十字架)があり、そこには"0"が書かれています。私は0である、これが真の福音のスタートなのです。