2004年05月04日

Dr.ルークの一言映画評−キャシャーン−

家内と実写版「新造人間キャシャーン」を観て来ました^^。隣は「パッション」でしたが。

宇多田ヒカルのご主人の紀里谷氏の作品であるが、ハリウッドの1/10の予算と秋葉原のパーツ屋で集めた自作PCで作ったCGにしては、かなり良い出来。

テーマは愛と憎しみと赦しと復活の希望と!?どっかと似ています。善とは何か、悪とは・・・?イラク戦も重なっており、血もたくさん出ていましたが、絵の具ですから安心でした。

唐沢寿明が悲しき運命の悪の親玉でしたが、どうしても財前教授に見えてしまい、その上あの弁護士のミッチーもいて、なにやら「白い巨塔」を引きずりました。唐沢氏は田村正和と同じで、何やっても同じかも(要するにダイコン)。

私は、映画はとにかく単純にカタルシスができるものがいいです。ハイ。

主の十字架と自分の十字架

ニッポンの病理のコワイところは、「一色」になることである。チャーチスクールが流行ると、われもわれも、と。「パッション」がいいとなると、また同じ。

木村敏という精神病理学者は、分裂病の原因は人と人の「間の病理」であると、言っている。つまり距離感を喪失している。分裂病の方は、あるいは心を病んでいる人は、たいていここに問題を抱えている。昨日書いたように、ベッタリ(陽転移)とその裏返しの恨み(陰転移)との間を揺れ動く。

ニッポンはすでに分裂病であると言ってきたが、ニッポンキリスト教も同じ。はっきり言うが、病んでいる。その距離感の喪失は実は希薄なアイデンティティによる。だからニッポンキリスト教徒は、映画などのメディアで世の中に取り入れられると喜ぶわけであるが、実は世との距離がすでに取れていない。

チャーチスクールやパッション現象を見ていると、ますます私の診立てが正しいことを確信するが、そこから出る予後予測(これはまだ公表していない。多分受けられることはないだろう)にも蓋然性が高くなる。

ただこういう言い方はしておこう。現在はリバイバルどころではなく、純粋な信仰のサバイバルの時代である。そして真理を語ることが、例えばフランスなどのように、むしろカルトとして排斥され、世に媚びるお体裁の「福音」がもてはやされることであろう。

パッションを観て"感動した"人にはこう言いたい:

主がそこまでして勝ち取ってくださったものをあなたは自分の十字架を負って守ることができるか?