2004年05月06日

続「パッション」考

Salt氏がご覧になって、次のように評している:
http://app.memorize.ne.jp/diary/24/57910/

かなりの酷評であり、ある種の人々は彼には霊的感受性がないと言われるやも知れない。しかし私は実はホッとしている。

私が恐れていたのは、本当は血と肉が飛び散ることではなく、"私の主"をそこに見ることに耐えられないことだったのだ。私は私を救ってくださった主がそのような目に会うことを正視できない。もし「パッション」の"イエス"に私のイエスが投影されるならば、私の情緒は多分耐え切れない。これが怖かった。BBSを見ていても、「感情移入できずに違和感が残った」と言う評もあり、再度安心した。

私のイエスはすでに苦難を経てくださり、しかも私はその場面を目撃しないですんだ。「見ずに信じる者は幸いである」と主は言って下さった。今私たちに問われるのは、「私の十字架を負うこと」であり、これこそがまことのイエスの霊的リアリティへと導く。

なぜこのような映画でクリスチャンたちが騒ぐのか、ますます不思議である。このような映画が伝道に用いられると考えているのだろうか。浅薄である。あなたの、そして私の主はどこにいるのか。そして福音の本質とは何か。まあ、このような問題提起をする機会となったことは益であるかもしれない。