2004年03月17日

神の臨在の奥義

このサイトの常連のある方がベニー・ヒン聖会の報告のメールを下さった。そのような聖霊派の聖会と称するところで、"油注がれた器"が導くと「今圧倒的な御臨在にあって神の力強い御業がなされています・・・」と講釈があるそうだが(私はその手のものはまったく参加したことがないので分からない)、彼は「果たして臨在はそのような器によってのみ導かれるものか?」と疑義を呈している。

何でも人々の手をお互いにつながせておいて、完全に静まったところで、「タッチ!!!」と大声を上げるのだそうだ。するとビックリした人がよろけるとその反動が周りに伝わり、バタバタと倒れる人が出るらしい。これが御霊の圧倒的臨在による後倒現象の正体のようだ。これは物理の共鳴現象というか、強制振動現象であり、かつてタコス橋が風に吹かれて崩壊したのと本質的には同じ。これで興奮冷めやらぬ人々がベニー・ヒンを礼賛するのらしい。まあ、ショービジネスマンとしては大した物なんでしょうね。

彼の指摘はまことに本質的な問題提起であり、どうも聖霊派の皆様が求める"臨在"と私が経験している臨在は相当に異なっているようだ。どうも彼らは聖霊様現象を"臨在"と称しているようであるが、私の経験する臨在はイエスの臨在であり、それは感じようと感じまいと、目に見えようと目に見えまいと常に変わることがない。時に体さえもまったく主とひとつであることを覚え、皮膚感覚的に臨在を感じることは確かにあるが、何も感じなくとも臨在は確実である。

彼らにはぜひブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯-神のみ前での修練』を読んでもらいたい。ポイントは感覚の問題ではなく、信仰の問題である。感覚的経験や目に見える現象を求める聖霊派諸氏には、ガラテヤ書の「御霊を受けたのは、信じたからか、律法を行ったからか・・・御霊によって始めたことを肉によって完成しようとするのか」という御言葉を指摘したい。

彼らは律法から自由になるのではなく、どうも肉の放縦に落ちているようだ。律法はいぜんとして生きているし、神は無秩序の神ではない。整然として、聖なる、厳粛な、義なる秩序がある。肉の解放を霊の解放と間違えてはならない。