2004年03月05日

自分の言葉を持つこと

オウム事件の特番があった。中でも林郁夫受刑者のマインドコントロールからの解放のプロセスがよく再現されていた。

カルトで"縛り"に会うと、一番の特徴は自分の言葉を顕著に失う。教祖や指導者の言葉の文字通り"オウム返し"となる。この時独特の違和感("平板さ"と言うべきか)を感じさせるようになる。ちょうどガラス張りのケースに入られているように、その人の姿は見えるが、その人に触れることができないように感じられる。一枚ガラスが間に入ってしまう。

正直に言えば、ニッポンキリスト教と触れていて、同じ感覚をつねに覚える。例えば牧師のメッセージである。ほとんどが同じトーンと内容、喋りぶりから言葉使いまでみな同じである。私のMSGでも時に真似をするが、簡単に真似できるほどにある種の同じ臭いを醸している。そしてまた信徒はその受け売りをもっともらしく繰り返すのみ。

この日記を読まれた典型的ニッポンキリスト教徒の方が、「この日記を読むとルークさんという人が見えてしまう」と言って来られた。これには正直驚いた。日記なのだから見えて当たり前である。この人は何を私に期待し、何を求めているのか。パウロの文書にはパウロらしさが、ヨハネの文書にはヨハネらしさが満ちている。

私は超霊的な"霊能力者"や"聖人"にはなりたくないので、あえてこの日記では普段着の言葉を用いている。この手のWebを開き、霊的な事を書いていると、何時の間にか"ルーク像"が勝手に仕立て上げられ、一人歩きを始める。このような時、私はあえてその像を壊す。人がある期待を私に抱くならば、あえてそれには応えない。私はニッポンキリスト教の牧師像とはまったく異なることを意図している。

ニッポンキリスト教では牧師は信徒が期待する役割を演じ、信徒は牧師に求められる役割を演じており、ひとつの人工的な言葉を共有するのみで、互いの実体に触れることができない。共にガラスケースの中に生きている。

私から見て、すでにニッポンキリスト教はほとんど準カルト化している。

なかなか・・・です(汗)

しかし早いですね、すでに3月。今年もほぼ1/4が終わらんとしています。ルーフバルコニーから冬は富士山がきれいに見えるのですが、日の入りがぐっと北よりになってきています。

う〜む、この春休みにわが部屋の整理を徹底的にと思っているのですが、体がなかなかついていきません。特にこの時期は季節の変わり目でホルモン支配が変化しますので、体がだるくなるわけです。収納家具などは整ってきているのですが、これからトランクルームのあの大量の荷物をもってきて・・・と考えただけで、ボーゼン自失として、めげております。

さて、さて、ポツポツと整理を再開しましょうか・・・。そうそう、この休み中に1日人間ドッグにも行ってこないとね(1年おきに受診しています)。部屋のオーバーホールと共に体のオーバーホールも必要です。

いわゆる検診で出る「正常値」はあまり当てになりません。これは集団の統計学的正常値であって、必ずしも個人の正常値とは一致しません。私は自分の献血の血液検査値を20年にわたって観察しているのですが、個人の正常値は個人のデータの経年変化を追跡する必要があるのです。これはうまくデータ処理しますと初期胃がんなども検出できるのです。

ちなみに私は他の項目には異常はないのですが、なぜか中性脂肪が高いのですね。酒は飲みませんし、食事もきわめて質素で少食なのですが、甘い物に目がないためでしょうか。それと肺の換気機能が弱いのです。肺活量は5500ccもあるのですが、いつもこの検査で引っかかります。幼少時、東京の下町で車の整備士をしていたオヤジの仕事柄、排気ガスを吸って育ち、気管支炎をやったせいかもしれません。

それにしても、「やらねば・・・」と思っていることは多々あれど、体がついていかないこのもどかしさ。歳のせいとは思いたくありませんが・・・。