2004年03月29日

ふう〜ッ

本日はトランクルームから6箱分戻しました。あと10箱位?壁の書庫は充填率50%です。まだ行けますね。自分を騙し騙し、ようやく道のりの半分。あと2日です。ふう〜ッ

 * * *

すごいソフトを見つけました→http://www.softether.com/jp/

Softetherというソフトですが、EthernetのHUBとLANカードをソフト的にエミュレートして、VPN(Vertual Private Network)をインターネットの中に構築できるのです。つまりプライベートLANをインターネットを拝借して構築できるのです。これを使うと大学のPC、自宅のPC、チャペルのPC(サーヴァ)がシームレスに一元的に管理できます。革命的です。

現在自宅と大学からチャペルのサーヴァにはリモートディスクトップでアクセスし、HPの更新なども家からチャペルのPCを操作して行なっていますが、レスポンスのラグがあるのです。しかしこれを使うと自宅のPC上のソフトでチャペルのファイルを直接操作でき、完全にシームレスになります。ただしファイアウォールを透過するので、セキュリティがちょっと問題となりますが。

そしてこの開発者はなんと19歳の筑波大学1年生!驚きですね。ふう〜ッ。

福音派?

「ルークさんは聖霊派と言われることにえらく拒否反応を持っているんですね」とメールをいただきました。ええ、確かに。正直言って、生理的にその臭いに嫌悪感を覚えています^^(すみません、「聖霊派」の皆様・・・)

しかしこれは私が福音派と言うわけでもありません。福音派は福音派のプライドと臭いがあって、これもあんまり・・・です。えらく立派な神学と理論をお持ちのハイソな先生ばかりで、私などはちょっと・・・ですね。まあ、社会派は論外ですが。

というわけですが、これはその「派」の中の個人個人を嫌っているわけではありません。事実私のKFCにはきわめて様々のバックグランドを持っている方々ばかりです。個人はお互いにキリストのいのちを分かち合う兄弟であり姉妹です。また頼まれれば、どこでもメッセージはしています。真理はパブリック・ドメインですから。

いろいろな慣習や教義はそれぞれですが、私たちはそれをすり合わせることも議論もすることもしていません。ただジーザスにフォーカスしてキリストをエンジョイするだけですね。セレブレーションに入り込むとジーザスのみで、周囲は見えなくなります。

ワンネス・ペテンテコスタル?

ジーザスにフォーカスすることと、「ワンネス・ペンテコスタル(AKA:ジーザス・オンリー)」(異端です)の違いはどこにあるのかとご質問をいただきました。まず確認しておきたいことは、私はペテンテステ・カリスマあるいは第三の波などとは一切関わりがありません。つまり「聖霊派」との関わりはまったくありません。

「ワンネス」は、神の三つのパースンズ(複数形)を否定します。つまり聖霊はイエスの霊であるとし(聖霊が「イエスの霊」と呼ばれるのではなく)、父が子になり、子の霊が聖霊であるとするわけです(あるいはイエスが御霊になった)。よってこれはサベリウスの古典的「様態論」のひとつのヴァリエーションです。日本でも「イエスの御霊教会」とかがありますね。(注意:彼らが救いを得ていないとは言っていない。)

神は人との関わりがあろうとなかろうと三にして一ですが(本質的三一)、人とのかかわりにおいても、もし神が三つの区別されそれぞれ自存しかつ同時・同在する方でなかったら、そもそも十字架の贖いが成立しません(経綸的三一)。ワンネスでは、神のご計画が根底から崩れます。この霊的法理はバイブルカレッジでは詳しく話していますが、おいおいHPにも書きましょう。

「聖霊様」or「イエス様」?

ある聖霊派の方が私のメッセージやKFMのワーシップではすべてジーザスにフォーカスしていることで混乱したと言ったきたことがあった。

彼女曰く:「私はこれまで、三人の神様にそれぞれに義理を忠実に果たすために、お父様、イエス様、聖霊様、ありがとうございます・・・と祈ってきたんですが・・・。これから誰に祈っていいのか分からなくなりました。」というわけ。おこられるかも知れないが、正直言って、心の中で笑ってしまった。なるほど、彼らは三神論に落ちている。

神の三一について二つの異端がある。ひとつは「三神論」、一つは「様態論」(ひとりの神があるときには父のペルソナ(面)で、あるときは子のペルソナで、あるときには御霊のペルソナで現れる)である。

今、神と人の仲保者は人なるイエスただおひとりであるとあるとおり、この受肉し、いまだに人であり続けるイエス(イエスは人間性を脱ぎ捨てて天に昇ったのではない)において回復され栄光化された人間性に私たちは与るのである。鍵は人間性である。「霊的になる」ことや「聖化される」ことは、「人間になる」ことである。霊能者になったり、仙人になることではない。人になるのである。

イエスにおいて回復され栄光化された人間性は、父を100%表現していた。よってこの人間性に与るとは、神の御性質に与ることである(2ペテロ1:4)。これは「神になること」ではない。人間性において神の御性質に与ることである。これを初穂として成就された方がイエスであり、そのイエスのなされた事実を私たちに伝達し、実体化してくださる方が御霊である。

ジーザスにフォーカスすることは実は神の三一をすべてあがめることである。聖書はアダムとエバの結婚で始まり、子羊と新エルサレムの結婚で終わる。主賓は誰か、子羊である!神の永遠のご計画は、イエスにあって受肉した神が、花嫁を得ること。これが結婚の奥義である(エペソ5:32)。かくして神の幕屋が人と共にあり、神と人が共に住まう(黙示録21章)。

ジーザスを知ることは永遠のいのちをもつこと。ジーザスをあがめることは三一の神をあがめること。ジーザスに栄光を帰することは三一の神に栄光を帰すること。かくして私たちのセレブレーションは毎回次の祈りで終わる:

神に栄光がありますように・・・・In the mighty Name of JESUS!!!