2004年1月

皆さんの声

このページを始めてから、皆さんからたくさんレスをいただくようになり、うれしく思っております。双方向性を目指しております。ただ、ネチッこいのは、私はあまり気が長くありませんので、ご遠慮願います^^。

Aさん:(昨日の医局と教界の類似について)うちの教会では主任牧師よりか、大奥が・・・。

※ニッポンの家庭と同じようで・・・(笑)。

Bさん:腰痛の養生の仕方を細かく・・・

※先輩、ありがとうございました。

Cさん:本当の福音が分かってきました。ルークさんも負けないでください(昨日の日記への励まし)。

※ええ、私は風がアゲンストになるとかえって燃えます。

Dさん:最近の教えの風がおかしいことがますます分かって来ました。鍵はキリストにとどまること、キリストのうちに生きること。神の教えは単純なんですが、人がアレコレ複雑にするようです。

※おっしゃるとおりです。罪とは見当ハズレの意味です。

ネットはいろいろ問題がありますが、主によって用いていただくこともできるのですね。このHPも一応マルチメディアになってきています。あと少しでもっと回線を早いものにしますので、レスポンスも軽くなると思います。お待ち下さい。

BGM、洒落ていますでしょう。スイング・ジャズです。もちろん主を賛美する曲ですよ。ペットはドリカムのバックのラウルです。

怖くなってきました

『白い巨塔』です。里見も鵜飼医学部長に、原告側証人に立つならば日本では研究ができなくなるかも・・・と暗に脅されるわけですが、この場面は実は医学部だけではありません。

教界でも立派にこの手の話があるわけでして。実は私などもある教会の裏の真実を一部で明らかにしたところ、相手の代理人弁護士から訴えるぞ、との通告書を送られたこともあるのです。まあ、もともと公にするつもりはなかったのですが、通告書まで送られては沈黙するわけにもいかず、行きがかり上その通告書も含めてすべてオープンにしてますがね。他にもけっこう有名な偉い"聖霊に満たされた"センセイからコワイ電話をいただいたりとか・・・(これは内々の話ですから、あまり表立てる必要もありませんが)

ある大きな教会で、有能な副牧師も主任牧師の逆鱗に触れて追放・・・といった事件は事欠きません。コワイですよ。医局も教界も。前から言っておりますが、このふたつ、実に良く似ています。

<主任牧師→副牧師→役員婦人会→信徒代表会→末端信徒>

これは

<主任教授→助教授→看護婦長→医局長→末端医局員>

とパラレルです。

特にですね、医局ではナースステーションを丸く治めること、教会では婦人会を・・・なんです(まあ大奥ですね)、物事を波立てないコツは、ですね。やれやれ・・・。特に組織化されるほどにその傾向を強めます。ある教会では牧師に面会する前に、Aさん→Bさん→・・・→牧師というルートをたどらないとならないそうですね。A,Bさん辺りが婦人会なんです。

また医局にはジッツという勢力範囲がありまして、○○大学系列や系列病院が重要なんですね。教会も○○センセイ系列とかありまして、ある地区で聖会を開くには地元の有力なセンセイに挨拶しとかないと後が大変と。系列外の人が無断でシマに入るとエライことになるようです。

ニッポンキリスト教の深部を知るある方が言っておりました、「今○○のカルト化が騒がれているけれど、こうやって表に問題が出るだけ、まだまともな証拠。一番問題なのは見かけがキレイで何も問題が顕在化しない教会ね、むしろ・・・」と。「う〜ん、なるほど〜」と思わずことばに窮してしまいました。

CD:More Than Enoughの直販

少数だけ直販用を確保しましたので、オーダーフォームからお早めにお申し込み下さい。

腰痛の-峠も越えて-歳並みに

と一句詠みましたが、無理はいけませんね。

うかつに30台のつもりでストレッチしてしまいました。この道の大先輩に(^^)湿布の貼り方など、養生の仕方を御指導いただきましてありがとうございました。

本日は大学にて試験監督を3時間連続で、少々腰にハリがきましたが、何とかでした。

しかし日記は朝つけとくと楽ですね・・・。

 *  *  *

CD"More Than Enough"が届きました。今回は直販する余裕がなさそうです。ことば社流通センター経由で流しますので、ライフセンターなどの店頭でお買い求め下さいm(_ _)m

苦しい〜

と言っても、私の腰痛ではありません。古賀氏です。自分を自分で追い込んでますね、この人は。あの辻元氏といい、古賀氏と言い、クリンなイメージの裏を見事に突かれました。誰なんでしょう、この種の告発をする人々は。世の怖さを感じます。

それにしてもペパダインなんて大学はこれまでまったく知りませんでしたが、つい「卒業」に○をつけたばかりに・・・。アメリカのガッコウを出るとカッコウ(箔)がつく、そろそろねえ〜。

前にCLCの洋書部で本を探していると、若い神学生が必死の形相で店員に問いかけていました、「今夏休みで日本に帰っているんだけど、○○という本の訳本ないですかあ〜。試験の対策しなくちゃあならないんですぅ〜」。

この学生、多分親が牧師なんでしょう。二世牧師として立派に講壇に立つためにはアメリカの神学校を出なくては、と。ところがとてもとても学力と霊性が・・・。哀れなものです。この人も、将来彼の"牧会"に与る人々も。

何を求めるのか?

「地の塩ミニストリー」のSaltさんが面白いことを書いていた(彼の書き物はいつも実に面白いですが)。牛どん屋に牛肉がなくなることは、教会からキリストがなくなることと同じだと。またアメリカ産の"霊的肉"はよほど要注意であると。

いや、言えていますよ。アメリカ産の聖霊様現象を求める人たちは何を求めているんでしょうね。不思議な人たちです。霊的BSEにかからないことをお勧めしますが。私たちが食べるのは純粋にただイエスのみです。ペンテ・カリスマで傷ついて道を見失っていた若い姉妹が、イエスの愛に目覚めた証を下さり、ついジーンとしております。彼女が明確に「私はイエス様を信じます」と宣言してくれて、私も大いに励まされました。

You are more than enough, Jesus!

ところでこのMore Than EnoughのCDの到着が遅れています。きょう来たメールによりますと、住所が間違っているとかで、配達不能になっているとか。あれあれ。前には届いているのですがね・・・。というわけで、いましばらくお待ち下さい。

  *  *  *  *

腰のお見舞いのメールをいただきましてありがとうございました。きょうは1日、抗炎症剤を飲み、腰にテーピングをして、休んでおりました。いや、しかし上を向いたまま動けないの切ないものですね。パウロは「地上の幕屋の中でうめいている」と言っていますが、私も早く脱ぎたいものです。

ちょっと参った・・・

以前ストレッチの際、首スジをひねって肉離れを起こしてしんどかったのですが、今度は腰をやってしまいました(汗)。こうやって椅子に座るのがキツイこと。高校の時椎間板ヘルニアをやったのですが、もともと腰が弱いのですね。次女もバスケ選手で、私よりも背が高いのですが、しばしば腰に来ています。家系か・・・。

どうも知らず知らずのうちに、気持ちと体の実情との間にけっこう大きなギャップが生まれているようです。気持ちはまだ学生気分なのですが・・・、これ以上は言いたくないです(苦笑)

希望は:―

 外なる人は日々古びても、内なる人は日々新たにされる(コリント書)

では寝ます。ナイナイ。

神の強制?-真の福音-

BBSでも触れていますが、とても重要な論点なので、採録します:

人には自由意志があるが、人がイエスを信じなければ裁かれるのであれば、実質的には神に服従するしかないわけで、自由意志は形だけになるのではないか、という議論があります。

イエスは「信じない者はすでに裁かれている」(ヨハネ3:18)と言われました。"すでに"裁かれている、のです。私たちは自分の意志によらず、親を選んだわけでもなく、誕生させられたわけですが、その時点ですでに裁かれていたわけです。理由は単にアダムの系列に生まれたからです。私は何をする前にすでに有罪判決を受けていたのです。親が負債を抱えているために、子もその負債をいやおうなく負わされるわけです。何という不条理!!!

しかし神はご自分の罪の無い御子に私たちの罪を負わせ、さらに御子を罪とさえされ、その肉体において罪を処罰されました。御子が死んだ時、アダムにある私も死に、御子が復活した時、私もキリストの系列に生まれ直したのです。この罪の無い御子が他人の罪のために死ぬという究極の不条理が私たちの不条理をキャンセルするのです。かくして私たちはこの死と復活―十字架―という逃れ口から脱出できるのです。

スタローンの『デイライト』という映画に、水中に閉じ込められた彼らが、十字架の根元にあった穴から脱出するという場面がありますが、きわめて聖書的(!)です。アダムに生まれたから不条理を負ったのであれば、そのアダムの系列に死んで、キリストの系列に生まれ直せば、すべての負債はクリアにされる、さらにはキリストのプラスの資産が私のものとなる―これが神の恵みによる救いです。私のわざによらず罪人とされたのですが、十字架を経ることにより、私のわざによらず義人とされるのです!ポイントは「生まれ」の問題です。

鍵は自分がすでに判決を受け、刑の執行を待っている罪人であることを知ること、これは御霊の働きによります。御霊が来る時、罪と、義と、裁きについて、この世の誤りを正すのです。

多くのクリスチャンが自分のわざに頼ってガムバッテ、結果クルシチャンになっています。彼らはこの誕生の系列の問題を見ていないからです。誕生の系列を見るためには死と復活を見る必要があります。そこで私は単なる「あなたはオンリーワン」的"福音"を明確に批判しています。それは神の救いの根幹を無にするからです。このような"福音"がはびこっていることも世の終わりの兆候です。

一方では、大リバイバルの預言だ、新しい霊の流れだ、しるし不思議だ、金歯金粉だ、バタバタ倒れるだ、使徒・預言者の回復だ、教会の新しい霊的次元が開かれるだ、天国でパウロに会ってきただ・・・などの「聖霊様現象」を求めるだけの浅薄な傾向が見られます。聖書は何と言っていますか、「あなたがたは初めから聞いていたところにとどまれ」です!イロハのイに戻ることです。原点に戻ることです。座標軸の原点にはx軸とy軸のクロス(十字架)があり、そこには"0"が書かれています。私は0である、これが真の福音のスタートなのです。

主イエスとの一体感

また家内と映画を観てきた。題して「タイムライン」。タイムマシンで14世紀に戻った考古学者のアドベンチャー。ちょっとドラえもんの長編冒険編みたいな感じ。

  *  *  *  *

わが家のマンションは傾斜地にあるため雛壇式で、バルコニー側は10階、玄関側は1階となる。1階側の向かいは県立の大きな公園、三ッ池公園があるが、この時期ここをウォーキングすると、高村光太郎的に「キッパリと冬が来た」と体がピシリと締まる。高村光太郎は「ぼくの前に道はない、ぼくの後に道はできる」と言ったが、私は「ぼくの前に道がある、道であるイエスがおられる」と詠みたい。

ここは大名屋敷的庭園に3つの池があり、水鳥が優雅というか、寒そうに丸まっている様はちょっとわびしさも感じる。春は桜が満開で、お花見が最高であるが、冬枯れの様もまたおかし。ここを手を広げて歩きつつ祈り、また主を思うとき、主との深い一体感に包まれる。臨在が濃厚にされ、心も、また体もなぜかホカっと暖かくなり、涙腺がゆるむ。

  *  *  *  *

デジカメにはまりそうです。きょうの寒さの中、空には雲ひとつなく、夕日がすばらしかったので、さっそくカシャリと一枚。

題して、「夕日に浮かぶ富士」―
http://www.kingdomfellowship.com/Announce/fuji040123.html

まことの権威とは?

現代的アレンジで唐沢版『白い巨塔』、けっこうよくなってきました。俳優が軽い分、設定などのヒネリがそれぞれに効いており、原作にないスパイスで味を引き締めています。

世の中、すべからく平板化されてきており、東大教授と言っても昔のような威厳はありません、が、それでも医学部だけはそれなりの雰囲気が残っています。しかし最近ではボロが次々に暴かれてきており、最後の"権威の牙城"も崩れ落ちんとしていますね。

(医者にかかるときには二股かけましょう、キレイに言えば、セコンドオピニオンを求めることです。)

対して教界では牧師先生族が懸命に自らの"権威"を主張し、「神に油注がれた牧師に逆らうと聖霊に逆らう罪で、赦されない」とか・・・。こんなことを口走るセンセイからさっさと離れましょう。自らの口で自らの霊的権威の欠如を告白しております。と言っても、牧師の"権威"などはとっくに地に落ちていますが。

クリスチャンは「自分は単なる平信徒」といった価値観に縛られてはなりません。神の前に等しく、みな祭司、預言者、油塗られた者なのです。権威の源は主イエスのみです。主に服すれば服するほど、安息が増し加わり、同時に権威を帯びるでしょう。権威の兆候は平安と安息です。

ニッポンキリスト教がリバイバルするためには、私は体質改善などという漢方処方ではなく、ラディカルな御霊による諸刃の剣である御言葉を用いた外科的オペが要ると思っています。しかし、メディアにはあまり期待できそうもありません。信者一人ひとりにかかっています。

中には牧師の権威の回復がリバイバルの鍵だとのたもう御仁もいるようですが、まあ、言わせておけばよろしい。まず一人ひとりが神のみ前にまず自立すること、これがリバイバルの第一歩です。今ある教会のカルト化が問題となっていますが、実はニッポンキリスト教全体が準カルト化しています。すでに既成の枠組みの中ではできませんね。・・・覚悟が必要です。

この世の子は・・・

光の子よりも賢いと聖書に書いてある。われわれがもしわれわれ自身で、この世の勢力とガチンコ勝負するならば簡単に負けるだろう。私たちの勝利は「キリストにあって(In Christ)」のみ保証される。

民主党の古賀氏が学歴詐称疑惑で渡米して自ら事実関係を調べると言う。しかし飛行場における彼の目がすべてを語っていた。先にも書いたが、アメリカで勉強して「箔」をつけるというオツムの構造で墓穴を掘ることになった。気の毒と言うか、愚かというか。

渡米などするまでもなく、自分が一番良く知っているであろうに。私などはいまだに単位が取れずに留年することが決定して真っ青になる夢でうなされるくらいである。目が覚めて、ああ、夢だった、そうだ僕は卒業したんだ、と安心するのである。

で、実は本件発覚の裏にはもちろんあの人がいる。山拓さん、あなたでしょ。暴いたのは!女性スキャンダルで選挙は惨敗でしたが。古賀氏よりははるかに世慣れている人である、この御仁は。

私がこの世の情報を仕入れるWebに論壇がある(リンクは避ける)。これは泣く子も黙る総会屋さんのページであるが、以前(97年)内部告発として拓銀融資のライベックスが3月に不渡りを出し拓銀は危ないとの予告があり、それが的中し、追って7月には拓銀が破綻したほどに、アブナくも正確な裏情報が集まる。

前に書いた裁判でここが私たちをバックアップしてくれたこともあって、折にふれて覗いているが、生き馬の目を抜くこの世のあり様が手に取るように分かるのである(うちの大学もしばしば話題となっているが・・・やれやれ)。クリスチャンはこの世から隔離されると容易にカルト化する。世に染まらず、しかし世と関わるバランスが大切。主も「あなたがたは世にあるが、世のものではない」と言っている。

軍隊に守られる自衛隊

って、不思議な光景ですね。オランダ軍の兵士はどんな気持ちで自衛隊を守っているのでしょう?

日本はどこかすでに偽り事の上に成り立っています。分析的には強迫反復なんですが。それにしても犠牲者が出ないことと、テロが起きないことを願います。

新しいモノは・・・

私は今こうやってWWWサーバやメールサーバを自分のPC(これも自作です)内に設定したり、HPも自分で作ったり、また大学ではJAVAを教えたりもしているのですが、実は新しいモノにはカナリ抵抗感を覚えるのです。

95年にWindowsが出たとき、PCを持ってないオジサンまでもが大晦日の騒ぎのような盛り上がりムードにおされてWindowsを買い込むという笑い話があったほどですが、私はと言えば、実に冷ややかに観ていました。それまで8ビットのマイコン時代から来ている私は、真っ黒な画面のMS-DOSにファイラーのFDですべてをこなしていたので、それで別に不便はなかったわけです。

CP/Mの64KB(!)のメモリ空間をすべて把握しつつ、Biosのシステムコールを駆使しながらZ80のアッセンブラでプログラムを書いていた私たちは、Windowsのような人が仕掛けた環境の中で、人の組み立てたプログラムに"使われる"のが嫌で、約1年半時代の波に逆らっていたわけです。しかしついにインターネットをするにはMS-DOSでは駄目でして、97年にようやくWindowsを導入しました。

インターネットの前はパソコン通信というのがありまして、今のNiftyやNECのPC-VANなどでごくちんまりとメールなどの交換をしていたわけです。思えば85年ごろでしたか、エプソンがパソコン通信の実験を始めるというわけで、それに参加したのですが、300ボーの音声モデム、それも受話器をグサッと差し込むヤツで(知ってている人はかなりのオタク!)、トロトロと実験していたわけです(これが周りで音を立てるとただちに文字化けという代物なんですね)。それでも画面に文字列がゾロゾロ出てきただけで感動したものでした。

さて、そういうわけで何だかマイクロソフトに屈服させられたような感じでWindowsとの付き合いが始まったわけです。MS-DOSですと自分が入れたソフトのファイルを確認しながら使えるのですが、Windowsは中が見えない。これがエラク不安なんですね。そこで今でもWindows版FDを用いて、窓にアナを空けて中のファイルを見ながら使っている次第。

メモリもCP/Mの64キロバイトからMS-DOSの640KBになり、さらに仮想メモリ空間などを駆使して1Mもあれば十分だったのが、今や1G!HDDに至っては120Gそこらは当たり前。ビル・ゲイツですら80年代にはMS-DOSの640KBで十分だと預言していたくらい。この技術の発達はまったくおそろしいほど。かくしてPCがすべてネットでつながり、それぞれのリソースを共有できるようになったわけですが、ハッカーやウイルスの蔓延で防備も必要となったわけです。ケータイも絶対持つまいと思っていたのが必要に迫られてついに持つ羽目になり・・・と(しかし実はこれが使いこなせない)。いやはや、時代の流れについていくのは汗をかきかきです。

で、長々前説を振った後、何を言いたいのかと言えば、私もようやくデジカメ(しかも中古)を買ったのですね(何だよ、それだけ、という声が聞こえます・・・汗)。それまではCanonの1眼レフEOS-Kissで撮り、それをスキャナーで読んでいたわけで、それも二度手間でばからしいと思い至り、新品はやめて2年前の中古品をようやく買いました。

手始めにわが家のルーフバルコニーから冬は富士山がきれいに見えるので撮ってみました(ちょっと送電線がうるさいですが)。観てやって下さいませませ。

http://www.kingdomfellowship.com/Announce/Fuji.html

デジカメはどうもシャッターが下りるのが遅いような・・・いや、最新機種はもっといいのかな?

「正しさ」とは?―霊と魂の分離―

▼クリスチャン系のBBSを見ていますと、いやはや、ニッポンキリスト教徒は議論好きですね。互いに口角泡を飛ばして譲らず・・・。疲れるでしょうに。

▼そもそも自分の主張の正しさを論理の正しさによって訴えることが自体が問題なんですね。ゲーデルの「不完全性の定理」というのがありまして、論理の限界が明らかにされているのです。どうも神学者やモドキの人にはもうちょっと勉強していただく必要があるようです。

▼結局これらの主張の中心にあるのは、どちらの側にせよ、「自己」なのです。この「自己」を否定されることは決して認めることができないわけでして、これはアイデンティティに関わるからなんですね。自分の正しさを主張して譲らないのは、エデンの園で「善悪を知る知識の木」の実を食べて、霊の死によって真のアイデンティティを喪失したがために、魂の肥大化を起こし、そこに「自己」を置いている人々の悲しい性です。

▼BBSにも書きましたが、私はいわゆる聖書的整合性のある理屈は好みません。それが一部の隙もないかのように理路整然と組み立てられていればいるほどに、実はその霊的内実の空虚さを露呈するからです。啓示は矛盾だらけです。例えば、「3パースンズにしてひとりの神」など。

▼実存を知性に投影する時には必ず矛盾が生じるのですが、禅ではこれを嫌います。直接経験を大切にするわけです。禅的哲学者の西田幾多郎は理性を超えた実存の純粋経験を「多即一の絶対矛盾的自己同一」の経験であると言い、鈴木大拙は「AがAであり、同時にAでない」という「即非の論理」を提唱した。物理的実在である電子ですら、知性に投影すると、粒子であり波でもあるという矛盾した像を見せるが、人間の知性に対する神の挑戦でもあるように感じる。「わたしの創造、さらには創造主であるわたし自身があなたのその小さなオツムに入りきるかな?」と。

▼どうもニッポンキリスト教徒は頭は(中途半端に)でっかく、霊がまことに小さくかつ弱いようである。

 
 >神は霊であるから、霊と実際によって礼拝せよ(ヨハネ書)

 >人は知性によって神を認めるに至らなかった(ロマ書)

オジサン・ロッカー

森本さんの番組で、40,50台のオジサンの間で、60,70年代のロックを演奏するバンドが流行っているとやっていた。いいオジサンがエレキとドラムと汗まみれでシャウトしている様は、ある種の寂しさを覚えると同時に、ほほえましくも、ついエールを送りたくなった。

奥さんに24万円のベースをねだると、見事に却下されて撃沈されるオジサンは何ともほほえましい。昔の写真を披露しながらのコンサート風景はけっこういけてましたね。髪をボサボサにしてた大学生時代にかなえられなかった夢をかなえるオジサンたち、ぜひガムバッテ!

思えば小生もイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」にはまっていた時代もあります。95,6年頃にはよくLAに行ったのですが、この歌のモデルになったホテルがビバリーヒルズにあるのですね。見て感激したものです。今車の中でもよくかけるものですから、子供達がけっこうはまっています。

きのうも書きましたが、最近CMでメリー・ホプキンの「悲しき天使」やドラマで「Let My Name Be Sorrow」が使われていて驚いている次第です。プロデゥーサーがわれわれの世代なんでしょう。いや〜、思えば遠くへ来たもんだ。何しろ長女は来年成人式です。う〜ん、私も立派なオジサンですよね^^

  *  *  *  *

いよいよ回線がジャムってレスポンスが悪くなっていますね。今チャペルの回線を40M-ADSLに変えています。PCも高性能のものを入れて、サーバを立てますので、しばらくの御不自由を御寛恕のほどをお願いいたします。

ヤクザが来たりてイラク国民を解放した!?

イラク戦についてはクリスチャンの間でもケンケンガクガク。最近ケン・ジョセフとかいう御仁がよくTVでも出ており、アメリカは確かに国連決議によらず、独走したが、イラク国民が爆撃によってフセインの圧制から解放されることを喜んでいるので、以前はイラク戦反対であったが、自分は間違っていたとか語っているようです。

ある人に言わせると、フセインの横暴を警察(国連)に訴えたが取り合ってくれずにいたところ、ヤクザ(アメリカ)が介入してくれて、フセインの圧制から解き放ったようなものであるとのこと。やれやれ。

この人たちのこのような「信仰」は正直言ってコワイ。彼らは「御心が天になるとおり地にもなりますように」という主の祈りをどのように祈るのであろう。神の統治は愛であり、同時に義である。ヤクザによって解放されたイラク国民はこれから真の苦しみを経ることであろう。

面白いのはディスペンセイション主義のプレミレ的終末論(レフトビハインド系)を取る人は聖書の預言どおり世界は混沌の度合いを増しており、携挙と再臨が近い兆候だからむしろこのような事態は歓迎されるし、ポストミレの再建主義者によれば神の統治権を犯すものであり、よって断固糾弾すべしとなる。同じ聖書に立って正反対の評価が出ることはきわめて興味深い。

私はと言えば、プレミレであるが、前艱難期携挙は取っていないし、再建主義ではないが神の統治権をアメリカは犯していると前から言ってきた。アメリカは神に委ねられた権威の一線を越えている。よって神の裁きはあるだろう。神は人類の罪を結果として用いることはあっても、ブッシュはイスラエルの利益のため、また預言成就のために神が格別に建てたすばらしい神の器であるなどは、ほとんどカルト思考パタンである。

イラク戦が開始の際にも書いたが、主は何と言っているか、

 剣を取るものは剣によって滅びる

ブッシュよ、神の公義による裁きは貴殿の上にある。ネオコンに支配されたアメリカの命運は明らかである。

参考:イラク戦開戦に当たって→http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/Iraq_War.html
神の御計画と陰謀論→http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing32.html

青い鳥はどこに?

家内と本牧のマイカルで映画を観て来た。題して『ミッシェル・バリヨン』。レーサーの家族を描くサスペンス調フランス映画である。フランス映画はフェデリコ・フェリーニ の『道』などのように淡々とした場面展開が特徴である。『道』は高校時代に見て、その白黒の場面の世界に何とも言えない感覚を覚えたものだ。黒澤の『羅生門』にも通じるかな?これでもか、これどもかというハリウッドに比べてカゲキなストーリー展開や場面があまりなく、平板に話が進む。しかし一応最後にはカタルシスを得られる仕掛けにはなっていた。

さて、さて、日本人にとっては外国はアメリカであり、この世も教界もアメリカへ外遊してくると箔がつくわけ。メディアもひたすらアメリカの流行のおっかけ。何とも自分の浅薄さを証明しているだけである。私はアメリカとはニール・アンダーソンと少し関わりがあるが、他はまったくコネはない。前にも書いたが、アメリカの"油注がれた器"たちから按手だ預言だを受けたと騒いでいる人たちは、どうも理解しがたい。

私はもっぱら英国であり、ヨーロッパである。それもルーツは19世紀にある。フランスのガイオン夫人、オランダのアンドリュー・マーレー、ウイリアム・ロウ、英国のJ.N.ダービー、オースティン・スパークスなどなど。現代でも例えばスウェーデンにはウルフ・エクマンというパワフルな器がいるが、日本ではほとんど知られていない。彼は台湾ではカンファレンスを開いているのであるが。

英国はまあビートルズはともかくとして、最近では映画や音楽などもあまり日本では流行らない。(そういえば、きょう何とかいうTV番組のBGMにメリー・ホプキンの"Let My Name Be Sorrow"が使われていて驚いたが。)アメリカの神学校で箔をつけたお人は、そのことによらず、ぜひ自らの霊性を深めていただきたい。<アメリカで学んできたヒト=すごいヒト>−この刷り込みによるこのような権威付けのパタンからそろそろ卒業しませんかね。

かくしてニッポンキリスト教はどうもアメリカ発のやばい目の器の御託宣をいただき、彼らのオッカケと化し、自らの足元を忘れている。あるいはキムチパワーの韓国系のカゲキな人たちに散々に消耗させられている感じ(ある人は文字通り命まで危なかったケースがある)。もっと落ち着いた霊性のあり方を深め、内なるキリストに焦点をおいて、淡々と、しかし着実な歩みをしませんか?フランス映画のように。チルチルミチルの青い鳥はどこにいましたか?私たちの内にいます方、キリスト・イエス−栄光の望みです。リバイバルとはこの方を見出し、この方に生きていただくことに他なりません。

武士道−サムライとは−

トム・クルーズの映画の影響で、新渡戸稲造の『武士道』が売れているそうだ−

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000002-mai-l03

私が武士道に惹かれるのはその精神性あるいは霊性のため。かつて禅に入れ込んでいた私は鈴木大拙の『禅と精神分析』との出会いを通して、柳生但馬の『活人剣』などによって剣に惹かれた。

サムライとは「さぶろう」が語源。すなわち「傍にいて仕える者」の意味。自分の命を賭して主(あるじ)に仕える。私は昨今のSMAPよろしく「あなたは神のVIP、なたはオンリーワン。ただひとつの花を咲かせましょう」的な浅薄な「福音」にはウンザリ。福音とSMAPの違いはどこになるのか!?

自己を失うか否か、これが鍵である。ドイツの実存主義哲学者のオリゲン・ヘリゲルの『弓と禅』などを読めば、実は福音に共通する霊性に触れることができる。自己を忘れた世界。自己から離れた世界。人の心に対する洞察と処方は東洋の方がはるかに優れている。柳生但馬は言っている、「およそ心の病とは心が滞ることなり」と。囚われである。

禅も剣も求めるところは同じ。「流れる心」である。「心は万境に従って転ずるところ実に良く幽なり」心がさらさらと流れる時、それは注意が自己から離れたまことの自由の世界。これが囚われない心。霊的ないのちの違いは別として、禅者もキリスト者も魂のいのちの経験は同じ。達人の境地である。しかし鈴木大拙は「わしはイエスが覚者であるとわかるが、聖霊だけはわからん」と言った。ここが両者を分ける分水嶺である。

これ以上の詳細はトピックの

「信仰と精神分析」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/faith_psychoanalysis.html

および

「意識の取り扱い方について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/consciouness.html

をお読みいただきたい。

これからの日本のリバイバルの鍵は、主のサムライが出ることであり、これは少数でよろしい。ギデオンの場合もエリヤの場合も、残された者たちによって神は御業をなされる。人受けする「VIP福音」はヒューマニズムにすぎない。神は「私のためにいのちを捨てる覚悟があるのか」と問うている。

 「ご覚悟はできていますかの、おのおの方。」

  *  *  *  *

『白い巨塔』がけっこう面白くなってきた。唐沢財前の顔がどんどんケンが立って、悪くなってきているのがいい。設定も以前のものより現代的にヒネリを効かせてあり、別の作品として見ることができる。

ホッと一息

今日で大学の講義は終わり、補講期間を経て試験、そして冬休みとなる。一応ホッとしている次第。ちなみに私たちの1年は3ヶ月単位で回るのですね。前期、夏休み、後期、冬休みと言う感じです。このリズムにけっこうなじんでいますので、いわゆるサラリーマンのベターとした勤務形態にはとても耐えられません。

外見はともかく、気分的にはいまだに学生気分でいられるのもこのためでしょう。ちなみに私は教会のMSG、バイブルカレッジや大学の講義もほとんどGパンでやっております(てゆうか、ジーンズ系しか持っていない!)。ジャケット(or背広)やネクタイは肩が凝るし、自分らしくなくなるので苦手ですね。家ではもっぱら禅の坊さんよろしく作務衣です。朝起きてバルコニーで裸で乾布摩擦して作務衣を着るとシャキっとするわけ。

  *   *   *

さて、さて、休み中にすること:現在私のPCの中にサーヴァを立ててあり、このWEBはその中から発信していますが、ISDN回線のためジャムるとレスポンスの低下が著しくなってきました。夏にはアメリカの準専用サーヴァを借りたのですが、容量が250Mであっという間にパンクしました。

そこでPCをひとつ新調し(今のは4年前ので、アシュロン1Gですから少々つらい)、チャペルの回線を常接ADSLとして、そのPCにサーヴァを立てます。少しはジャムが解消するでしょう。メールサーヴァも立てれば、kingdomfellowship.comドメインのメアドも発行できます。(ちなみにこのドメインは前に誰かが持っていたのですが、祈ったところ、その人(会社)が放棄して、手に入ったものです。)

で、昨日のチャレンジ項目をどれだけつぶせるか・・・。

レッツ・チャレンジ!

▼う〜ン、ノドがいがらっぽくてどうも風邪か?ついでに胃に来るようで、胃が重苦しい。フルではないと思うが。

▼CDは今英国と交渉しておりますが、向こうでもあまり数を用意していないらしく、値段も若干高めの設定になっています。しかし日本からの注文ということで、格別に計らってくれるようですので、少々お待ちくださいませ。

▼私は1日のうちPCの前で過ごす時間が長いのですが、家の書斎と大学の居室の二箇所にPCがあるわけです。これまでデータをメールで送ったり、FTPサーヴァを立てて、ファイルを交換したりしていたのですが、今回XPのリモートディスクトップを使ってみることにしました。要するに自宅のPCに大学のPCからアクセスして、自宅のPCを大学のPCで操作できるわけです。自宅と大学をシームレスにできるわけです。(しかし70年代後半、4ビット、8ビットのマイコン時代から比べると隔絶の感がありますね)。

▼これも自宅にサーヴァを立てているのでできるのですが、一応使えました。が、何分レスポンスが悪い。回線が細いためですね。最近はこのHPもアクセス数が多くなり、ジャムるとめっきりレスポンスが悪くなり、皆様には御迷惑をかけております。レンタルのサーヴァで容量がGレベルで、回線も太いのですと、専用サーヴァになり結構値が張るのですね(数万/月)。しばらくはチャペルの回線をADSLにして、サーヴァ専用のPCを置きましょうか・・・。

▼これからチャレンジしたいこと。VHSビデオのDVD化。カレッジのレクチャーのデジタル化。セレブレーションのビデオ配信。カレッジのオンライン指導。KFC出版部の設立。チャペルのIT化によるリソースの共有化と事務処理のシステム化。2,3月には少しは着手できるか?

More Than Enoughの発売

を前向きに検討します。少々値段設定が高めになると思いますが。

バラード系、スウィング・ジャズ系、ポップ系と多彩なアレンジです。

ヒルソングと比べても遜色ないと思いますよ。

KFCの立場

前に私どもは聖霊派とは何らの関わりがないと書きました。といって、福音派とも、正統派とも関わりがありませんが。

私のスタートはこれらの既成の「派」とはまったく離れた教会なんですね。ウォッチマン・ニーの流れの教会でしたが(少々問題ありとされています)、89年にそこをよくあるゴタゴタで出たわけです(向こうは除名したようですが)。

そして英国のKFMと関わったのが90年ですから、すでに14年です。コリンは元々聖公会の地区牧師でして、彼は70年代に聖霊のバプテスマを受け、ウォッチマン・ニーの書物で霊的な目が開かれ、独立したわけですが、当時彼はいわゆるペンテ・カリスマは何も知らなかったわけです。

というわけで、私もペンテコステ・カリスマ・第三の波とは何らの接点もなかったわけで、今もありません。私の書き物やMSG、さらに聖霊理解や預言などの賜物の取り扱いは聖霊派とは異なります。もちろん個人レベルでは兄弟姉妹として交わりがありますが、運動や組織などとは明確に一線を引いています。特にアメリカ系の「油注がれた器」たちにはある意味で警戒しております。

私の聖霊理解の原点はアンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』であり、霊的経験は「聖霊様経験」ではなく、イエスとの関わりにあっての「キリスト経験」です。ニーの『キリスト者の標準』あるいは"The Spiritual Man"の影響が大きいですね。預言の理解と経験はニーや彼と交流のあった英国のAustin Sparksによります(日本ではごく一部の人しか知りません)。ニーも英国(ブラザレンなど)との関係が深いですが、私も同じです。

そこで私は日本のいわゆる聖霊派の礼拝がどんなものかごく一部しか知りませんが、どうも私たちのセレブレーションはいわゆるカリスマ派よりも、なおcharismaticであるようです。今回、少しだけ祈りや賛美のさわりだけ御紹介しますが、かなりにぎやかです。

私たちは私たちに対するアノインティング(油塗り)に従っていくだけです。主はヨハネの運命を気にするペテロに「あなたとは関わりがない、あなたはわたしに従え」と言われました。私たちも○○派や○○運動に従うのではなく、私たちに対するユニークな主のアノインティングに服し、従うのみです。

BGMはいかがですか?

バイブル・カレッジが始まりました。今回のは実践編です。ただしレジメなどは著作権の関係で公開できません。

BGMはいかがでしょうか?アレンジが洒落ているでしょう。これは英国KFMの別のアルバム"More Than Enough"に収録されているのですが、この他にもこんな感じのアレンジの曲が何曲もあります。あとYouth向けCD、さらにDVDビデオもあるのですが、日本で販売するかどうか、今検討しています。

原始に帰れ!

これまでのカレッジのレクチャーをすべてテープからデジタル化しようと試みているが、2時間のレクチャーでは1.4Gを超えるため、CD2枚になってしまう。

よって1コース当たり24枚のCDであり、これではカセットテープよりも大変だ。DVD-AUDIOもそろそろ普及してくれれば、1枚に4.7Gかその倍入るので、けっこう行けるかも・・・。

いずれ地方で通学できない方のために、ネットでオンラインのレクチャーコースを設けたいと考えてます。さらにはオンデマンド・ビデオ・コースも行きたいですね。質問やレポートもネットで対応できればと思っています。

しかし実は、けっこうこういったものは原始的なメディアが便利なのですね。昔パソコンが普及すれば紙は不要になると言われていましたが、かえってノウハウ本やマニュアル類があふれています。紙は永遠です!

私などは大学や予備校ではいまだにチョークの粉にまみれて講義していますが、チョークのルーツははるか昔紀元前のエジプトにあるそうです。チョークは炭酸カルシウムですから、私たちはカルシウム不足になることはありませんが(笑)。

教育も同じなのですね。「ゆとり教育」で日本の教育レベルは北朝鮮に負けるが(あの超人的な幼児たちはスゴイ!)、実は昔ながらの暗記とソロバンと書道が大切なのです。論語の暗記や、写経などの機械的な作業を繰り返すこと、手を使い、口で語ること、これが教育の原点なのです。「総合学習」とかわけの分からない机上の空論で日本は下手をすると白痴化の一歩手前にありますよ。信仰も同じ。変な預言を受けるより、キリストのことばを内に豊かに住まわせなさいって(コロサイ3:16)。

なにしろ、「マルクス・エンゲルス」をひとりの人の名前と思っていたり、1/2+1/3=2/5とか、sinθ/cosθ=in/co(※)とする大学生がいますからね(汗)

※正解はtanθですが、彼は分母と分子のsとθを"約分"しちゃったわけ!

久しぶりに

「ちょっとディープなトピック」の更新をしました。実はキャラクターもまだ未完ですし、いろいろ書きたい記事があるのですが、ここ2年ほどメッセージとカレッジで追われており、何となく時間がない次第。2,3月は少し余裕ができますので、更新に努めたいと思います。

長女が車の教習で高速実習をしてきたそうです。ハンドルを握るのに力が入り、かえって車がフラフラしたが、力を抜き軽く手を添えるコツをつかんだら、車は自然と真っ直ぐに走って楽だったと言っております。クリスチャン生活も同じなのですね。記事にも書きましたが、力を抜き、いのちの法則に任せれば律法は自然と満たされているのです。

  *  *  *

CDはいのちのことば社流通センターから流してもらえることになり、全国のキリスト教書店で発売されます。昨年は通販のみでしたが、けっこう売れて、在庫はそろそろ切れ掛かっています。こちらもまた注文して書店に流しましょうか。お楽しみに。

  *  *  *

【お詫び】
本日10時ごろからサーヴァが落ちていたようです。cgiプログラムがフリーズしていたようです。アクセスできなかったみなさんにはお詫びいたします。

精神のアイドリング

「徒然」にも書いたことがあるが、霊的領域では受動性に陥ることは危険性が高い。多くの「明け渡した」クリスチャンたちや「御霊の声」を聞くカリスマ系の人たちが、この罠に落ちている。

最近でもある教会のカルト化がネットのあちこちで話題となっている。この教会もいわゆる「預言」なるものが売りであるが、メッセージを聞いてみるとやたらと「・・・と主は言われます」が耳につく。御言葉から離れた「預言」やイエスから切り離された御霊の「臨在」はきわめて危険である。BBSにも書いたが、KFCは聖霊派(ペンテコステ・カリスマ・第三の波など)とは何らの関わりがない。私は数年前まで福音派とか聖霊派とかの定義や日本の実情はほとんど知らなかった。(まああまり知らないほうがよいかも・・・汗)

しかし、私は精神を安全な領域であえてアイドリングしてリラックスをはかっている。映画鑑賞や、Mr.マリックの超魔術や(今日もSPをやっていました)、口上売りや、さらに温泉やドライブなど。江ノ島の海をぼお〜と見るのも好きだ。UFO番組やネッシーの話なども大好きである。最近ではNASAは本当に月に行っているのか、といったテーマも興味がある。

かくしてあえて騙されることにより、精神の緊張が解かれる。精神は絶えず張り詰めてもだめ、絶えず弛緩していてもだめ。弛緩と緊張、緊張と弛緩がリズム良く繰り返すこと、これが精神衛生の鍵である。

しかし昨年の結婚式でMr.マルークの「チョット魔術」はけっこう受けたので、見るばかりでなく、やる方の快感も知ってしまいました。ちょっとはまりそうな気配です。

  *  *  *  *

BBSでも度々カキコして下さっている、辛口な「地の塩ミニストリー」(http://www5.ocn.ne.jp/~ikemoto7/)のSaltさんが日記を御披露するようになりました。彼は詩人でもあり、ギターの弾き語りもこなし、作詞作曲もできるというマルチな人で、大変面白い視点で物を書いています。御紹介します:

"seasoned with Salt"
http://app.memorize.ne.jp/diary/24/57910/

訂正:「武士道」を書いたのは新渡戸稲造でしたね。

Dr.ルークに会ってみると

私は書いた物で判断すると、重々しく何やらエラソウなイメージがあるらしいですが、会って見るとライトな感覚で、イメージとずいぶん異なるらしい。昨年暮れにもそう言われました。

インターネットで検索してみると、本もやたらと難しいとかで、そんな悲鳴を上げている人もいるそうですが、ビデオは分かり易いと好評です。

パウロは言っております:

人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。

彼も書き物のイメージと本人が相当に違っていたようですが、私の話は楽しいです^ ^。ここのメッセージを聞いていただければ明らかですが、笑いが絶えず起きています。油塗りがあることはエンジョイがあることです。しかし真理はズバリ語っております。

というわけで、バイブル・カレッジのテープは一般にお分けして好評をいただいており注文が途切れないのですが、これまで一部の方々にだけお分けしていたセレブレーションのテープ(2時間)の領布も開始しました。

メッセージ部分だけではなく、セレブレーションの流れが分かります。最近は私のMSGは1時間に収め(昔は2時間しゃべっていましたが)、全体の1/3程度なんですね。実は2/3が大切なのです。

内村鑑三と武士道

そう言えば内村鑑三も武士道を言っていましたね。彼も儀式と伝統で形骸化した西洋経由のキリスト教をかなり痛烈に批判していました。

実は私も内村鑑三とは少し関係があるのです。私が指導を受けた先生がかつての東大精神医学教室の内村裕之教授(鑑三氏の子息)の弟子でして、私も孫の子になるのですね。

軽井沢に内村鑑三記念館があるのですが、彼の気性の激しさは相当だったようです。下宿で隣人が酒盛りをしていると、大きな額に「酒を飲まずに国を憂えよ」とかいう台詞(「断酒憂国」だったかな?正確なのは忘れました)を大書して贈りつけたとか。逸話は事欠きません。彼の本を読むと私などの毒舌は可愛いものです、ハイ。

私たちの「花」とは?

それは私の才能の開花でもなく、私のハッピーな人生でもなく、私の教会の拡大でもなく、私たちの内なるキリスト御自身です。

2コリント3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます(※)。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ローマ8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで(※)、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

※メタモルフォーシス:昆虫が成長段階に応じて形態を変え、ついには美しい蝶になるプロセス

主のサムライとは

昨日の日記に早速、典型的ニッポンキリスト教徒から御質問をいただきました。「サムライ」とは右翼的ではないか、と。やれやれ、この方の論では聖書そのものが右翼ですね(笑)

聖書には何とあるか見てみましょうか:

Uテモテ2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。

Tコリント9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

Tテモテ1:18 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。

Tテモテ6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

Uテモテ4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

ヘブル10:32 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

ヘブル11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

現在の「あなたは神のVIP、世界でオンリーワン、ただひとつだけの花、その花をきれいに咲かせましょう」といった「マショマロ福音」はヒューマニズムに過ぎません。こんな台詞はこの世の代表であるSMAPに歌わせておけばよろしい。

まことの福音に応答するには覚悟を要求されます。つまり「あなたは主イエスのために死ねますか?」と。クリスチャンの美的感覚は「散り様」にこそあります。私たちの「花」は私の「死」の上に咲くのです。

あなたがたは死に至るまで忠実であれ(黙示録2:10)−イエス・キリスト

Dr.ルークの一言映画評−ザ・ラスト・サムライ

家内といっしょに観て来ました。意外でしたね、ハリウッドがこのような映画を撮るとは。

セットや時代考証などもしっかりしていましたし、古い世界の象徴である武士道に生きる勝元と、新しい時代の波に乗り遅れないように小器用に生きる官僚の葛藤をよく描いていました。トム・クルーズはその武士道の霊性に触れて、かつてのインディアン虐殺の良心の呵責から癒されていく。

自らのアイデンティティと民族の誇りを守ろうとする生き方は時代の波に必ず逆行する。最後は反逆者として文明の象徴である機関銃に倒される。しかしその勝元の死に臨んで、官軍がみな帽子をとり、顔を地に伏して敬意を表する場面は泣けました。

このような映画を撮れるハリウッドを見直しました。彼らもある種の深いスピリチャアリティを求めているのです。トム・クルーズが「この地は教会はないが深い霊の存在を感じる」とつぶやくわけですが、非常に面白い。むしろ西洋経由の教会には真の意味の霊性はありません。それはキリスト教文化と儀礼であり、霊的リアリティが欠けています。

『葉隠れ』に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあります。「十字架道」も同じです。今日の、互いに神のVIP、「世界にひとつだけの花〜、オンリーワンでいい」式の、自分の能力を啓発して、ハッピーな人生を送るための"砂糖まぶし福音"のような霊性の浅薄なものはもう十分であろう。

私の本には道元の『正法眼蔵』のことばが書いてあるが、ホンネを言って、礼拝出席者数を密かにオペラグラスでカウントしている牧師などより、禅の師家たちの霊性の方があるかに深いことは認めざるを得ない。

 「十字架道とは死ぬことと見つけたり」-Dr.ルーク

クリスチャンたちよ、今こそ立ち上がり、主のサムライとなる時だ!!!

新年のご挨拶を申し上げます

さて、今年はどんな年になりますでしょう。このサイトも早いもので3月で6年目に突入し、KFCも5月で4年目に入ります。また主が新しい霊的地平を開いて下さることを期待します。

私はカレンダーが好きでして、毎年JCBゴールドカードでただでもらえるカレンダーを楽しみにしている。このシリーズは絵柄が芸術的で、一枚一枚めくることが楽しみです。

それと与勇輝(あたえ・ゆうき)という有名な人形作家(ご存知ですか?)がいっらしゃるのですが、実は私の義理の姉夫婦が彼の日常のお世話しているのですね(芸術家はしばしば日常のことが自分ではできないのです。)。それで彼のサイン入りのカレンダーを毎年もらっているのです。

彼の人形は子供達が多いのですが、何と言うか、生きていると言うか、見れば見るほどある種のリアリティがあり、ついジイっと見つめてしまうのですね。何となく郷愁を誘う世界が展開するわけです。こちらに美術館があります。

「河口湖ミューズ館−与勇輝館−」
http://www.musekan.net/default.asp

こうして、また一枚一枚、主の御前での歴史が刻まれて行きます。

これからもこのサイトを御愛顧いただけますように。

God bless !