2004年10月28日

神の摂理-キリスト教と日本的霊性

今回の地震で車に閉じ込められた母子3人が被災者の象徴とされている。2歳の男児が助かったのは奇跡的であるが、二人を亡くした年老いた祖父の悲嘆ぶりは同情を禁じ得ない。このような時、人は言う:「神はいるのか。もしいるなら何故このようなことを許すのか」と。

このような時に理屈をこねて相手を納得させようとして、神学論争をするのは愚かである。「一般恩恵」と「特殊恩恵」がどうのこうのと言っても、人は救われない。主は言われた、「泣く者と共に泣け」と。このような場面で必要なのはただ無条件に共有する(share)こと。

実はこの共有が難しい。相手の世界や感情に入ることは人にとってきわめて困難なことである。これができる相手がいわゆる親友とも呼べるのであるが、普通はなかなかできない。人間関係のトラブルはほとんどこの共有をし損なうことから起きてくる。かく言う私も心の専門家として「分析」することは得意であるが、共有することはなかなか難しい。

今回のような悲劇において、私たちクリスチャンが被害者と共有ができれば、彼らの神に対する憤りも融けるはず。なぜなら神に対して憤るということは、神が善であり、良き御旨を持っているはずだと潜在的意識で信じているからである。それが裏切られることによって、その期待が強ければ強いほど、上のような叫びとなる。人はけっして「悪魔はいるのか。なぜ悪魔は・・・」とは言わない。悪魔が悪をなすことは自明だからである。

この意味で、神の側に「一般恩恵」と「特殊恩恵」があるとすれば、人の側にも「一般信仰」と「特殊信仰」があることになる。未信者も漠然と善なる神を信じ、期待する心を持っている。トム・クルーズの「ラスト・サムライ」で「この国には教会はないが、霊の存在を感じる」と言っているが、日本にはある種の深い霊性がある。西洋経由のいわゆるキリスト教文化による、とってつけたようなキリスト教会の教えや実行がそれを阻害していると感じるのは私だけであろうか。

鈴木大拙が『日本的霊性』と呼んでいるもの。これが自然と回復され、教会が共有することができるようになるとき、真の日本のリバイバル(霊的覚醒)が起こると感じている。神はイエスとして私たちの脆い人間性を共有してくださるために、自ら降りて下さったのである。聖となることは、金歯・金粉を出すことや天国でパウロと会うことではなく、人になる、ことである。