2005年12月

行く年来る年・・・

何となく部屋を片付けながら、掃除をしてと・・・。

アップロードファイル 42KBアップロードファイル 50KBいよいよ今年も終わります。今年はなぜか富士山に積雪がなく真っ黒でして、趣がありません。で、わが家のバルコニーから見た昨年の富士山の写真をアップしておきます。

では、みなさまも主にあって良いお年をお迎え下さい。

Commented by Luke 2006年01月01日(日)02:13

あ、TBどうもです。そちらのリアルタイムの富士は真っ黒ですね。伊豆の帰りに寄りましたが、雪はなくても道は封鎖されていました。

今年もよろしく。

Commented by emi 2006年01月01日(日)08:02

富士は近づくほどに趣がなくなりますね。
ここからは迫力はかなりありますが・・・

主にある幸いな一年をお祈りいたします。

雑感

午後またまた映画。ニコラス・ケイジの『ロード・オブ・ウォー』。闇の武器商人の実話に基づく物語。結局彼らを利用して武器を途上国に売りつけているのは、アメリカ、フランス、イギリス、ロシア、そして中国の国連常任理事国。表の顔と裏の顔の乖離がすごいわけ。

で、これはニッポンキリスト教界も同じ。このギョウカイ、ビョウキの人々が群れている。表と裏の乖離はこの世以上のものがあろう。私もこの数年、ありがたくも様々な"すばらしい"評判と言うか、数々の"名誉勲章"をいただいた。この世からよりも、むしろニッポンキリスト教界の人々から絡まれるようだ。が、なぜか満足があるのだ。

それは主の御手の中に守られている証拠。病んだ世界で好評判を得ることが何を意味するかは自明のこと。自分自身に対するイロイロな告発に対しては争う必要がない。それは告発者自身の心の有様を露わにするだけだから。議論も同じ。相手の病理性を露わにすればよい。ただし真理に対する挑戦に対しては御言葉を語ることで対応する、が、相手が認めなければ、それは相手の責任なので、それ以上折伏する必要はない。こちらの姿勢として和解の可能性に対してはつねに開いておく。

そして淡々と主を楽しみつつ、寝ている時でさえも主と共に生きること。これで十分。後は「ハードコア」でも書いたとおり、淡々と御言葉を語り、淡々と種を撒くこと。「そうこうしているうちに種は育ち、刈り取りの時期を迎える」。その日に焦点をおいて生きること。こんなシンプルな生き方ができたら、これは大いなる祝福と恵みであろう。

2005年ともあと1日でさよなら。今年新たに出会った皆さん、また以前からずっと知っている方々、主の配剤で関わることができましたことを感謝し、それぞれの上に主の不思議な大いなる御手があるように祈ります。

with every blessing!

Commented by 若松君子 Eメール 2006年01月02日(月)17:02

「告発に対しては争う必要がない。真理に対する挑戦に対しては御言葉を語ることで対応。その後は相手の責任。和解の可能性はつねに開いておく」。今の私に必要な知恵の言葉です。感謝します。
冬休みの残りの時、ゆっくり過ごせますように。

ニッポンの真実

アップロードファイル 18KB

特殊合計出生数が最低更新の1.26。
国と地方自治体の借金800兆。
引き篭もり100万。
フリーター400万。
NEET(ニート)80万。
失業者300万。
自殺者3万超。
全世帯の1/5が年収200-300万。
全世帯の1/5が貯蓄ゼロ。
来たる2006年はいかなる年に?

Commented by リチャード Eメール 2006年01月01日(日)01:24

あけましておめでとうございます!

データを見ると相変わらず日本、サムいですね。
確かに私もこうした日本の状況に心くじけていました。
将来の苦心惨憺な予感と、恐れに満ちていました。
日本の破綻、地震のうわさ、世の終わりに望む反キリストの席巻や迫害、野山をさすらう事なども想定した、苦心惨憺な将来まで想定して、ちょっとへこんでました。

でも、ある時気づいたんです。
イエスというお方と共に歩む人生を、何かカン違いしてないかと。
イエスは既に勝利され、それに連なる私たちは、その勝利の凱旋を共に歩んでいる。その姿こそが真理だと。

主にあって、例えこれらの中にあっても圧倒的な勝利者、これが真実なんですね!
イエスから目を離さず、決して朽ちる事の無い栄冠を勝ち取っていきたいと思います。

今年もまたよろしくお願いします。

Commented by Luke 2006年01月01日(日)02:10

こちらこそよろしくどうぞ^^

そうですね、真実は真実でして、これを無視することはできないわけです。イエスのフィルター無しに世を見ればまさに寒いわけですが、イエスに希望をおくと暖められます。今後、このネガとポジのコントラストがますます開くでしょうね。

年賀状とお歳暮

本日ようやく年賀状を作成。いつもいつも伸ばし伸ばしになるのですね。でも、80年代からの年賀状(家族写真を載せているのです)を見ていますと、わが家の成長の記録にもなっています。子供たちの受験や入学・卒業など、時々が思い起されます。で、もうひとつ、お歳暮をいただくのですが、そのお返しの手はずに追われと・・・。なかなかやる事が途切れません。

温泉三昧

3日間、ゆっくりさせてもらいました。体は精密マシンですから、メンテが要ります。年末のあわただしい時とは拝察いたしますが、皆様もご自愛のほどを。

 * * *

で、帰宅しましたら掲示板にまたまた難しい注文が入っておりまして、今、ざっとご回答しました(ハードコアをご参照下さい)。「余剰価値」についても霊的経済学を述べたいと思いましたが、少々疲れますので後ほど、と言うことでよろしくどうぞ。

北の国から−都路村のご紹介

福島の都路村で知り合いになりました芋久保さん(HN)のBlogです。ご自分で山小屋を手造りされています。「北の国」からの黒板五郎を地で行くような。

芋久保さん、トラックバックしました。メールでお名前間違えてすみませんでした。今後ともよろしくどうぞ!

無邪気さの強さ:T-1days

フィギュアの浅田真央ちゃんは実に強い。プレッシャーもなく、伸び伸びと滑っている。勝とうとしていないし、うまく滑ろうともしない。ただ楽しんで滑っているだけ。あの無邪気さにベテランもかなわない。彼女たちもかなり良い成績を出したが、見ている方がハラハラする。特にラストの安藤美姫(18歳には見えない・・・)は緊張感がビンビンと伝わってきた。

ところが二位だった真央ちゃんにはそれがない。単純に演技を楽しんでいる選手を見ると、観客も楽しめる。実は私たちの信仰も同じ。勝とうとしたり、クリスチャンとして失敗しないように、あるいはうまくやろうと構えると、見ている人たちもハラハラ。無邪気さの中で力が抜けた真央ちゃんスタイルで生きたいと感じた。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

いのちのままに飛ぶ鳥。私たちはキリストのいのちを得ているのです!

さて、小生は明日から温泉であります♪福島でも抜けましたが、さらに力を抜いてまいります。

Commented by うっきー 2005年12月25日(日)22:23

ルークさん こんばんは。
フィギュアスケートは好きでよく見るのですが、今回は特にテレビの前に釘付けでした。
浅田真央ちゃん、かわいい!!
皆が魅了されるのがよくわかります。
無邪気に、のびのびと楽しんでる姿って、人に喜びを与えてくれるんですね。
見てるだけで、ほおっと幸せになります。
ルークさんの言うとおり、クリスチャン人生、そのようでありたいとつくづく思いました。

山小屋より帰還:T-2days

アップロードファイル 5KBアップロードファイル 7KB

福島は今日は快晴。付近の山をS兄弟と息子さんとで散策し、都路牛の焼肉で昼食。白い雪と真っ青な空のコントラストが素晴らしかった。原始生活の山の1日は文明で汚染されたこちらの3日分くらいの感じですね。じっくりといのちの洗濯ができました。

S兄弟との交わりも、「フォーカスはキリスト。残された人生、イエスの魅力を極めること」で決まり。ややこしい神学の議論ではなく、単純に御言葉のみ。いつか彼が下山した際にはメッセージをお願いしておきました。で、1時ごろ福島を出て、高速を飛ばして、今さっき到着。

途中、何となくコンビニで買った谷村新二の懐メロ風CDを聴いていると、ある映画の主題歌の『群青』が流れてきた。この旋律は日本人には実にしみる(※)この映画は戦艦大和の最期と、国のために捧げられた者として、年老いた父より先に逝く二人の息子たちの物語なのだが、ふとその映画の最期の場面が思い起されて、何と不覚にも涙が止まらなくなってしまったのだ。今流しているBGMの御父が御子を犠牲にすることと重なったのか・・・。最近歳のせいか、涙腺がゆるい。

そして今また大和の最期を描いた映画『男たちの大和』が上映中。これからカミさんとレイトショーに行って来ます。あすはメッセージもないので気分も楽なのだ^^で、来週は温泉というわけで、遊んでばかりだ。

(※)私はニッポン人は嫌いだが、日本人でいたいのだ。

Commented by Luke 2005年12月25日(日)22:07

ある映画のタイトルを思い出しました。『連合艦隊』でした。昨日の『大和』はイマイチだですね・・・。

雪見風呂

昨日は天気が荒れて、ノーマルタイヤで雪道を恐る恐る走りました。でも4WDはさすが安定していますね。

今、山奥の村営保養センターで雪を眺めながら風呂を楽しんだところです。ここにいると時間が普段の3倍はゆっくりと流れます。芯から癒されますね。

(しかしここにもネット環境があるとはね^^)

私たちの人生

私たちの人生はカオスであると言いました。決定論(神の意志)と偶然論(私の意志)が区別できないのです。それらは共に綾なされて人生の日々を紡ぎます。私たちの過ちも神の召しを無効にできません。安心して今日一日をいのちのままに生きることです。なぜなら、

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに(詩篇139:16)。

神学者の虚しい議論に巻き込まれないことです。御言葉に書いてあるところにとどまってください。

あなたがたには聖なる方からの塗り油(原語)があるので、だれでも知識を持っています(1ヨハネ2:20)。

その知識とはいのちから生まれるものです。それぞれのいのちに従って造られましたし、それぞれのいのちに従って生きるのです。下のワンコちゃんたちを見てください。安息しているでしょう?

伊丹重三の「マルサの女」の中で、悪の権藤商事会長が無邪気に遊ぶ子供たちを見て、ふと名台詞をもらします:「心は安らかな方がいい・・・」と。安息とは何もしない無為ではなく、いのちにあって信頼し、いのちが喜ぶとおりに活発に生きることです。

終わりました〜♪(T-4days)

本日で大学も終わり。一息です。私たちはこういったリズムがあるのでやっていけるのですね。普通のサラリーマンのように年中ベタ〜と仕事なんてとても勤まりません。主は私の特性をよくご存知でいて下さり、もっとも適切な仕事場を与えて下ったのです。

で、明日は寒気が強いようですが、福島は大丈夫だろうか?

ご紹介

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ブヒさんのおうちのワンコちゃんたちです。実に表情がイイので、ややこしい話が続きましたので(まだ絡んでくる人がいるのですが・・・涙)、お口直しにここでもちょっと紹介します。ニンゲンが失った何かを彼らは持っていますね。それが私たちを癒すのです。

Commented by ブヒ Eメール 2005年12月21日(水)13:35

何だかステージママになった気分で面映いです・・・(>_<)
ちなみに、1ヶ月前ルークさんのメッセージテープを食べちゃって
胃と腸の大手術をしたのはブリンドル(黒い)の方のメグです・・・(*_*;
この子達は毎日朝から寝るまでルークさんの声か賛美の中で過ごしてます・・・(^^ゞ

REDEEMER(贖い主)

今BGMで流している曲は“There Is A Redeemer”という曲ですが、この作者キース・グリーンには逸話があるのですね。曲は前々から歌っていましたが、このような話は初めて知りました。左下のemiさんのBlog(a voice)をクリックしてください。彼は航空機事故で28歳で召されたそうです。今、彼はstanding in gloryしているのでしょう。

Commented by emi URL2005年12月20日(火)19:03

あ、どうも、です。
blogには原文で載せてますので、今晩にでも訳そうと思います。
歌詞は、最後の部分をキースが書いたのですね。前半は奥様のMelodyさん。

Commented by Luke 2005年12月20日(火)21:02

emiさんのリンク先のキース&メロディ・グリーンのストーリーはちょっと感動的ですね。この曲のバックグラウンドを知ると、ますますこの曲の深みに触れることができるような感じがします。ここにもリンクしておきます:
http://www.lastdaysministries.org/keith/history.html

訳詩はご参考までにこちらを:
http://www.kingdomfellowship.com/Kfc/Worship/worship41.html

最後がけっこうジーンと来るのですね。その日を待ち望みたいです。

神がかりのコワサ:T-5days

BBSで「反ユダヤ主義」の話題がありますが、キリスト教界と言うところのコワサは、人の(盲目的)熱心さと神がかりになることなんですね。ユダヤ人は神の選民、ゆえに神聖にして犯すべからず、○○主義や××神学は神の唯一の真理、ゆえに反対する者は悪魔に味方し、神に反逆する者・・・。やれやれ、お分かりになります?

人の血肉的熱心とそれを裏付ける神がかり、これがあれば人は何でもしてしまいます。かつての十字軍しかり、魔女狩りしかり、そしてKING KONGブッシュ(似てたぞ!)のイラク戦と(http://tanakanews.com/f1213Iraq.htm)。

私の本音:普通のノンクリスチャンとの付き合いのほうがどれほど安心していられることか。

クリスチャン、特に熱心で立派な人たちは互いに値踏みし合っている感じがしますね。だから、イロイロな団体に属して、自分は正統だと裏書がないとこのギョウカイではやっていけないらしいのだ。地域の牧師会も派閥ごとに分かれて、互いに値踏みし合っているわけで。なんだかとても疲れることです。と思いません?

神は人になられた―これはきわめて尊い奥義です。

Commented by そうこうしているうちに 2005年12月21日(水)02:14

大分、昔のことですが
お風呂の湯船に入ろうとして、ざばーっとしたとき、

「神が人になってくださった〜〜\(^o^)/」という感動が私の中に溢れ流れたことを、思い出してしまいました。
聖書のことが何も解らずただ、疑いばかりの日々でしたが。
ルークさんのおっしゃるように、主は私たちの普通の日常生活のひとこまで、ひとこまで、とても大切なことを悟らせて下さるんですね。

普通であること!!の中には、ビックリするゆな真理が隠されていたということ。。。
また近いうちに、このことについて書かせて下さいね。
早寝早起きしないと、インフルエンザにかかっちゃうので。それでは!

Commented by Luke 2005年12月21日(水)08:06

はい、楽しみにしております^^

しかし、お風呂で啓示を得るとは、アルキメデスみたいですね。

アソビの病理(T-6days)

私のメッセージで、「霊と魂の分離」とか、「異なる火を炊かない」とか申しますと、何でも心配になる人がいるのですね。「今、自分は霊なのか、魂なのか」とか、「自分は今異なる火を炊いて裁きを受けるのではないか」とか・・・。分かります、この心理状態。要するにアソビがない!

ある聖霊派の人はすべてを聖霊様(私はこの言い方は苦手ですが・・・)に伺いを立てて聞き従うとかの導きを受けて、家から学校まで行くのに、交差点ごとに「聖霊さま、どちらへ行くべきですか」とやっていたら、学校に着けなくなったとか・・・。ほとんど笑い話的ですが、けっこうこの手のビョウキが多いのです。

皆さん、神の導きってそんなにタイトロープを渡るようなものだと思いますか?神は私たちをそんな緊迫感の中に置かれる方だと思いますか?断じてNO!神は安息の神であり、ゆとりの神であり、自由の神であり、私たちを楽しませて下さる神です。

人にはローマ書にあるとおり、自然の人であっても律法の教えるところをなそうとする心、つまり良心(岩波訳では「内奥の意識」)がありますし、さらにマラキ書2:15には「人には霊の残りがある」と書いてあります。

霊と魂の分離とかを神経質に心配するのではなく、普通の生活においてこの自然の感覚に信頼し、素直に従っていればよいのです。それは御霊の導きと矛盾しません。再建主義ではそれを認めませんし、自然に従えば獣姦を犯すと言うほどですが(相当に病的です)、それは聖書の語ることではありません。分かりますか?

霊と魂は相互作用しながら、私たちの心の動きを綾なしています。その時に御霊は私たちの良心と共に働かれるのです。パウロはこう言っています:「私の良心も聖霊によって証ししています」と(ローマ9:1)。これが私の言う「普通の生き方」です。自然ですし、力みなく、滑らかで、楽です。

ただ私たちの肉、特に魂の中に条件付けられたアダム的な価値観や生き方に対しては諸刃の剣よりも鋭い御言葉で手術を受ける必要があります。これによって真に霊のものかどうか見極めることができます。それをして下さるのはオペの達人霊的財前五郎であるキリストです。これは時に従って神が取り扱って下さいますから、安心して任せて下さい。

自分で取り越し苦労して、自分をクルシチャン状態に追い詰めている兄弟姉妹があまりにも多過ぎます。神は私たちの父・パパ・ダディ・お父ちゃんです!パウロはこう言っています:

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

「アバ、父よ」と呼ぶとき、内側が甘くなりませんか?神は甘美な方なのです!子たる自由をエンジョイしましょう!

今年の仕事は終わりました:T-7days

今日でセレブレーションは終了。来週は賛美と交わりの会です。元旦はお休み。一般的には元旦礼拝とかするのでしょうけど、私たちは家族で水入らずで過ごしたいのですね。というわけで、メッセージも新年8日まで更新いたしません。ワーシップは少し長めに収録して置きました。

大学の講義もあと残すところ3日。木曜日から週末までは福島のS兄弟の山小屋に泊まりに行きます。そして来週月曜日からは温泉と・・・。ここのBlogでもややこしい話もあったり(こういったサイトを開いていると変な人たちに絡まれるのは宿命かな・・・^^)、今年もイロイロありましたが、それぞれが主ご自身と主の真実を経験し知ることができたことは幸いでした。これだけが主とお会いする時まで残るものです。

すべては主を知ることのゆえに配剤されてあることを感謝します。

Commented by ブヒ Eメール 2005年12月19日(月)06:51

おはようございます!!
1年間、迷える羊たちのために道案内をして下さり、本当に本当にありがとうございました!!

私には迷いを吹き飛ばす事ができた大きな素晴らしい転機となった1年でした!
この導き・・・イエスさまに心から感謝です・・(*^^)v!!
そしてそして、ルークさん、本当にお疲れさまでした!!
ゆっくり温泉が、待ってますね〜ヽ(^o^)丿
ご家族と素晴らしい時を過ごされますように!!

そして、来年も、どうぞよろしくです!!!

Commented by Luke 2005年12月19日(月)10:59

あ、ありがとうございます。はい、あと6日で温泉♪でもこうして待っている間が楽しいのですね。

まあ、ほんと疲れますね、ニッポンキリスト教界に生息する人々と関わるのはね。曲りくねった人が実に多い。私たちは、来年も、「シンプル・イズ・ベスト」、普通のオジサン・オバサン路線で行きましょう。もちろん主と共に。

ますますの油塗りと祝福をお祈りします。表情が実にイイ癒し系ワンコちゃんたちにもよろしく。

ピグマリオン症候群

って何?と質問をいただきました。ちょっとややこしいことを述べますが、私たちが何かのリアリティ(物理的・精神的・霊的)を認識するとは、それを適切な感覚器を通して内側に取り込み、それを言語化することなのです。言語は世界の映像です。ところがその映像をリアリティを差し置いて大事にすることがあるのですね。

ある所にピグマリオンという彫刻家がいまして、美女の像を造ったのですが、本人を差し置いて自分の作品の像に恋してしまったわけ。これが「ピグマリオン症候群」です。一種の倒錯的状態ですね。

私たちは人と関係するときに、その本人とつねに関係を持つわけで、その経験を通してその人のプロファイルを構成していきます。この人は明るいとか暗いとか、活発だとか内向的だとか。このような何かを記述する言語を「メタ言語」と言います。

カルバンにせよ、ウエスレーにせよ、彼ら自身の神との関係からそのプロファイルを作り上げたわけですが、そのプロファイル書を読んで、本人を分かったつもりになるとしたら、これはおかしいわけです。あるいは本人を差し置いて、互いの報告書を批判し合うと。神学者はメタ言語内でこのような議論をしているわけです。

私たちにはすでに聖書と言う主イエスの第1次のユニークなプロファイル報告書があります。ここにとどまればよいのです。さもないとカルバン神学の講解、さらにまたその講解・・・と言う無限後退性のジレンマに落ちます。ウエスレーについてBBSでどなたがお書きになりましたね。誰々によるウエスレー神学の解釈とか。ナンセンス!

へブル8:11にこうあります:

また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。

主は、「マイ・ジーザス」であり、「マイ・ゴッド」。そしてスウィートな方です。無意味な疲れる論争は専門の神学者に任せて、私たち普通のおじさん・おばさんは主ご自身をエンジョイしましょう。

Commented by ブヒ Eメール 2005年12月19日(月)07:02

神学とは関係ないコメントですみません・・・(^^ゞ
お薬にも「ピグマリオン効果」・・・と云う表現があったような気がします。
確か『信じていることが現実になる』・・・と云ったような意味ではなかったかと思うのですが・・・。
これも、ここから来てるんですか・・・?

Commented by Luke 2005年12月19日(月)11:02

ええと、薬の場合は「プラゼボ効果」と言いますが。特効薬といって砂糖を飲ませるだけでも効果がでる場合があるのですね。薬の「ピグマリオン効果」ってあるのかなあ〜?

Commented by ブヒ Eメール 2005年12月19日(月)16:47

あ〜〜・・・そうでした、そうでした!!
プラセボ効果でした〜〜(^^ゞ!
■ピグマリオン効果■ホーソン効果■プラセボ効果
・・・この3つの「効果」が頭の中でしっかりミックスされてるようでコワイデス。。。汗

ありがとうございました^^!!

Commented by Luke 2005年12月19日(月)19:36

何だか教育学の方で「ピグマリオン効果」ってあるそうですね。生徒を優秀と思って教えると本当に成績が良くなるとか・・・。ホンマかいな?

まあ、人の心はイロイロと騙されているわけで、自分は騙されていないと確信している人が、実は最も騙されているわけですね。何事によらず、疑問を感じる人は幸いです。

Dr.Lukeの一言映画評-キング・コング

昼はチネチッタでシャブシャブの食べ放題。1,980円で90分イヤと言うほど食べられる。ホットの芋焼酎がこの時期イケル。

野外でネギッコとか言う十代の4人の萌え系少女のコンサートがあったが、見てる人が独特の雰囲気を醸したオジサンばかりで、しかもあんな狭いところなのに望遠つきカメラで狙っていた。ロリ系は正直ちょっとキモイ。

映画はけっこう楽しめました。設定はオリジナルと同じで、第一次大戦前後くらいの時代背景。秘境の島に巨大生物が生息しており、そこからコングをニューヨークへ。美女に恋したコングが、彼女を追って大暴れし、エンパイア・ステート・ビルの天辺で飛行機からの機銃照射を受けて哀れな最期を遂げるおなじみのストーリー。

映像はCGを駆使し、ジュラシック・パークのノリでかなり楽しめる。特に巨大昆虫に人間が食べられたりするシーンはコワイ。またエンパイア・ステート・ビルの天辺のシーンでは高所恐怖症の私はつい足がムズムズ。それにしてもこの美女がコングを思いやって、ハイヒール(!)でビルのはしごを上るのはちょっと無理でないかな、と要らぬツッコミを。

年末から年始にかけて、けっこう楽しめそうな作品が続く。いやあ〜、映画って本当にいいものですね。

土曜日の楽しみ

私の休みは実質土曜日だけ。実に待ち遠しい。土曜の朝の楽しみは『ぶらり途中下車の旅』。もう10年近くになるのでは。この番組で紹介される苔のむしたような石垣や、下町の雑然とした町工場の群れ、裏町のさびれた小道や、町のおっちゃん・おばちゃんの生活、手作りの作品の店、ちょっとした粋な小料理屋など、ああ、人が生きている、と言う安堵感を覚えるのですね。

こんな商売していてやっていけるかなとかも思うときもあるのですが、今日のアメリカ式の大量生産・大量消費のメガストアなどにはない、人の営みと温もりが感じられる。LAなどは方眼目盛りのような計画街路で、規格品的な家並みが続き、整然としていてもある種の渇きを覚えてしまう。

日本の町並みは雑然とするようであるが、あの角を曲がると何が現れるか、といったワクワクする作りなのですね。それはまさにカオスであり、複雑系なんですね。日本人でよかったと実感できる番組です。

さて、これからプールとサウナ。午後は『キングコング』を観てまいります。

カウントダウンT-9Days

ふう、今日も一日終わり。温泉まであと9日と。ニンジンをぶら下げて、カウントダウンしている間がいいのですね。食べてしまうとややさみしくなるわけで・・・。

で、どこかイイ温泉を紹介してと兄弟姉妹にも言われますので、Dr.Lukeお薦めの宿をちょっと(伊豆に絞ります):

南楽:瓶の露天風呂があり、天井の低い和屋敷で、色は黒を基調としてものすごく落ち着く。囲炉裏つき和室で懐石風料理を堪能できる。

金屋旅館:何と言ってもプール並みのヒノキ造りの千人風呂。ちょっと古いがそれが魅力。

堂ヶ島温泉ホテル:西伊豆の海辺にあるヒナ壇作りのホテル。三四郎島へトンボロ現象で歩いて渡れる。露天風呂は駿河湾の夕日を見ながら最高。

土肥館:若山牧水ゆかりの旅館。露天風呂には巨大なゴムの木が。太鼓で出迎えてくれる。

玉樟園新井:今年の予定。土肥の老舗。TVドラマの舞台や将棋戦の場としても有名。

伊古奈:温泉婁がみごと。別館への回廊は見もの。

白壁荘:石川さゆりの「天城越え」の舞台となった宿(今日のTVででも紹介されていた)。露天の巨石風呂と巨木風呂がすごい。仲居さんが新宿2丁目系の野太い声で世話してくれる。わさびが最高。

山海亭:駿河湾と富士を一望する露天風呂が最高。西伊豆は魚が新鮮。

湯本館:川端康成が『伊豆の踊り子』を執筆した渓流のほとりにひっそりと立つひなびた宿。夜は星がキレイで、シーンと静かです。

白雲荘:万葉の里。白壁造りの落ち着いた宿。高級な料亭風で、懐石料理が美味い。

北川温泉ホテル:太平洋を一望するロケーションが最高。料理は豪華。食べ切れない。温泉は豊かにあふれている。

黒船ホテル:豪華絢爛のホテル。設備、料理共にすごい。風呂は下田港を一望。実は私どもが新婚旅行で泊まった想い出の処でして、当時はこんなに立派ではなかった・・・。

と言うわけで、これまで訪れた温泉の中でごく一部の思い付いた処をご紹介しました。また思い出したらご紹介します。

主をあがめます

Salt氏のお父上が勝利の凱旋をされたことのゆえに、主を褒め讃えます。

究極のメタ言語

パウロは言っている。

あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

つまりコリント人そのもの、彼らの生そのものがキリストを語るものであり、すなわち彼ら自身がキリストを説明する言語、つまりキリストのメタ言語だと。キリストのメタ言語の特徴は次のとおり。

真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

「生」の共有−鈴木大拙と西田幾多郎

彼らは生涯禅を通じての盟友であり続けた。鈴木禅学と西田哲学の創始者であることは言うまでもない。彼らの哲学は、一言で言えば(禅は「不立文字(ふりゅうもんじ)」であることを知りつつも)、「生きること」そのものを定式化したものであり、大拙は「即非の論理」(A∧¬A、つまりAがAでありかつAでない)、西田は「多即一の絶対矛盾的自己同一」と表現した。要するに私たちの限りあるオツムで静的にこねくり回すと矛盾に見えることが、動的に生きることにおいて、その生的実存において矛盾なく成立すると言うこと。

これは例えば、「神は父・子・聖霊の三位格をお持ちで、かつひとり」と言う、人間の知性には収まり切らない実存が、いのちなる神においては何らの矛盾もなく成立することと同じ。またイエスは神にして人であるわけだが、いのちなるイエスにあっては神性と人性の結合は矛盾なく成立している。もちろんイエスは自分の意志をお持ちであったが、彼の意志は常に父のそれと矛盾なく同時同在し得た。そのクライシスはゲッセマネで起きたが、なおその危機をイエスは十字架によって乗り越えた。

これらを神学では、私たちの知性に納まるように「神は3つのペルソナをお持ちでひとつのウシアを持たれる」とか、「神と人のヒュポスタティク・ユニオン」とか表現するわけだが、これですでにいのちから離れている。神は定式化される方ではなく、いのちそのもの。いのちにあっては、もっと言えば、実存的生そのものにあっては、三が一であって、何ら矛盾はないのだ。

大拙と西田はダイナミックな「生」、「生きること」そのものを共有したが(もちろんアダムにあるいのちではあるが)、果たして今のニッポンキリスト教のクリスチャンたちは、そのようないのちの共有を経験的に了知し得ているであろうか。それとも立体的で動的ないのちの次元から落ちて、いのちを喪失した平板な静的な議論によって、無残な荒れ果てた状況が展開しているであろうか。

娘とデート

長女が公務員試験対策の本を探すとのことで、手伝って欲しいと請われ、横浜のモールの有燐堂で待ち合わせて、しばしの探索。で、その後喫茶店でコーヒーを飲みつつ、1時間ほどを過ごす。周りのおばちゃんたちがチラチラと私たちに視線を送ってくるのに気づいたが、アブナイ関係じゃあないんだよ^^

彼女が生まれた夜のことははっきりと覚えているが、あの泣き声がいまだに耳にこだまする。イロイロあったが、節目節目で主の御手を感じてきた。それが今や就職に向けてアレコレ迷っているわけ。主が道を用意して下さっていることを話し、自分の責任を忠実に果たせばいいんだよと、ちょっと金八先生的な話をしている自分に気づいてしまった。

こうして娘とデートできる当たり前の生活にあって、ますます主の配剤と恵みに感謝するのみ。家の駐車場に車を止めて、ふと空を見上げると、放射冷却がきついだけあって、満月がやけにキレイだった。

Commented by はるえ 2005年12月15日(木)19:57

こんにちは!
素敵ですねー、娘さんと過ごすひと時。
日々のアレコレを本当に楽しめたら、もうどこにいても
イエス様が共におられることを感じられますし、すべては恵みだと思えてきますよね。
結局はその部分(まさに、「そうこうしている」部分」を通り越して、いきなり神学がどーのこーのと言い出すからおかしくなるのかもしれませんね。
でもそれは決して見過ごしていい部分ではないはず。
何せ私たちはふつーにこの世に生きているのですから。
誰と、何を信じて、どう生きていくことでこの世での命を全うしていくか、それを聖書は教えてくれますが、それでもやっぱり「そうこうして」生きていくのがわれわれの姿ですからねー。

Commented by Luke 2005年12月15日(木)21:09

ええ、ある種のシアワセを味わっております^^生身の「生」を忘れた神学などは何の役にも立ちません。ナンセンスの極みです。なぜ日本にクリスチャンが少ないか、また根付かないか、理由はもう明らかでしょう。

(本音:ボクシの「カミっさまわ〜」の金太郎飴的説教を聴かされるより、瀬戸内寂聴や細木かず子の方がよほど琴線・機微に触れますから、ザンネン←もう古いか・・・^^)

Commented by はるえ 2005年12月16日(金)09:16

そうそう、「本音」出しちゃってもいいですよね。それも大切なことだと思います。なんかクリスチャンて本音がイマイチ見えてこない人、多いですけど・・・あれだけ病んでる人が多いということは、何かその本音とか人間として自然な部分を抑圧しちゃってるんでしょうかねー。

ナンセンスの極み(笑)。おもしろすぎます。

閉鎖性の病理

カルバンとアルミニウス(決定論と偶然論)の議論が現代科学ではまったく意味のないことをすでに述べましたが(「いや、神学的には意味があるのだ」と言われれば、「ああ、そうですか、勝手にどうぞ」となります。ますます神学は・・・となるだけですね)、文句の言いついでに、進化論に対する批判について、私はクリスチャンですが、批判してみましょうか。

よくご丁寧にエントロピーを持ち出して無秩序から秩序が生じないことを「論証」しますが、われわれから見ると、足し算引き算しか知らない小学生が、微分積分に異議を唱えるようなものです。無秩序から秩序をエントロピーの法則に矛盾しないように作ることができるのです!これを「自己組織化」あるいは「散逸構造定理」と言います。

また確率論を持ち出して、DNAができる確率は、バラバラの部品を空に投げたらジャンボができる位の確率だとして、自然にはできないことを「論証」しますが、これもナンセンス。

自然数の個数は無限個ですね。では自然数の比で表される有理数の個数は、もちろん無限個です。ではどちらがたくさんありますか?もちろん分数・・・ではありません。自然数と有理数は同じ個数です!しかも任意の二個の有理数の間には無限に有理数があります(これを稠密性と言います)。

さて√2などの実数は有理数ではありません(整数比では表せない)。で、無理数は無限個ありますが、これは自然数や有理数の無限個よりもさらに大きな無限個です(正確には「濃度」と言います)。この有理数と無理数をあわせて実数と言いますが、かくして「自然数の個数/実数の個数=0」なのです(正確には測度論を必要とする)!言っていることが御分かりでしょうか。確率をパスカルの古典論でいじくりまわして「確率が限りなく0に近いから起こり得ない」とする神学者の「論証」はナンセンスなのです!

このように私たちサイエンティストから見ると、こう言った幼稚な進化論批判などはますます真摯なサイエンティストをのけぞらせ神から遠ざけるだけでしょう。独り善がりのオメデタ・キリスト教徒となるわけです。これは神の創造を信じる私ですら、このニッポンキリスト教界と触れているとますます強く感じることです。閉鎖社会の中でメンツを張り合って空回りしているだけの「井の中の蛙」なんですね。

「リバイバル音頭」で酔ったり、「何とか神学」を狂信する前に、もっと真摯かつ謙虚に学ぶべきでしょう。

聖書の読み方

赤子さんがハードコアでとても大切な問題提起をして下さっています。私が神学について苦言を呈する理由もそこで述べておきましたが、神学は単なる「メタ言語」に過ぎないのに、その対象である御言葉に置き換わる危険性を指摘しておきました。御言葉から離れて「メタ言語」内での空理空論に落ちる危険があるのです。(これを「ピグマリオン症候群」と言います)

メタ言語の病理については→科学と信仰

はっきり言って、私はカルバンとアルミニウスなどまったく知りませんでした。が、一応クリスチャンと思っています。御言葉を読む時に、別に神学を知らずとも、御言葉を理解することができます。

例えば、神学で「義認」と言いますが、「義認とは・・・である」などど神学的定言を知らずとも、私は次のようにアプローチします:

ローマ4:6以降で「行いによらず神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があるとみなされない人は、幸いである』」

ここを読めば、「罪を赦され、覆われる」ことがひとつの段階であり、次に「罪があるとみなされない」ことが続きます。ですから私は、神学書など一冊も読んでいませんが、「義とされることは罪があるとみなされないこと」と理解するのです(※)。これが何神学かは知りません。

※Darby訳では欄外注に"not account of him as having any"の意味であるとあります。さらに意味が明確になりますし、確信が沸いてきます。つまり「たったひとつの罪も持っていないとみなされる」のです!

たとえれば、交通違反をして切符を切られますと、罰金を払います。これで不法が赦されます。払わないと逮捕されます。しかし点数は残ります。しかし神は点数も残らないと見てくださるのです。つまり私の神の前の点数は0点です。これが義とされることであると私は理解するわけです。

かくして聖書があれば、神学書がなくても、義とされることを理解することができるわけです。この理解が神学的に正しいかどうか、私は知りませんし、そんなことはどうでもよろしい。私と主との関係はこれによって確信をもち、ますますイエスを慕わしく思え、イエスとの交わりに大胆に入ることができます。

これが神学書など一冊も読んでいない、一サイエンティストとしての私の方法論なのです。

(本音:そもそも主流派とか福音派とか聖霊派なんていうのも知りませんでしたが、知らなかったほうが幸いですね。)

蚕のように・・・

メタモルフォーシスはひたすら霊なる主の働きによる。私たちは何もせず、ただ主にぶるさがればよい。そのとおりです。それは主の責任の領域です。

では、新しいいのちを宿した妊婦はどんな生活をしますでしょうか?そうです、食べるのです。特にカルシウムや鉄分が不足しますから、あえてソレ系食品を食べるのです!胎児のために。

私たちも同じです。蚕のようにひたすら食べる。何を?御言葉です。御言葉はケンケンガクガクの神学論争のネタではなく、霊のいのちの糧、全栄養素をバランスよく含んだ、霊的食品です。頭の痛くなる神学書を読む時間があったら、単純に御言葉を祈りつつ読みましょう。私たちの霊は豊かに潤され、養われます。

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。

ある日、ついに脱皮して、栄光に与ります。

単純と簡単

下で「霊的成長は単純」と書いたら、けっこう気に障る人がいるのですね^^どうもこの手の人は人の書いた文章をそのままに読めないで、自分のオツムの中で勝手に読み込むようです。私は「霊的成長は簡単」とは書いていません!

単純と簡単−お分かりになるでしょうか?

家康とキリスト者

徳川家康:人生は重荷を背負って、坂道を登るが如し。

主イエス:わたしについて来たい者は、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。自分の魂を救おうとする者はそれを失い、わたしのために失う者はそれを得るであろう。

ある未信者:何だか同じだよ〜。クリスチャンになるの、ちょっとまだやめとこ。もう少しこの世を楽しんでから、そう、死ぬ直前に洗礼受けようと思います。

なるほど、現状では正解かもしれない。

クルシチャン諸氏よ、十字架は解放です!自分のために苦しむから苦しいのです。それは逃げようとするから。それは魂の粘着性。

ガイオン婦人は「十字架は甘い。私は私の十字架に口づけする」と言っています。

そうこうしているうちに・・・

主イエスは(Dr.Lukeではない!)、「夜寝て、朝起きて、そうこうしているうちに種は育つ」と言われます。カルバンでもなく、ウエスレーでもなく、バルトでもなく、あのイエスが言われるのです!

日常生活の当たり前を当たり前に、普通のことを普通に行なうこと、これが「そうこうする」ことです。再臨が起きたとか起きないとケンケンガクガクやってる人々に対して、パウロは1テサロニケ4:11で

私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。

とアドヴァイスしています。きわめて現代的なアドヴァイスです。これが「そうこうする」ことの実際です。私は人の本質はその立派なご意見ではなく、日常の些細なことで判断します。

霊的成長って、単純でしょ!

(陰の声:Dr.Lukeは理屈だけで本当の聖化の苦しみを知らないからだと思われた方、長年のクルシチャン生活ご苦労様です。私は主と共に生きることを楽しんでいます^^)

人を変えるもの―メタモルフォーシス

アップロードファイル 78KBオツムのよろしい神学者は言うかもしれません:「人は救われるだけじゃだめ。聖化される必要がある。だから神学の聖化論を学ぶ必要があるのだ」と。さあ、これでまたウエスレー様とかが出てきて、ケンケンガクガクの論争と分裂が起きるわけで・・・!?(とにかく彼らは魂のエネルギーがすごい!)かくしてハードコア・セッションでも赤子さんが問題提起してくださっていますが、クルシチャンを大量生産するのです。

では御言葉は何と言っているでしょうね:

ヘブル12:2−信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

Q.創始者はイエス、では完成者は?

ピリピ1:6−あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

Q.私たちがなすべきことは?

マルコ4:26-29−神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。

Q.種はどのように成長しますか?

妊娠した女性が受精卵の分裂と分化、つまり発生学の知識を持たずとも、胎児は着々と成長するのです。それがいのちの法則だからです。かくして皆さんの中にもキリストが霊的に受胎し、その形ができつつあるのです:

ガラテヤ4:19−あなたがたのうちにキリストが形造られる・・・

これを「メタモルフォーシス(昆虫などが変体すること)」と言います。

それは

2コリント3:18−私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、霊なる主の働きによるのです。

Q.誰の働きによりますか?モーセ律法の適用によるのでしょうか?

そしてパウロは警告しています:

ガラテヤ3:3−あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

Q.あなたはどうですか?これは再建主義者だけの問題でしょうか?

主は私たちにこう言われます:

わたしに信頼し、わたしがあなたに与えたいのちに信頼し、十字架と共に御霊によって働くいのちの御霊の法則に委ねますか?委ねるならば、わたしはあなたを内も外もわたしと同じ姿に変えましょう。」

かくして究極的には

ピリピ3:21−キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

1ヨハネ3:2―愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

あなたは信じますか?

ヘブル4:10―信じた者は自らのわざをやめて安息に入ります。

Commented by まるふぁ 2005年12月14日(水)19:40

>人は救われるだけじゃだめ

以前、しつこい某宗教勧誘に会いました。「私はクリスチャンです」と断っても聞く耳持たず、「論争」を吹っかけて来ました(^_^;
「アナタ、キリスト信じて何かイイコトあったの?」と聞いてきたので、「私は救われました」と答えると、「救われただけでしょ」と。
そこで「ええ、救われただけです。それで充分!もう結構!!」と答えて、やっと打ち切ったのです。

主に出会った、救われた、嬉しい。それだけでホント充分です。それなのに、私の努力でなく、主ご自身がすばらしい御業を顕してくださいますね。

きっと、カルヴァンも、ウェスレーも、「カルヴァン主義者」「ウェスレ―主義者」をつくりたかったのではなく、「キリスト者」でありたかったのでしょうね・・・。
#Lukeさんも、「Dr.Luke主義者」などが出たら辟易でしょう(;^_^A

冬ヴァージョンの装い、きりりとしてなかなかいいですね(^_^) 厳寒の冬の美しさを思わせます。

Commented by Luke 2005年12月14日(水)21:01

>Lukeさんも、「Dr.Luke主義者」などが出たら辟易でしょう(;^_^A

はい、まさに。私は早いとこ山に篭りたいのですね。でっかいチャペルを建てるのもメンドウ。人のお世話するのもうっとおしい。私はどこまでも単なる普通のオジサンでして・・・。

人を救うもの(2)

次の思考実験をしてみて下さい:

ある無人島にひとりだけあなたがいます。全知全能の神は選びの予定に従って、難破船から聖書をあなたの元に流れ着かせます。あなたはたまたま海岸を歩いていて、それを拾って読みます。これはあなたの側から見れば偶然ですが、実は神の手が働いています。そしてあなたは誰からも強制されず、「イエスさま、私はあなたを私の救い主として信じ、受け入れます」と祈ります。

では質問です:

0)ここに働くのは誰の意志でしょうか?

1)あなたは救いを受けることができますか?

2)その際、あなたはカルバン(決定論)とアルミニウス(偶然論)との論争を知っていますか?

3)神はご自分のわざをなすのに、人の組織した神学を必要としますか?

4)無人島で神学書も読めないあなたは果たしてクリスチャンであり続けることができますか?

5)この島の中に互いに異端のラベルを張り合うだけの神学の「派」ができるでしょうか?

6)この島の中で一致を叫ぶ必要があるでしょうか?

7)では、人を救うのは何でしょうか?

私の回答は次の通りです:

0)神の意志に沿った私の意志
1)YES:救いはイエスを信じることによるから
2)NO:言うまでもない
3)NO:言うまでもない(聖書があれば十分!)
4)YES:クリスチャンとは神の霊から生まれた者だから
5)NO:言うまでもない
6)NO:この島ではひとりだが、信じる者はキリストの体にバプテスマされているから
7)言うまでもない

最も本質的なものから離れないことです。今日騒がしい声が多くなってきています。初めから聞いていた教えに留まること。

羊はわたしの声を聞き分け、わたしに従う。

人を救うもの

真に人を救う存在はひとりのお方Jesusこの方との出会いが救いなのであって、「イエシュア」とは「神は救い」と言う意味。神学なるものが「学」としてもあまり程度の高いものではないと分かったが、そもそも人を救うのは神学ではない。それはいのちの抜け殻。救いとはいのちの主であり、いのちを与える方を知ることである!

あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。

昨今の事件について

Dr.Lukeは:普通さ(健やかさ)が壊れているため。アダムが失った神のいのちによる癒しと回復が必要。なぜなら人は自ずと聖を求めるものだから。

再建主義者は:普通さの行き着くところ。だからモーセ律法を普及させ、例えば中絶した女性などは見せしめとして公開処刑にせよ。そうすれば犯罪はなくなる。

ちなみに今回の犯人の専攻は刑法、しかも「犯罪と刑罰」のゼミでトップの10%に入っていたようですね。オツムはよくても、あまりにも幼いのです。小児性があり、多分被害女児にある種のロリコン的愛情をいだいており、その彼女から自分のアイデンティティを傷つけられたのでしょう。

予備校(特にYゼミあたり)や塾などでは普通ではない、ちょっとアブナサのある人物の方が人気があります。小児性が生徒と共鳴して、受けるのです。元ヤンキーとか、「族」だったとか。大人は人気が出ませんね。

なぜかニッポンキリスト教界も同じ。もとヤクザだとか、ヤクをやっていたとか、フーゾクにいたとか、これがウリになるのです。共通する要素は小児性。牧師と塾講師の価値観も同じ。信徒と生徒の動員数がすべて。立派な箱物を作りたがるとか・・・。実によく似ていますよ。

Commented by ICHIRO 2005年12月12日(月)20:14

ルークさんの言われるとおり、犯人の学生はこの女子に
好意を持っていたようですね。
デートをしたいと、彼女の友人に話していたようです。
被害女児は気持ち悪がっていたとのこと。

New CDs

新しいCDが今税関を通過中です。今週中には入荷します。いましらばくお待ち下さい。BGMはFaith05の中のGlorifyです。

 * * *

配色を冬ヴァージョンにしました。ちょっと寒げですね^^

また女児が・・・

オカルト的な猟奇的事件の後、すぐまた塾で講師によって女児が刺されて死亡とのこと。二人の娘を持つ父親としては何ともやり切れない。航空機事故などもそうなのだが、この手の事故や事件は続くのです。

確率論的には、こういった稀な事象はポアッソン確率過程に従います。この場合、待ち時間分布は指数分布となり、一度起きると比較的短期間で続くことは確率法則なのですね。ちなみに地震等も同じ。

しかし流行なども言えることですが、ある種の霊的な流れがあると感じています。空中の権を持つ霊たちが時々にこういった事件や事故に関わっている印象を持っています。確率法則の裏に霊的因果関係があるのか、ないのか、残念ながら現在のサイエンスでは実証できませんが、聖書的にはあり得ることでしょう。

サタンは人の、特に健やかさとか健康とか満ち足りることや安息など、そういった人間的要素を嫉妬し、破壊しようとするのです。被害者の方々が神の責任を問い、神を恨み、神の慰めを拒むことがないように祈ります。

悪魔の目的は盗み、殺し、破壊することですが、イエスは癒し、回復し、建て上げる方です。

わたしが来たのは羊がいのちを得、しかも豊かに得るためである。

Commented by Luke 2005年12月11日(日)12:04

この事件は町田の事件と同じ臭いがしますね。加害者は被害者にある種の好意をいただいていたが、それが裏切られたのでしょう。衝動的と言うよりも計画性がありますから。

名作『火の鳥』

余剰価値的一日でした。じつにまったりと・・・。

で、何気に山谷氏のBBSを見たら、まだ富井さんが私に対して訴えておられるとのこと。私が「神学の素人」で「クリスチャンでない」と結論されたのだから、もう十分ではなかろうかと思うのですけどね・・・。私的には大切な論点は網羅してしまいましたので。

何しろ私は神学書などは一冊も読んだことはありませんし、独学したこともない。高校の世界史レベルの知識、否、それすらもないなあ〜。何しろ高校時代は赤点すれすれ。入試では、当時は共通一次はなく、東大は独自の一次試験があって、理系も社会二科目を科せられていた。でもね、英数国理でほとんど100%取れるので、社会は0点でも通るわけ(イイ時代でした)。でも最終合否判定を考えてなるべく点を取っておこうと言うことで、過去問調べたら、四択で「2」の正解数が高い。で、・・・、と言うわけ^^まあその程度です。

かくして、<カルバンvsアルミニウス>なる議論も最近知った次第。で、ちょっとかじってみると、私たちサイエンティストから見ると決定論と偶然論をめぐる議論で、すでに述べたとおり、ill-posedな問題(無意味な論争)であることが分かってしまった。光は波動だ、いや粒子だ、とケンケンガクガクやっているようなもの。かなり脱力。ここでバルトがどうのと言われても、「へえ〜」としか・・・。そもそもこんなことで互いに異端のラベルを張り合っている神学者たちって・・・と。

再建主義者を見ていると、何だか(かつての)自分を見ているような感じがすると先に述べたが、これは本当です。手塚治虫の『火の鳥』に猿田博士と言う孤高の天才科学者がいて、自らの手で生命を創ろうしているわけ。しかし彼の創った生命体はガラスの中でしか生きることができない。彼は必死になって神に祈るのです、「神よ、私に生命の秘密を教えたまえぇっ!」と。

彼は自らの醜貌を恥じて人を遠ざけているが、実は温かい愛に飢えている。人の温もりに渇いている。それで自分を賛美するだけの美しい女性型ロボットを周りにはべらせるのだけど、心の空虚さが埋まらない。かくして、彼は・・・、と言う物語です。

再建主義者がヒューマニズムと断罪し、律法をもって埋めようとしている真空領域は、実はモーセ律法では満たされない。いのちではないから。モーセ律法はその型は持っているが、実質ではない。彼らはその真空領域を懸命に「学」の追求で埋めようとしているが、ガラスの外では生きることができない。彼らが求めるのは自分を認めてくれる人々。富井氏も私にある種の期待を抱いていおられたのかもしれない。残念ながら私はそれに応えることはできない。

再建主義者たちには、猿田博士の渇いた絶望的な追求の人生の道程を思ってしまうのですね。彼らは「イエスは主」と告白する以上、論敵ではなく、主にある兄弟なのです。

Commented by イザヤ・ベン・ハー 2005年12月10日(土)22:37

Lukeさんが何気に言われることは、実は神学者にとって死活問題ではありませんか?カオス理論からカルバンvsアルミニウスが無意味な議論であるならば、カルバンを基礎とすると言っている再建主義も無意味になりますからね。彼らにとってはパラダイムの根幹を揺るがしかねません。富井さんにとってはLukeさんを無視できないのです。だから徹底的にLukeさんを否定しないと、自分のアイデンティティを否定される危機なんですよ、多分。

Commented by Luke 2005年12月10日(土)23:11

はあ〜、そんなものなんですかねぇ?だって、エライ神学者が何百年も前に論じてきたと富井さんも言ってますよ。私ごとき素人など問題ではないと思いますけどね。私的にはこういった話で労力と時間の無駄は避けたいだけでして・・・ハイ。

もうけたあ〜♪

明日は入試の当番で、またまた面接で受験生のワンパタンの答えを聞かなくてはと、ちょっと気を張っていたのですが、何と無罪放免。小市民Dr.Lukeとしては、こういったささやかなことに無上の喜びを覚える次第^^さあて、どう過ごそうか、と・・・。るんるん♪

Commented by ICHIRO 2005年12月10日(土)12:19

ややこしいカオスの話の後は「るんるん」ですか?
ルークさんはどこまで本気で、どこまでが遊びなのか、、、

カオスとは(再)-決定論と偶然論-

人生はカオスであると書きましたら、「カオスは混乱と言う意味ではないか」とお尋ねをいただきました。あの〜ですね、私たちが使うカオスの定義をまずはご理解いただきたい。

下(12月6日参照)に書いたとおり、「決定論から生じる系列と、さいころを振ってできる系列が区別ができない」と言うことが私たちの言うカオスです。このカオスにはイロイロと面白い性質があるのですが、私たちクリスチャンの人生はまったくカオスなんですね。

ちなみに物質ですら、量子力学によれば、粒子なのか、波動なのか、区別ができないのです。私たちの知性の中に実存のモデルを構築する場合の制限であり、ヨブに対して「お前に創造の神秘が理解できるか」と問いかけた神の人間知性に対する訴えなのです。

例えば、私たちの選び。エペソ書によれば、「天地の基が置かれる前から私たちは選ばれていた」とあります。で、カルバン主義では、運命論的に選ばれてない人は救われないとなり、修正アルミニアン主義では、選ばれていても自由意志で拒否できるとなるわけです。「カルバンvsアルミニウス」―勝敗はどっち?

われわれからしますと、「分からない」のです。つまり私たちの人生の時系列は決定論によるのか、偶然性によるのか、カオスの理論によれば区別できないのです!私たちの自由意志は神の選びを無効にできるか、できないか。あるいは私たちの救いは神の選びによる(決定論)のか、私の自由意志によるの(偶然論)か。「区別できない」とするのが私たちサイエンティストの立場です。

聖書に書いてあるとおり、「神はすべての人が救われることを願われる」とあり、また「私たちはすでに選ばれていた」とあるとおり、そのままに「アーメン」と神に栄光を帰するのみです。「選ばれていない人はどうなるの?」と言う質問自体がすでに"ill-posed"(不適切な問題設定)なのです。このふたつの命題をどう矛盾なく神学の体系に組み込むのか、私たちからすると元々無意味な作業であると思うわけ。

私たちの自由意志が神の定めを無効にできるのか(=偶然論:これは神の全能性に反する)、できないのか(=決定論:これでは人の自由意志の働く余地はない)、判断できないのです!

そもそも私たちは物理的な時空連続体に閉じ込められていますが、神はそれを超えた存在です。ですから神にとって私たちの人生の系列はすでに全工程が見えているのです!で、聖書はあなたがたは聖とされ、完成されたと告げています。

私たちはその地点から現在を逆算するだけなのです。行き着くところはすでに決定している。その間を埋めるのが私たちの自由意志です。別に再建主義に反対しようが、その神の決定を覆すことはできません。私たちの罪や失敗も神の決定を覆すことはできません。神はすでに私たちを完成された者として見ておられるのです。

その視点に立てば、私たちの人生は運命論的に決定しているからとして自由意志を放棄するものでもなく、何でも自由に振舞うべきものでもないと分かります。神の定めと私たちの自由意志とが綾なされて私たちの地上の行程は刻まれます。そこを目指して歩めばよいのです。

神の予定と人間の自由意志について

それは生きることはキリスト。キリストは道。人生の成功とか、失敗とかで振り回されるのではなく、キリスト御自身が目標。キリストから外れないことを自由意志で選ぶのです。またキリストを獲得することが私たちの動機なのです。大切なのは、決定論か偶然かと考えて立ち止まることなく、どこにおいても、どんな状況でも、神と共に歩くこと。これで十分ではないですか?神はインマヌエルなのです!

 <決定論(テーゼ)vs偶然論(アンチテーゼ)>を止揚して、<キリスト(ジンテーゼ)>

これって「霊的弁証法」と言えるのだろうか?

Commented by 心配性 2005年12月09日(金)15:42

まさにこのキリストにおける霊的弁証法を、カール・バルトがやったわけですね。
霊的レベルを忘れたdialectは平板化して命を失ってしまうということを、予定論の議論は示していましたが、バルトはキリスト論的に、予定論をdinamicに乗り越えたのだと思います。

Commented by 財前二郎 2005年12月09日(金)20:20

弁証法がどうのこうのって、ルークさんらしくないですね(笑)結局いつも言われる、カルバンさんでもなく、アルミさんでもなく、キリストだけってことじゃあないですか?

Commented by Luke 2005年12月09日(金)21:53

はい、ちょっと遊んでしまいました^^

そうですね、キリストと御言葉−これで十分だと・・・。御言葉に書いてあれば「アーメン」、書いてなければ語らないと。シンプルです。

「間」のリズム感

いわゆる笑いは「間」のリズム感から生まれる。人の精神はこの緊張と解放のリズムがないと病む。退屈しない話や映画はこの緊張感と解放感のリズムが絶妙なのだ(専門用語では「カセクシス」と「カタルシス」と呼ぶ)。能では「序・破・急」と言う。

そのリズムのスペクトルを見ると1/f型。これは自然界の快適な音、例えば小川のせせらぎや、そよぐ風などのパタン。あるいは快適なクラシックなどの音楽。これは前に述べたカオスとも関係する。

私の最近のここのカキコを心配気に読んでくださっている方々が多いようだが、実はこのリズムがかなり密になっているため。ハラハラ感はこの密度の高さから生まれる。私的には内側から沸いてくるものを忘れないように書き留めているわけ。

神との関係、つまり霊的領域においても同じようなリズム感がないと人は霊的に窒息する。ある本に霊はkinkすると言う表現があったが、まさにそのとおり。糸がもつれて玉ができるのだ。これがほぐれないといのちの流動性がなくなり、内的生活は新鮮さを失うし、時には圧迫を受けることになる。

神は私たちの人生において絶妙に「緊」と「放」を配剤して下さる。かくして人生は縞模様を生み出す。この配剤に信頼して委ね、いのちが流れている時、サラサラと生きることができる。多分私たちの健全な霊的歩みはカオスであり、スペクトルは1/f型であろうと夢想している。

Commented by salt 2005年12月09日(金)00:58

いつも楽しく拝見しています。再建主義との論争には大して興味はありませんが、ウインドウズの上位互換の話は、律法の役割を実にわかりやすく説明していると感じます。

今回の「間」のお話、共感できます。音楽でも音のない部分が、リズムを作っているわけです。リズムは不正確で音楽にならないのですが、規則正しいだけでは感情は揺れません。いわゆるノリやタメ、ツッコミといった絶妙な間が音楽を豊かにします。

再生と新生の話もおもしろいです。そういう「しきたり」がことば使いまで支配するところがあって、やくさ社会と一緒です。昔こういうことをネタに小説を書いたことがあります。日の丸町という町に松・竹・梅という三つの中学校があって、竹中学に通っていた主人公が、梅中学に転校してきたために、混乱する話です。くだらないローカルなルールを普遍の真理だと思い込むのは病的なことです。

山奥の渓流のようにサラサラ生きたいですね。紅葉でも浮かべながら、岩魚や虹鱒を泳がせてやりましょう。川には県境はありません。山から海へ流れるだけです。

Commented by Luke 2005年12月09日(金)08:18

サイトを開いて以来実にイロイロな人に出会いましたし、ニッポンキリスト教界を垣間見ることができたわけですが、このギョウカイをみていると一言、クリスチャンって何なの?と。1%なのは確かに理由があります。神が守っているのですね。再建主義との「対話」はまあひとつのエキササイズでした。

しかしこのギョウカイ、実にイロイロ。日本の村、例えば白川郷などは、それなりの調和があって、心が休まりますが、ニッポンキリスト教村には、遊園地の観覧車があったり、やたらド派手なビルがあったり、アメリカ式の家に、ロシア式の家があるみたいな、で、それぞれの家の前で派手な呼び込みが大声を上げていると。

家の中はというと、ホスト的に不自然な笑顔でベットリと迎えるセンセイと、そう、やくざ屋さんの家の調度品みたいなある種の違和感と緊張感を覚えさせますね。何ともバラバラ、まさに分裂病的。

そうですね、「川の流れのように〜♪」と生きたいですね。

「間」の病理

分裂病の精神病理の専門家木村敏氏の著書に『間の病理』がある。要するに精神分裂病は人間関係の病理であり、「間」の取り方が狂っているというわけ。病んでいる人はこちらにその意図がなくとも、自分の「間」を犯されると感じると、恐れや妄想や幻覚を生じるのだ。私たちの「間」とはかなり食い違う。

私たちも対人関係で混乱を覚える場面は、下にも指摘したように、「間」の取り方を侵食される時なのだ。私の著書でも「間」とはある霊的な何かを指しているかもしれないと述べたおいたが、これはあまり見当はずれではなさそうだ。魂と霊が相互作用する緩衝領域のような印象を受ける。神学では「中間領域」と言い、私たちは「間」と言うわけだが、どうも同じ何かを指しているようだ。

山本七平氏が日本を「空気の社会」と呼んでいたが、「空気」も「間」と同一視できるかもしれない。さらに『甘えの構造』の土居健郎氏は、自身もクリスチャンであるが、「気」の精神病理を論じていた。この「間」とか「空気」とか「気」とか言う対象は、何か同一の「霊と魂の緩衝地帯」を指しているのだろう。

日本文化はすべからく「間の文化」と言える。和室や日本庭園は無駄な空間が実は何かを表現している。武道なども同じ。自分の「間」で、「気」を入れるとき、勝負が決する。

ニッポンキリスト教はこの「間」に対するデリカシーがほとんどない感じなのだ。もちろん信仰は、究極には「自分か、キリストか」の排他的選択を迫られる。これは一種のクライスである。が、それを超えた後はまたある種の「間」ができる。ところが教界ではこの「間」が何か人工的な作為的なものになっている。これがクリスチャンや、特に牧師たちから受ける違和感なのだ。

同じように、私の「間」にフィットする方は私のメッセージを受け入れて下さるようだが、私の「間」を嫌う人はまったく受けつけないようだ。ここにはある種の霊と魂の相互作用から生じる感受性が大いに関係するようだ。

いずれにしろ教界は「間が病んでいる」と言え、木村氏の理論によれば一種の分裂病状態と言える。

ニッポン・キリスト教村のしきたり

ある方がメールを下さって、このサイトでは英語の"born-again"を「再生」と直訳しているが、これはあまりにも初歩的なミスで、日本の神学では「新生」が正しい用語だから訂正されたし、とご忠告をいただいた。「はあっ?」と一瞬思いましたが、「はい、ありがとうございます」と、丁重にお返事をした。ちなみに岩波訳では「再生」と訳しているのですね。(本音:どっちでもいいじゃん)

ちなみにうちのカミさんも薬剤師として薬局で働いているのだが、「お勘定をお預かりします」と答えたら、「それは預かるじゃなくて、・・・だろ!」とマジに"クレーム"をつけた客がいたそうで・・・、こわかったと。

まあ、このキリスト教と言うギョウカイ、どうもそれぞれにシマと申しますか、一定の「何か」を共有できる領域に分かれておりまして、それぞれに方言があり、しきたりがあり、村長(むらおさ)がいて、村民の言動に目を光らせておられるようです。

ある地域には「ありのままでよい」と人気を博している村長、別の地域には「すべてはモーセ律法だ」と叫ぶ戦士、また他の地域には「クリスチャン天皇を擁立したキリスト教国家ニッポンの建国を」と旗を振る元気な衆、はたまた「日本民族一億総伝道福音化運動」を提唱する長老さんたち、これでもかと「現代の使徒・預言者による現代の宗教改革を」と旗を振る革命家たち・・・と。で、普通のオジサン・オバサンたちは何だか物も言えず、ひたすらじっと息をひそめ、窒息していると言うか、霊の息を深呼吸できないでいる。

以前から「このギョウカイは要塞化している」と感じていたが、どうもこれはマチガイナイ。モラトリアムで遊びの多い私などはとても属するところがないというか、入り込めないというか、コワイなあ、と感じるのだ。ちょうど踏み絵を踏まされる感じ。私が言う「遊び」は神学用語では「中間領域」と言うのだそうだが、ここは「普通の感覚」が支配している領域。どうもキリスト教ギョウカイから受けるコワサはこの領域を侵犯される時に生じるもののようだ。

閉鎖社会ニッポンの中の閉鎖社会ニッポン・キリスト教界。ここに属することは私的には主イエスが来られる日まで、いやその日でもできそうもないなあ〜。

聖書と社会システム

山谷さんのBBSではコモン・ローの問題が再提示されてきました。で、過去ログを紹介しているので、読んでみましたが、これが実に面白い。自然科学と人文科学は一応カバーできていると思っている私ですが、社会科学はまったくの音痴です(経済学だけは数学の言語で語られますので少しは分かりますが)。が、その私にとってもかなり面白い。

ゲイリー・ノースの「Y2K世界崩壊」の外れ預言はコンピュータ・オタクの私にとっても一大記憶として鮮明に残っている。同僚の先生がエラク心配して、質問を受けたことがあったし、クランシーの小説もありましたね。しかしその背後にこれだけの思想体系が横たわっているとは・・・。

アメリカの政治システムについては鹿嶋春平太氏の『聖書が分かると世界が読める』において、共和党と民主党の本質が論じられており、けっこう面白かったが、さらに再建主義による国家建設を目指している人々があることはごく最近知った。

しかし日本においても、かつてレーガンがフリードマンのサプライサイド・エコノミクスと共に目指した「小さな政府」を志向するようになっているが、このレーガンを選出した一大勢力が新右翼思想と言われる再建主義勢力なんだとか。

こう見てくると、日本はアメリカの見える部分だけを真似しているだけとも思えてきますね。教界も、社会も。まあ、ベニー・ヒンがニッポンキリスト教の総帥となり、再建主義社会が実現するようなことはないと思いますし、そうならないことを祈りますが・・・。(考えただけでも震えます。)

紙一重の差

カルバン主義とアルミニアン主義はプロテスタントでの大きな分裂要因であるそうだが、実はその違いは紙一重であるらしい。私自身はどちらに属すかは分からないのだが、Dr.Lukeと富井氏の差も実は紙一重。両主義についてはこちらがよくまとまっている。

カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば

こういった議論をするのが神学だというわけだが、御言葉をこのようにニンゲンの頭に入る形で定式化した時点ですでに御言葉から離れてしまっている。ヴィトゲンシュタインは「言語は世界の映像である」と言ったが、「論」はまさに実体ではなく、映像なのだ。ところがいったん神学の定式化ができてしまうと、今度はその映像のレベルでの齟齬をめぐって議論が生じる。その際、御言葉(と主ご自身)はどこかに置き忘れられている。郡盲像をなでるが如し。対してチャック・スミスは御言葉をそのままに述べているだけ。私的には一番フィットすることは前にも述べた。

同じように、私たちの神への信仰と唯物論的共産主義は致命的に異なり、その間には絶望的なギャップがあるかのように見えるが、実はその違いは紙一重なのかもしれない。共産主義も「すべては唯一物論的に展開する」という一種の信仰だからだ。進化論も同じ。誰も見たことのない進化を、彼らは見ないで確信している。それはまさに信仰。世界を説明する映像の違いに過ぎない。

かくして私たちとの違いはその信仰の対象。だからこちらサイドからどれほどに合理的な説明をして進化論の矛盾を突いても、彼らにとっては無意味。彼ら自身が進化論には不十分な点があることは十分承知だから。日々彼らは進化のメカニズムの解明を試みているわけ。それぞれの神学の派の人たちも同じ。その枠の中で日々精進に励んでいる。

つまり進化論を選び取った時点で彼らのコースは決まっている。これは私たちの側も同じ。神を選び取った時点で私たちのコースは決まっている。神学の派も同じ。それぞれのコースに入れ込めば入れ込むほど軌道修正は困難となる。そしてそれぞれの実を結ぶに至る。しかし選び取るその瞬間にどちらを選ぶかは紙一重なのだ。ここに働くファクターは一体何なのだろう?なぜ私は神を選んだのだろうか?

ここまで来ると、私の頭はキャパを超える。一般恩寵によるのか、特殊恩寵によるのか、どうもそういった人間の言葉による"説明"はピンと来ない。ただ願うのは、時々において私が何を選ぶか、神の目から見て誤ることがないことを祈るだけ。ある人が言った:信仰とは選択である、と。

すべては実で判定せよ

このところ再建主義の富井氏のBBSとかつて彼と激論を交わされた山谷氏のBBSを行ったり来たりしていたが、かなり面白い、そして重要な論点を拾えたと思う。

再建主義の自己矛盾的分裂病的性質はすでに明らかであるが、彼らが触れている論点はとても大切なもの。そしてニッポンキリスト教がほとんど抜けている部分である。

実は私自身も再建主義のこれほどに深刻な病理は知らなかった。人をどう理解するか、神は人に対して何をしてくださったか、また下さるのか−ここがすべての出発点。これが狂うと、聖書を用いながら、人を忘れた「神学」はある種の狂気へと走るのだ。

すでにゲイリー・ノースは「外れ預言」の前科者であるわけだが、果たして他の再建主義者たちはどのような実を刈り取り、どのような人生を送るのだろうか。これが今の私の最大の興味の中心である。

Commented by 心配性 2005年12月08日(木)01:16

「このところ再建主義の富井氏のBBSとかつて彼と激論を交わされた山谷氏のBBSを行ったり来たりしていたが、かなり面白い、そして重要な論点を拾えたと思う」

私も、無責任ながら、面白く読ませていただいています。LUKEさんと同じように、私も再建主義には、一理あるとおもいながら(富井さんには引きながらも)、ウオッチはしていました。
ただ、行ったり来たりしていますと、山谷さんの発言は落ち着いて読めるのですが、最近のLUKEさんは、富井さんに引き倒されそうになっているのではないかと、内心ちょっとはらはらしています。LUKEさんと富井さんが何か似たもの同士のように思われるのです。

そろそろ、再建主義(というか富井さん)の病理も見えてきたことですし、LUKEさんもあまり萌えすぎないようになさった方がよいのではと、ゆったりとしたいのちの恵みへと傾いていただきたいと思います。

Commented by Luke 2005年12月08日(木)09:19

はい、ありがとうございます。その時期かもしれませんね。おっしゃるとおり、私が彼のことが気にかかるのは、「私」を彼の中に見るからです。ある種の親近感を覚えますし、同時に反発を覚えるアンビバレンツがあります。当初ハードコアで「対話」をはじめた時点では、共有できる期待も持っていたのです。もしかすると向こうもそうだったかも知れません。その残念さがくすぶっているのです。

正直に申しますと、これは山谷氏にも申し上げたのですが、何とか彼を再建主義からこちらサイドに戻して上げたいという気持ちがある(あった)のです。しかし現段階ではますます彼の確信を強めてしまうようです。距離のとり方は意識しているつもりです。

再建主義はある種の知的性向をもつ人々にはかなり魅力があります。生まれながらの正義感にジャストフィットし、一種の爽快感があります。現状の教会と世のあり方に不完全燃焼をして、もだえている人々には大きな魅力です。多分ニッポンでは広まることはないでしょうが、一部の人々に支持され続けるでしょうね。

人間が関わる領域

山谷氏のBBSで刑法を論じるには人間理解が不可欠とのべておられます。これはとても大切なポイントです。現代科学では、霊の次元はまったく考慮されていません。つまり魂(=精神)と体の関わりまでです(精神身体医学)。

ですから今のサイエンスは霊的要素については形而上学の問題となり、その研究対象としません。ただし97年にWHOが「霊的健康」と言う概念を提示しましたから、今後は分かりません。霊まで考慮した医学が、私の提唱する「霊精神身体医学」です。

クリスチャンは霊的領域と接触を始めた存在ですから、世のサイエンティストの語る形而上学は、形而上学ではなく、十分に実体験できる領域なのです。

そして大切なのは、神は物理の次元でも法則によって、魂の次元でも法則によって(ノンクリスチャンはここまで)、そして霊の次元でも法則によって人と関わりを持たれ、人を治めます。クリスチャンにとってはこれがいのちの御霊の法則であり、モーセ律法にはなかったものです。だからモーセ律法は欠けがあり(ヘブル書)、新たにメルキゼデク系律法−いのちの御霊の法則−が導入される必要があったのです。これは十字架によります。

つまり旧約と新約では致命的な霊的相転移が起きているのです。今私たちクリスチャンを支配するのは、モーセ律法ではなく、いのちの御霊の法則であり、それは自由の律法、いのちを与えて生かす法則、キリストを私たちの内に実体化する法則なのです。あなたはどのような法則に委ねて生きていますか?

御霊に従うならばあなた方は律法の下にはいない。

人間性のあり方

「ヒューマニズムについて」でも少し触れましたが、再建主義の人間性否定は予想以上のものがありますね。富井氏は、ヒューマニズム(=モーセ律法を適用しないこと)に犯されて再建主義に反対するクリスチャンは・・・悪魔の支配下にいる、と主張しています。

やれやれ、スゴイことです。まあ、この手の人に対してはあまりエネルギーを削がれたくはないのですが、論点としてはとても大切なのです。聖書は人間性についてどのように語り、主は私たちをどのように見て下さっているのでしょう:

(1)神は人になられた。イエスは人であるままで天に上られた。ステパノは人の子を見た。そしてそのままの姿で戻って来られる。つまりイエスはいぜんとして人である。

(2)イエスは人としてサタンに勝利し、世に勝利された。アダムが失った傷のない、純粋な人間性は、人の子イエスの死と復活にあって、回復され、さらに栄光化された。その人なるイエスの内に生きた御霊は、私たちの内にイエスを証し、復活のキリストのいのちを実体化される。

(3)古いアダムにある私は肉と共に終わった。霊が再生された私たちは、キリストが回復し栄光化して下さった人間性をも得ている。それはイエスの霊と魂の中で進展してたいのちの再現、あるいは追体験である。

(4)御霊によって私たちのうちにキリストの形が造られるとは、この御霊が届けてくださるイエスの人間性が私たちの霊から魂へと再現することである(メタモルフォーシス)。

(5)小羊はいずれ私たちを花嫁として迎える。それはイエスが分けて下さったいのちを共有する存在であり、新エルサレムでは、神と人が共に住まう。

(6)主は現在もまだ贖われていない私たちの体が弱いことを知っていてくださる。この弱い人間性をイエスは経験され、大祭司として私たちの弱さを思いやり、私たちがチリにすぎないことを心に留めてくださる。

(7)私たちの責任は、アダムにある私の有様を守ることではなく(これが「ありのまま」的ヒューマニズム)、死と復活を経て、キリストのいのちを内に生かすこと。

(8)かくして人間性は神にとってきわめて尊いものである。そもそも敬虔の奥義とは、神が肉において現れることであり、キリストはそれを100%成就された。私たちもその幾分かに与るものである。神は人の中に住まい、人を通して栄光化される方である。

(9)人間性は神にとってとても大切な要素であり、人間性を慈しんでくださる方である。ただし、十字架の適用が必要。なぜなら御霊は十字架によって働くから。それは私にとっては痛みを覚えることもあるが、しかしその時こそ神は甘い。その十字架を経るならば、古いものを脱ぎ捨て、栄光のイエスの人間性を味わうことができる。再度繰り返します:

 内なるキリスト−栄光の望み!

世界の行方

また山谷氏のBBSに興味深い記事がありますね。再建主義のゲイリー・ノースは、再建主義社会が実現する条件は、一度現在の世がカタストロフ(破局)を経る必要があると言っているようです。これに対して財前二郎氏が質問しています:

再建主義はポスト・ミレ、つまり現在はすでに千年期・新天新地であり、これからの世界はあまねくモーセ律法を適用する神の統治による社会となり、この地上に神の国が成就して後、イエスが再臨されると信じます。

一方ディスペンセイションではプレ・ミレ、つまりこれからの世界はますます悪くなり、滅びがおとずれ、その悲惨の極みに主イエスが再臨され、サタンを千年間穴に閉じ込めて地上に王国を設立すると信じます。

再建主義はこの見方を悲観主義であると非難します。が、何とそのメインの論客自身が自分達の主義社会の確立のためには、一度今の世が滅びる必要があると語っているとは!?驚きです。

では、果たして聖書の預言はどちらなのでしょうか。素直に読めばプレ・ミレと読めるのですね、私的には。私の個人的立場はプレ・ミレですが、あえてこれをケンケンガクガクと主張するつもりはありません。その預言を成就されるのは神だからです。

私があえて主張するのは、今この時、いのちを阻害すること、いのちを抑圧する教えに対しては、かなり反応します。私たちは将来に生きる者ではなく、また過去に生きる者でもなく、今に生きる者だからです。この時にいのちを育て、生きることが私たちに課せられている責任だからです。再建主義はあきらかにこのいのちを阻害します。

Commented by 財前二郎 2005年12月07日(水)22:07

はじめまして。少々ふざけたHNですみません。外科医さんがおられましたので、つい。
再建主義についてはチラホラと知っておりましたし、山谷さまとの大論争も見てはおりましたが、こちらのハードコアの議論でその本質が見えました。
それまでは終末論が聖書預言解釈としてプレミレかポストミレかの違い程度にしか思っていなかったのです。Lukeさんとのディスカッションで再建主義の本質がどこにあるのかはっきりと分かったことは感謝でした。
こういった思想というか主義が現われて来て、再建主義を信じない者は悪魔に組する者であり、呪われよ、とする時代に入ってきているのですね。
改めて終わりは近いのかなと感じ入っております。

Commented by Luke 2005年12月07日(水)22:52

財前さんの質問に対して山谷氏が回答を与えていますね(→http://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=makotoyamaya-lj)。再建主義の重鎮ゲイリー・ノースの世界滅亡の「外れ預言」です。

しかし面白いですね、富井氏は世界がこれからモーセ律法による「神の国」化され、輝かしい栄光が待っていると力説しているのに、ゲイリー・ノースは世界の滅亡を待っていると・・・。

何と言うか再建主義の自己矛盾的性格が明確に現れている感じです。やや解離性人格障害か分裂病質的人格障害かと言う印象です。いずれにしろ少なからず病的ですね。

イエスの声

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

その声は威厳があり、しかし静かで安らかさを覚え、慕わしく、麗しい。これからの教界は騒がしい、派手な、人目を惹く声が多く聞かれるようになるだろう。その喧騒と混乱の中で、静まって、この方の声を聞き分けられる人は幸いである。

福音は誰に

委ねられているのでしょうか?メンツとプライドで凝り固まった野心家のボクシでも、一見知性的であるが実は知性と情緒が乖離した病的なシンガクシャでもありません。

普通の感性を大事に、普通の生活を淡々と生きている普通のオジサン・オバサンに委ねられているのです。福音とは生きることを共有すること、泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑うことから始まります。聖とは人になること。最も人であった方はイエス。

それはいのちの種である御言葉を、時期が良くても悪くても、倦むことなく、淡々とまき続けること。それを発芽させるのはいのちのパワー、それを育てるのは神ご自身。単純に信じましょう。

ただし、ボクシの眼鏡にかなった従順なニッポンキリスト教徒を作るのではありません。ややこしい狂気の入った神学を刷り込むのでもありません。それはビョウキを生むだけ。健やかさにあってイエスに従う者を生み出すのです。サタンはそのような健やかさとイエスに従う者を嫉妬する。

まず私たち自身が原点に戻るのです。主と出会った日の解放感と甘い愛で涙した時に・・・。その感動が人の心を動かします。原点とは、x軸とy軸の交点、つまり十字架です。

まあ、ガチンコするつもりはありませんが

ちょっといくつかのトピックについて問題提起しましたが、あまりニッポンキリスト教の神学者や牧師たちに回答を期待しているわけではありません。というか、ほとんどしていませんね。おそらく時間の無駄になるだけですから。ただ心ある皆さんにはちょっと考えてみていただければと思ってはいます・・・。

偶然と必然

山谷氏の掲示板で外科医さまの提起された刑法に関して、決定論か、非決定論かの議論が展開されており、なかなか面白い。

で、われわれ自然科学者からすると、実は、偶然と必然は区別ができないのだ。

例えば、コインを投げたとしよう:

 (※) 裏、表、表、裏、表、裏、裏、裏・・・

と続く時、皆さんはこれを見て、これは必然によって生み出されたか、偶然によるのか、お分かりになります?実は数学的には区別ができないのです!

今ここに非線形変換を

 (※※) a(n+1)=λa(n)(1-a(n))

と定義します。これはa(1)を与えれば、この規則(決定論)によって、a(2),a(3),a(4),...が一意に決まってしまいます。

一方で(※)の系列は実はコイン投げの結果です。さてここで(※※)のλをうまく取り、a(n)が0.5以上ならば裏、未満ならば表に対応させると、あーら不思議。(※)の系列を決定論的な上式(※※)によって作り出すことができるのです!

 つまり偶然を必然から作り出すことができるのです!

このような理論を「カオスの理論」と呼び、現代のひとつの大きなサイエンスの分野を構成しています。

私たちサイエンティストから見ると、神学は単なる言葉遊びにしか見えないが、果たして神学はこういった分野を取り扱うことができるのでしょうか?ニュートン以前と言ったらむくれてしまわれたようであるが、富井氏もぜひ謙虚さを身につけて、もう少し学んでほしいところです。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)23:24

CGによる目で見るカオスについてはこちらをご覧下さい:
http://brain.cc.kogakuin.ac.jp/~kanamaru/Chaos/

私の上の非線形写像によるカオスは、「ロジスティック写像」のところでシミュレーションできます。

Commented by ICHIRO 2005年12月07日(水)16:39

へえ、これは面白い。
このCG、意味は分かりませんが、遊べました。
必然から偶然が作られ、無秩序から秩序が生まれる、、、
う〜ん、今晩、眠れなくなりそうです。

次の御言葉は・・・1ヨハネ2:26-29

私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた塗り油(原語)があなたがたのうちにとどまっています。

それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、―その教えは真理であって偽りではありません。―また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。

今となっては無理ですが、再建主義を代表する富井氏はこの御言葉をどのようにとらえるのだろうか?これも彼の言うTheonomyの一部なんですが。このような御言葉は彼の書き物にはまず触れられていません。

1)信者にはキリストの塗り油がある。

2)この油はすべての真理を教えるから、誰からも教えを受ける必要はない。

3)この油の教えるとおりにキリストにとどまる。

4)善を行なう者は神から生まれた者である。

どこにモーセ律法が出てくるでしょうか。生まれの問題、すなわちいのちの問題でしょう?

今日、確かに、惑わす者が多く現れていることは間違いありません。

自律と他律?

山谷氏のBBSにすごい投稿がありますね。日本を「目には目を、歯に歯を」の同害復讐法を採用する警察国家にせよ、検察よ、ガンバレと・・・。この方はここでも「ヒューマニズム」のところでレスを下さった方ですが、再建主義の方だったのかな?

再建主義では、人間は全的堕落で、意志すらも堕落していますから、すべては神によらないとダメなわけです。要するに自律性が一切排除されます。これはハードコア・セッションでも富井氏が、「聖書はすべて神の命令であって、一字一句服従するのだ」と言っておられるとおりです。かくしてこれを社会に適用すればモーセ律法を一字一句遵守することになるわけ。よって「目には目を、歯には歯を」です。要するに人は枠にはめないと獣姦を犯す存在なのですね、彼らにとっては。自律性はヒューマニズムなのです。

下にも書きましたが、いのちの御霊の法則によって働くいのちは内的な性質として神の義を好み、神の聖に従うことを欲求するいのちなのです。人のいのちは四足で歩くことを好まず、二足歩行を好みます。同様にキリストのいのちに従えば、自律的かつ内的に神の基準を生きるのです。なぜなら御霊は神の義をlustするからです。このlustという単語は普通は「情欲」と訳されていますが、ガラテヤ5:17にある「霊の願うところ」(新共同訳)の「願う」の原語もlustです。ですから、御霊に導かれているならば律法の下にはいないのです(18節)。

まあ、彼らはこの律法をパリサイ学者の律法主義の律法だとしているわけですから、これ以上議論になりませんが。素朴な疑問として、憲法にも制定のままの純粋な憲法と、憲法学者の憲法があるのかなと・・・(笑)

いやあ、これほどに深刻な福音理解の齟齬があるとは思いませんでしたね。しかしこれをとおしてますます聖書の真理が明確になったことは事実です。聖書にはこうあります(向こうさんも使うかもしれませんが):

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。



補遺:刑罰の程度はモーセ律法とは別に考えたらいいと思いますけどね。

Commented by 外科医 2005年12月06日(火)20:05

 はじめに、私は再建主義ではありません.
 私は、昨今の連続する幼い命を奪う残酷な事件に心を痛めております.しかし、山谷師が、再建主義ウォッチング掲示板の968に於ける論述が、同害復讐を正しく理解しておられないと思いましたので、敢えて記しました.12族長の暴走は明らかに、同害復讐の原則を侵しています.本来なら、シェケムだけが罰せられるべきでした.『目には目を、歯には歯を、命には命を』とは、
同態復讐法(レクス・タリオニス)と呼ばれ、その根本思想は、人間の奥底にある無制限的報復(12族長の暴走のように)に対して制限を加え、同量の報復を以って満足すべきであることを想定したものです.
 江戸時代は「十両盗めば首が飛ぶ」と言われていました.また、茶母によれば、韓国ではかつて贋金作りは死罪だったそうです.こういうのは行き過ぎです.同害復讐ではなく、過剰報復です.
 さて、殺人事件の場合、加害者の弁護人は、生い立ちや環境を情状酌量として提示することが殆どであると思います.しかし、加害者と被害者に利害関係があり、例えば、「被害者が常習的に加害者を虐めていたので、加害者は止むに止まれず被害者の殺害に至った」というような事例は別として、被害者に何の落ち度も無い犯罪行為、特に殺人や強姦など、被害者に回復不可能は害を与えた場合は、被害者の数に係わり無く『死刑』を適応すべきであると考えます.また、麻薬や覚醒剤の密輸は、結果的に、末端利用者に回復不可能な障害を与えてしまいますので、シンガポールやタイなどのように、死刑を適応すべきだと考えます.
 いずれにしても、被害者に関係の無い情状酌量は認めるべきではありません.殺人事件や強姦事件、麻薬・覚醒剤の密輸事件の裁判は、事実認定を慎重に行う必要がありますが、事実認定が確定すれば、あとは、刑法の厳格な適応あるのみであると思います.刑法の改正(被害者が無過失の殺人・強姦、及び、麻薬・覚醒剤の密輸は死刑)を強く要望します.

Commented by Luke 2005年12月06日(火)21:39

あ、これはわざわざありがとうございます。確かに今回の事件などは、もし私が当事者であったら、同じ方法で処刑してやりたい、と感情的には思うでしょうね。

ですから刑法や刑罰の考え方は別にモーセ律法とは関わりなく論じればよいと思うわけです。これは自然法を成文化でいいのではないでしょうか?現在の少年法や加害者の人権は守られ、被害者は無視されている点などがおかしいと誰も感じているはずで、その自然な感覚に基づいて論じればよいわけです。その意味では外科医さまの見解はひとつのオプションとなり得るかと思います。

ところが再建主義ではこの自然な感覚(自然法)を否定して、あらゆる領域で司法律法の適用とするからおかしくなるわけですね。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)23:39

ちなみに上で触れたカオス理論の一部に「自己組織化」の理論がありまして、モーセ律法はなくても自律的な秩序の構成が可能なのですね。神学では「自然は恩寵を駆逐する」とか言うのだそうですが、逆に秩序は自律的に構成されるのです。

念のため、わたしは進化論者ではありませんよ。かといって創造論でもないですね。私の信仰は「神が創造された」ピリオド

しかし無秩序から秩序は生まれるのです。クリスチャンの確率論による進化論批判は、残念ながらサイエンティストは相手にしません。なぜなら無限個存在するものの確率も0になり得るから。

これを「測度論」と言いますが、サイコロのレベルのパスカル的古典確率論で論じているのが今の教界です。ですからバカにされるだけなんですね。

みなさん、私たちはノンクリスチャンに対してもっとへりくだる必要があるのです!そう思いませんか?

普通であることの祝福

再建主義では「普通性」を極端に嫌い、その究極に獣姦があるという。これ自体ですでに彼らの病理性が分かるが、では聖書は何と言っているでしょうか。

1)人は神の形に造られた。しかし第一の人アダムはその実質である神のいのちの内住を得損なった。

2)神から断絶されて、いのちの木への道も封鎖された。かくして人は魂と体の生き方、つまり肉となった。

3)ローマ2:14-15にあるように、たとえ律法を持たない人あるいは生まれながらの人であっても、良心が善と悪をわきませさせる。これが私の言う「生まれながらの価値観」であり、自然法の根拠です。(再建主義はこれを一切認めない。)

4)人は善を行ないたいという意志はあるが、力がない。人は思いの中にある神の律法を行ないたいと言う法則と、体の中にある罪と死の法則のはざまで、神の律法を行なうことができない。つまりアダムのいのちには力がない。

5)キリストは最後のアダムとして旧創造を終わらせ、第二の人として復活の初穂となり、同時にいのちを与える霊として、御霊によって私たちに内住され、わたしたちのいのちとなられた。そのいのちはいのちの御霊の法則に従って働き、私たちを罪と死の法則から解放した。

6)御霊に従えば、このいのちの御霊の法則が自動的に働き、たとえ知識として律法を知らなくとも、律法の要求は私たちの内で満たされる。

7)ロマ書の語る私たちの生まれながらに持つ普通の感覚はいのちの実質を得るときに、実際に行なうことが可能とされる。つまり私たちはますます普通な人になるわけ。

8)カルトや異端はこの普通さをその教義や聖書解釈によって壊していく。もちろん私たちは自己中心で生きてきたから、例えば「得るためには捧げよ」と言う御言葉には当初は肉の抵抗を覚える。しかし自己をおろして従う(=自分の十字架を取る)ならば、むしろそれが解放であり、自由であり、喜びであることを味わう。

9)この自己を処理することは私たちの意志により、そのとき御霊は内なる業をして下さる。つまり「得るためには得よ」と言う価値観は、実は生まれながらのものではなく、世にある間に刷り込まれたもの、つまり普通ではなかったわけ。これを経験させてくださるのがキリストのいのちである。

10)かくして神の形である人の中に神のいのちの実体が満ちる時、そのいのちに従った行動やあり方を実現する。このいのちの性質に従った統治が行なわれ、御国は成長拡大する。これはモーセ律法よりはるかに上位互換のいのちの御霊の法則によるわけ。

注:ここで富井さんが言う「超民族化・普遍化されたモーセ律法」とは「いのちの御霊の法則」ではないかと問いましたら、明確に「違う!」とのことでした。これは致命的ですね。

11)かくして十字架と共に働く御霊の造り変えが私たちの内で進めば進むほど、私たちは普通になっていくのです。しかしそこにキリストの香りと何かが表現され、世の人とは異なるのです。普通ですが、何かが違うのです!

12)キリストの形が形づくられる(メタモルフォーシス)ならば、キリストは私たちを迎えに来て下さる。私たちの希望は神学のドグマや油注ぎの器ではなく、土の器の中の宝物、すなわち内にいますキリストである。このキリストを知るならば、失望することはないのです!

最も大切なもの

今回の議論に巻き込まれて一度確認しておきたいことが明らかになった。

神学の論争のルーツはどこにあるのか。

これは人間のレベルで生じる現象であり、一方で神が何を最も大切にされるか。その対比が明らかにされたと思う。ディスペンセイション主義は再建主義を受け入れることができず、逆もまたしかり。で、それぞれは自分が聖書に堅く立っていると「信じている」。だから一歩も譲れない。(まあ、私も今回の件で再建主義の創始者ラッシュドゥーニの文章などを読み、本質的な問題があると分かった、というより再建主義の究極には論理必然的に狂気的要素があるようだ。)

果たしてこのような状況を神はどのようにご覧になるのだろうか。古の昔から神学上の対立(つまりどちらが真理かと言う争い)でクリスチャン同士が殺戮を繰り返してきたことは歴史上の事実。が、ここで確認しておきたいが、真理は第一義的にキリスト御自身である。「わたしは真理である。」そしてキリストは神学のドグマのセットではなく、いのちである。「わたしはいのちである。」

しかし何とも虚しいことに言葉尻の取り合い、否、それ以前に互いの言葉の定義を確認する間もなく自分の教義の押し付けに堕している。こういったことはわれわれサイエンティストは議論以前のマナーの問題なのだ。相手の言葉の定義を理解してから議論は成立するのだから。例えば「ヒューマニズム」の意味がまったく異なっている!(11月30日参照)

聖書はその方(パースン)を紹介する書であり、履歴書である。エマオの途上で青年二人にイエスは聖書がご自分について証ししていることを説かれた。しかし彼らは目が開かれるまでイエスご自身に気がつかなかった。文字を理解しても、本人を理解し得なかった。これと同じことが神学の論争では起きるのだ。真理なる本人を離れて、文字面の対立。それはまさに自己(Self)の表現。自己だから一歩も譲ることができない。それはきわめて強烈な魂のパワーによる。

一方で聖書はもちろん神の息吹きであり、神の霊が塗りこまれている。それは何のためか。いのちのためである。内に誕生したキリストのいのちの養育のためである。再建主義者富井氏との対話は、彼が「モーセ律法=いのちの御霊の法則」と宣言された時点で、すべてが見えてしまい、後は無意味と分かった。

再建主義にはいのちの次元が完全に欠如している。神の国は第一義的にいのちの領域。そのいのちに応じた統治がある。彼らはこの統治をいのちを抜きにモーセ律法の適用のみで成就しようとする。つまり絵に書いた餅。いかにキレイに、実物にソックリ欠かれていても、それは所詮絵である。まことのいのちを忘れ去った神学はかくも虚しい。

いのちの次元に戻ること。その時いのちに応じた統治が実現する。これが神のご計画のすべてであるが、これが欠如しているのが現在の教界。神学の議論の森の中に迷い込むと一本一本の木は見えても、森全体の位置は見えなくなる。それと同じような迷子状態にある。再建主義に対してはある種の期待もあったのだが、残念ながら最も本質的な部分がすっぽりと抜け落ちていたことが分かった。

一方でヒューマニズムに落ちた人気取りの「働き」が見かけ上栄え、一方でいのちの欠如したやや狂気の入った神学が孤立化し、ますます今後のニッポンキリスト教は混迷を深めるであろう。その混迷の中で内なるキリストを知り、いのちに与ることを経験した人は幸いである。(こういった表現は再建主義者からも普通の先生たちからもほとんど聞かれないのが不思議なのだ・・・)

前に書いたことがさらに重要になるようだ。

もっとも本質的なこと

Commented by kawa 2005年12月06日(火)12:32

教団の特徴は牧師が神格化される点にある。礼拝は牧師の自慢話に終始、キリストはどこにいるのやら。良心を痛める者もいない。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)23:37

>礼拝は牧師の自慢話に終始

そうですか。でも、それだけ自慢できるネタを持つセンセイは多分とてもエライ人なんだろうと思います。ハイ。

Spywareにご注意!

NHK「クローズアップ現代」でSpywareの実態をレポートしていた。私も一応気をつけており、そのスキャン・ソフトで確認はしていたのだが、今日別のソフトでスキャンすると、何と5つものSpywareが侵入していました。あわてて銀行の残高と証券会社、およびクレジットカードを調べたところです。

同番組によると3台に1台は侵入されているとか。ホームページやSpamメールを開いただけで感染するものもあるらしい。皆さんも確認された方がいいです。ウイルスのワクチンソフトだけでは危ないですね。ファイアウォールと、ワクチンと、Spyware検知ソフトは必需品ですね。しかし何とも気味が悪いこと。

Commented by まるふぁ 2005年12月06日(火)18:22

私も昨日の「クローズアップ現代」見ました。
私が導入しているのはフリーソフト(Ad-AwareとSpybot)ですが、ちゃんと有料の対策ソフトを入れたほうがいいかなぁと思いました。Lukeさんがご使用なさったソフトは何ですか?

自分のPCに入力した情報が相手のPCに筒抜けの様子が具体的に放映されて怖かったですね・・・。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)21:43

私もSpybotを使っていたのですが、検出できなかったみたいです。今はこれです:
http://shop.vector.co.jp/service/catalogue/sr071522/

Commented by まるふぁ 2005年12月09日(金)18:54

ありがとうございます。
スキャンしてみたところ、7つのスパイウェアが検出されました。今まで巣食っていたのに気付かずにいたのか・・・とちょっと怖くなりました。

度々のお詫び

どうも月曜日はアクセスが集中し、回線とサーヴァーがパンクしてしまうようです。午前10時過ぎから午後4時半ごろまでダウンしておりました。そろそろADSLでは限界のようです。何かの工夫をと考えておりますが、ご寛容の程をお願いします。

ニッポンキリスト教界と付き合って

何だか不思議と言うか、ワケの分からない世界であるなあ〜、と最近とみに感じております。表は不自然にニコニコであるが、妬みと敵意とに満ち、互いのシマを守り、羊泥棒を警戒する先生たち。かと思うと、ヤクザの世界よろしくいきなり因縁を吹っかけられて、対話を試みると、捨て台詞を吐いて去っていってしまう「神学者」。モーセ律法を「守る」人たちがローマ2:14-15に反する振る舞いをする。聖書と言う共通の土台では話ができない。

他方で妄想を持つ人々、「ファイア」で倒れて床を転がる人々、自分の功績を目一杯誇る立派なセンセイたち、自分で物を考えることをせず、飼い慣らされて疑問を呈することもできなくなっている従順な羊のみなさん。人間的勲章を求めてのしていくセンセイたち。ビョウキの人が「まとも」で、まともな人がむしろ排除されるギョウカイ。何なのだろう、この世界は・・・と。

この4,5年見たり、聞いたり、否応なく巻き込まれたりする間に感じたこと。一言、まともではない。いずれにせよ、このギョウカイ特有のシキタリがあるようで、普通のセンスはどうも通じないようだ。ヤクザの世界に巻き込まれて、そのシキタリに目をパチクリしているような自分の位置づけを感じている次第。そのシキタリに従わないと異端とかカルトにされるようだ。

繰り返しなるが、このギョウカイにドップリは相当に危険なこと。単純さと喜びと健やかさを失い、いのちを消耗していくことはマチガイナイ。かくしてビョウキの人が再生産されていく・・・。このギョウカイの将来はいったい・・・嗚呼

Commented by ブヒ Eメール 2005年12月04日(日)21:52

こんばんは〜!!
ビョウキの世界にどっぷり浸かっていた人間にとって、ルークさんに教えて頂いた「普通の生活、当り前の生活が大事」は、本当に新鮮でした。
またその普通の道を主とともに歩くことに心から感謝を覚えてます。
そうですよね・・・イエス様も30年間普通の人として普通の生活をされてたんですものね。

「何かをしてなければならない!!」と云う強迫観念のようなものを纏ってた私ですが、その重い衣を少しづつ脱ぎ始め、軽くなって来ている事を実感しています。本当に主に感謝です!!

>自分で物を考えることをせず、飼い慣らされている疑問を呈することもできなくなっている従順な羊のみなさん

まさに飼い慣らされた羊たち・・・巧妙なMCもありますね。。。つい2〜3日前もその事を思わされてました。
飼い慣らされた羊たちが目を覚ますことができますように、心から祈りつつ!!

Commented by Luke 2005年12月04日(日)22:18

カエルはいきなり熱湯に入れると暴れて逃げ出しますが、水に入れておいて、徐々に熱していくとそのままゆだってしまいます。

専門用語で「認知的不協和最小化作用」と言いますが、何となく熱くなってきて違和感を覚えても、自分が悪いとして、「慣れ」て行こうとするのですね。

かくしてドップリはまると逃げるのが困難になります。ブヒさんのおっしゃった重い真綿で首を絞められる感覚ですね。外から見ると、はまってしまった人は大変だと思いますが、本人はその最中は感じないのですね。

センセイの側も信徒に自立されてはまずいわけで、生かさず殺さずじゃあないでしょうか。実に巧みですね。一流の牧師ともなりますと・・・。

でもね、この数年、本当に勉強になりましたよ。私の専門から見ても興味深い現象がゴロゴロありますから、このギョウカイ^^

今日の映画

午前中はいつもどおりプールとサウナ。サウナで知り合ったトラック運転手の話によると、自由競争のためにダンピングをしてまで仕事を確保するために、忙しくても収入にならないとのこと。この象徴が姉歯建築士の「ダンピング」。市場原理による自由競争の行き着くところはかくも悲惨。金のために自然の人間性を損なってしまう。姉歯氏もすでに心を病んでいますね。

同じように見せかけの「リバイバル」を追求して福音をダンピングするセンセイたちも病んでいます。「霊的」スーパースターを呼んで、派手なイベントを打って、金と人を集めて、大きな礼拝堂を建てて・・・そのあげくは一体どこに向かうつもりか?

一方でそのような風潮のリバウンドとして、再建主義のようなやや狂気の入った思想が徐々に侵入している。救世軍の山谷氏はついに「まったく馬鹿げている!」と宣言されるに至ったようだ。ここをご覧の方々はすでに再建主義の本質が見えていると思います。ただ私に対して心に一物持ちながら、病んでいる富井氏を煽るために覗いている方もいるようですが・・・。

まあ、人生イロイロ、会社もイロイロ、「クリスチャン」もイロイロと・・・(あえて括弧をつけておきます)。

 * * *

午後はカミさんと食事をして映画。食事は中華。ここの料理はカナリいける。ホットの紹興酒にザラメを入れるとこれがまた寒い日には格別。映画は「Mr.&Mrs.スミス」。ブラッド・ピットとアンジェーリナ・ジョリーの軽快な、ややコミカルなアクション物。ちょっとオトナの香りを醸して、軽妙なタッチで楽しめた。

ブラピは「アキレス」でマッチョになって以来、なかなかアクション物がフィット。アンジェーリナはその厚い唇がなかなかセクシーなのだ。ニッポンキリスト教の倒錯的世界に触れた後は、やはりバランスを取るために映画と温泉がピッタリ^^このキリスト教界という閉鎖的ギョウカイにドップリはかなり危険ですね。そう思いませんか、みなさん?当たり前を当たり前に、普通のオジサンとオバサンでいましょう、ネ。

Commented by Luke 2005年12月04日(日)08:59

来年の5月にアナコンディアとかが名古屋に来て聖会を開くそうです。名古屋はニッポンのリバイバルの中心となるそうで、皆さん燃えているようですけど。

しかし考えてみて下さい。日本人がみなこういった人物の周りに集まって、聖会で酔っている姿を。アフリカやインドではそういったこともあるのでしょうが、日本人はけっしてそのような方法は受け入れられないでしょう。

目に見えるそのような現象を求めるのではなく、淡々と草の根的にいのちをまき続けるべきです。

それにしても好きな人がいるのですね〜。

悪魔が来たりて・・・

「自分の中に悪魔が入ってきて、女の子を殺してしまった。自分ではなく、悪魔が殺したんだ」と。悪魔は確かに実在しますが、人の責任がある。聖霊派では何でもかんでも「悪霊じゃあ」とやっているようですが、霊的な影響力に自らさらすからなのです。こちらの側につけこまれる何かがあるわけ。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

どうもこのピサロと言う人物は乖離性人格障害あたりだろうと推測される。要する一種の多重人格傾向。人格障害者による犯罪は確かに増加している。この事件の後また少女が刺されたようだが、実にイヤな事件だ。私にも二人の娘がいるが、まだ私たちの子育ての時代はのどかだった。まあ、宮崎勤事件がこの種の犯罪の先駆け的事件だったが。

今後、世においてばかりでなく、キリスト教界の中でも人格障害や精神障害を持つ、しかも病識の欠如した人々によるわけの分からない事件が起きてくると予想しています。いや、もうすでにけっこう起きているのです。「リバイバル」ではなく、「サバイバル」です。

あと、2週間と3日・・・だ

ふう〜、今日もまた終わり。いよいよカウントダウンです。今年の仕事納めは21日。で、22,23日と福島のS兄弟の山小屋に行く予定。その後26,27,28日と伊豆の温泉。そして歳越しと・・・。

しかし、早い。本当に早い。来年は50ですよ!?私は50なんてのは老人だと思っていましたが。いざ自分が迎えることになるとは!

でもね、本人はいまだに学生気分。何せ、いつも接している連中がみな20歳前後ですから、自然と彼らと同一視しているようです。告白しますと、50歳とかの人と接する時には何だか年長者と接するような気分で、気を遣うのです。言葉もつい敬語になってしまいます。以前、子供たちの参観日などに出かけると、何だかやたらとオジサン・オバサンばかりで、圧迫感を覚えたものです。

まあ、確かにGパンとヨットパーカーでさせてもらえる仕事はそうはありません。と言うわけで、私はどこにいても同じなのです。この「素」と言うか、「地」でいられることはけっこう幸いなんですね。「当たり前さ」の祝福です。こんな感じで「その日」まで生きていくんだろうなあ〜。

というわけで、どうもあまり生活感がないらしいのですが、これでも32歳で5,400万の借金をして、自己破産に直面したこともあるのです。ちょうど今の偽造マンションの住民の方々のように、多額のローンだけを背負わされてね。この裁判は8年かかりましたが、主の約束がありましたので、けっこう楽しかったですね。東京駅前でプラカードをぶら下げて、デモもやりましたね。

ちょっとお話しますと、裁判官はけっこう移動があるのですが、途中で変わった裁判官が元司法修習所の所長で、これが偉ぶっているわけ。原告である私たち庶民に対して目一杯威張りくさって、被告の大企業にはペコペコ。で、私はすぐさま彼をプロファイリングして、その弱点が見えましたので、彼に丁重にお手紙を書いたわけ。

で、これがズバリ!次回の期日からわれわれ原告の顔色をチラチラするようになって、最後まで私たちのペースでしたね。偉ぶった人ほど、実は内面の弱さを隠しているのです。そこを突けばコロリです。300億の残債をチャラにして、7億5千万の和解金を取りました。

みなさん、裁判というものは、実は、法廷の外で決まります。そして弁護士を使うなら共産党系の弁護士を。損得勘定抜きで彼らの正義感と情熱はすごいです。彼らには本当に敬意を払いますね。クリスチャンが共産党員に助けてもらったのです。

(なお、念のため、私が書いたのは脅迫状ではありませんよ!)

実に面白い現象

今、お昼休みですが、拝見したところ、富井氏がまた興味深い本の翻訳を紹介されています。「クリスチャンはトーラーを誤解している」という論文ですね。歴史的な考察がなされていて、これはこれでなかなか面白く、参考になりました。

ただね、不思議なのは、「Dr.Luke氏は1m原器である神の言葉を受け入れていない。それはすなわち自分を神より偉大とすることだ。彼はクリスチャンではなく、ヒューマニストだ」と言われるのですけど(ヤレヤレ、どうしてこう空転するのでしょう?)、私的にはどうしてこういった人の書いた論文あるいは神学に基づいて論じる必要があるのでしょうね。御言葉に書いてあるでしょうに、特にローマ書とガラテヤ書に。御言葉に留まっていないのは彼なんですね。

私が批判しているのは1m原器(御言葉)ではなく、1m原器を歪んだ物差しで計っている富井氏を通して見えてくる再建主義なんですね。それはとても御言葉から乖離している。多分他の再建主義の方々も相当に迷惑していると推察しているのですが・・・。自分を神としているのは、むしろ<自分の唱える再建主義=神の言葉>とする富井氏なのです。

私の専門からすると非常に興味をそそられる現象です。でも彼に対しては何と言うか、あまり敵愾心を覚えないのですね。逆になんと言うか、ある種のシンパシを覚えるのです。彼は真剣に私をコキおろしているわけで、あまり悪意が感じられず、むしろ「傷ついた純粋さ」、「痛々しい青さ」(ある方の印象)による悲壮さが感じられるからです。しかし、まあ、永遠のすれ違いでしょう・・・か。

(上の論文は、なぜか、その後削除されました)

民営化の限界

本日で駿台は終了。これで木曜日が空きます。受験生はこれから、私も大学の方は入試で忙しくなるわけ。一方で受験生を大学に入れる仕事を、他方で学生を取る仕事をしていますから、何だか不思議な立場ですね。で、医系予備校あたりでは、裏ルートなどもできてしまうことがあるとかないとか・・・。

審査をされる側とする側が共に同じ利害関係のベクトルを持つと、今般の建築設計書偽造事件になるわけです。この辺が民営化の難点でして、やはり国家でなくてはできない分野があるのです。

ところが再建主義では、(モーセ律法を採用しない)国家はすべからくヒューマニズムの権現ですから(よって、神に敵対する)、例えば、教育なども子供たちを国家に委ねるな、という発想になるのですね。自前でモーセ律法を叩き込むことが彼らの教育の目的です。これがホームスクールやチャーチスクールのルーツです。

しかし民営化で市場原理に基づいて自由競争する領域とそれをけん制する機関が必要なんですね。で、クリスチャンは国家のために祈ると・・・。そもそもこのような国家不要論的思想は果たして聖書的でしょうか?初期の兄弟姉妹はローマ帝国に服していましたよね?また、そうせよ、とパウロは命じています。当時のローマはモーセ律法を採用していましたか?私たちの信仰と良心を犯さない限り、私たちは国家に服するのです。

このように再建主義は「律法をすべての領域に適用せよ」と言いながら、もっとも本質な御言葉を自分が無視していることに気がついていない。「御霊に従えば律法の要求は満たされる」と書いてあるのに!?彼らは自己矛盾です。だから議論がもつれるわけ。しかもそれに気がついていない。病識の欠如は重症です。

すべての権威のルーツは神です。霊的にも、家庭的にも、社会的にも、適切な権威に服することは、私たちの健やかさにとってきわめて重要なファクターです。服していれば、自動的に油が垂れてくるのですから。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。