2003年11月21日

マイケル・ジャクソンの病理

彼がパラフィリア(性嗜好異常)の一種である少年性愛者であることはそのスジでは以前より指摘されていた。ネバーランドなるオドロオドロシイ場所に少年と過ごしているらしいが、彼は大人や女性は信じることができない、ただ信じられるのは子供たちとして、子供の人権や保護のメッセージの発信し、活動もしていたようである。が、今回の逮捕はその表の顔と裏腹に彼の病理が暴かれてしまった。

成人男性でも成人女性と関係を持つ事のできない"純情な"人物が、少女を相手にする場合がある。成人女性に対する時に自分の真実に触れられる恐れを覚えるのである。先日も書いたが、今日、このような人物がしばしば教育界にいることが不気味である。あの詫間氏による小学生惨殺事件の後、学校は一応外部者に対する警戒は強めたようであるが、実は内部にすでにそのスジの人物が教師として侵入している。

福祉やボランティアなどの場面でも、しばしば裏で性的(に限らないが)虐待がされていることは業界ではよく知られた事実である。なぜならこの領域ではしばしばスタッフ自身が問題を抱え、その問題を福祉・ボランティア活動により代償的に補償するためのものであることが多いからである。

「自由・平等・博愛」なる旗印は偽りであると知るべきである。神を排除したこの世の真実は「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」である。平和主義者や博愛主義者がしばしば最も過酷な攻撃者となることは、十字軍が証明している。

らっきょの皮むき

ある集団がカルト化しているかどうか、簡単に判別するリトマス試験的方法がある。そこのリーダーや信条を批判することである。この時のメンバーの反応を見ることにより、カルト度を測定することができる。つまりメンバーがその教祖や信条にアイデンティティを置いている程度と、反論の度合いは正比例する。

私がよく「聖霊派」を批判すると、しばしばお叱りの声をいただくが、その人が「聖霊派」にアイデンティティを置いている証明となる。私は現在英国のコリン・アーカートの影響の下にいるが、彼が批判されても私が反論する必要はない。私のアイデンティティは彼の上にないからである。

「ニッポンキリスト教」という言い方を嫌う御仁もおられ、私の発言を何かの挑発と受け取るようであるが、その人のアイデンティティの置き所が証明されている。キリストと御言葉がアイデンティティの置き所である時、○○派に対する批判も、××センセイに対する批判も、「It's none of my buisiness(あっしとは関わりのねえ事でござんす)」となるはずである。しかし現在の霊的状況はSaltさんもご指摘のとおり、オーディコロンが必要である。

自分というらっきょの皮むきをして何が残るか、反省猿の二郎君に調べてもらうべきである。

売られたケンカ

昨晩、息子が塾の帰り、他校の悪ガキに因縁をつけられ、顔面を殴られた。不意打ちを食らった彼は一瞬足に来て、クラッとしたらしいが、直ちに応戦し相手は半べそをかいて戦意喪失。彼は口の中を切り、数針縫った。X線では骨折などは観察されなかった。

ケンカのコツはイジイジとやり続けるのではなく、最小限の攻撃で相手の戦意を奪うことである。BBSなどでよくある議論の応酬に継ぐ応酬は疲れるだけである。議論のコツは相手の口を一言でふさぐこと。

サタンは何かと因縁をつけてチョッカイを出して来るが、実はわれわれを恐れている。聖霊派の「霊の戦い」はすでに見当ハズレの「戦い」をしている。聖書をもって神社の周りを「悪霊退散!」と回ったりとか。実にアホらしいし、まさにアニミズム的でありそれ自体がニッポン的。

サタンに処する道も、イエスの十字架であり、「サタンよ、出て行け〜」という私たちの勇ましい声やパフォーマンスではない。すでに彼は敗者である。この永遠の事実を突きつけてやる時、彼は半べそで戦意を喪失する。私たちは空を打つ健闘をすることなく、相手の急所を一撃することにより、良い戦いを戦い抜く必要がある。