2003年11月26日

アイデンティティと身の置き所

さっき校長の自殺の件を書いたが、この人も物が見えてしまったのだろうと思う。吉田兼好は「徒然に物を書いていると、世の事態が見えてきてしまって、狂ってしまいそうになる」と言っているが、私などもクリスチャンになっていなければどうなっていたことか。現代では庵を結ぶわけにもいかず、できることは永平寺あたりに入ることだろう。道元には憧れていましたからね。あの凛とした空気は身と心が引き締まって背筋もシャンとする。

私の場合、どうしてやっていられるかと言えば、霊と魂の切り分けができているからでしょう。ここでいろいろな病理現象を切り刻んでいると、何の希望もないような気分にもなるが、実は霊に戻る時に、真の自分のアイデンティティを確認し、あらため本当の身の置き所を見出すわけ。自分を取り戻すことができる場所、それは真の至聖所である霊である。心の底からほーっと息がつけ、父の愛がじわーっと迫ってくる。

神の子であり、居場所は霊のうち―ここが開けると物狂おしいこの世(教界も?)でも真の自分を保つことができる。多くの混乱しているクリスチャンは魂の中を果てしなくぐるぐる空回りしている。魂と霊が分離されるならば、ただちに安息に入ることができ、まことの満足も得られるのだが。

ニッポンキリスト教の普通の牧師で、霊と魂の分離などというメッセージをするセンセイはいないし、そもそも何のことか彼らには分からないだろう。いわんやその下にいる信徒をや。弟子は師を越えないとあるとおり。これが教界の果てしないややこしさの理由である。

私と接触するとそれぞれの方がどうも目覚めるので、それまでの生き方に対しても、周囲に対しても、いろいろと白黒をつける必要が出るようである。「うちのセンセイのおっしゃるとおり」であればある意味で自己責任を放棄して楽なのであるが、目が開くと責任と苦しみも背負い込むことになる。バイブルカレッジの受講生の方々もいろいろ自分と周囲に変化が起きてきて戸惑う場合も多いようである。まず霊が開かれるとクリ系の新聞や雑誌を読んでも無意味。またいわゆるキリスト教の慣習や伝統、人の様や評価にも無頓着となる。

なぜなら今この瞬間にいます実質(=ありてある)に触れているからである。かくしてそれぞれが主の前にまず単独者として立って、「あなたはわたしに従いなさい」という主の招きに応ずることがすべてとなる。それは一面孤独の極致であり、人間的な慰めを求める人には耐えられない。しかし実は最も甘美な状態であるのだ!この甘さを経験するならば、目に見えるものは瞬時に意味を失ってしまう。

Jesus, You are so sweet and more than enough!

熱血校長の自殺

「新米校長奮戦記」などの著書もある55歳の校長が自殺したとのこと。以前、日の丸の掲揚で悩んだ校長が自殺したが、今回は何が原因であろう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031126-00003036-mai-soci

私の友人の高校の教師や、予備校の先生で高校をやめた方の話を聞くとある意味理解できる部分がある。キーワードは「ナンセンス(無意味さ)」である。

昼間は事務処理に追われ、授業がむしろ息抜きであると田舎の友人の高校教師は言っている。夜中に警察から電話が来たり、子供が行くえ不明だと親が泣きついてきたりと。神経が休まる暇がないらしい。

先にBBSに「存在の耐えられない軽さに耐えかねて」と書いたが、これはキョーイクの現場が一番証明している。積み木の積み方を教えられたとおりに、何度も積んでは崩して、また積んでは崩して・・・このような無意味さというか。(まるで小泉さんと管さんの論戦のようだ・・・・)

ソロモンの嘆き−「空の空、空をつかむがごとし」−である。