2004年4月

未納3兄弟と人質3人

やれやれ、管さんが6人目になったと思ったら、鳩山さんまで。民主党は危機的状況ですね。KFCのあるビルには民主党の事務所があるので、応援しているのですが。自己責任論は?江角さんにはどう答えるのでしょう?

解放された人質の2人が会見しました。女性はやはり精神的に厳しいようですね。誘拐した人々の実情も語っており、興味深い情報もありましたが、自己責任は自分たちには適用できないと強気の発言でした。ちょっと感覚がずれています。自分たちは信念を貫いただけであると。少々自閉症的傾向、自分の中での論理を感じるのですが。

と言っても中傷の手紙を送るほうも問題ですが、やはり家族の冷静な対応がほしかったと思います。なにしろニッポン人は情緒で右から左へと振れますから。おそらく家族の対応如何では、彼らは英雄になったことでしょう。

ひとつの状況に対してこれだけ評価が振れることは人の心の危うさを証明しています。私のところにもあの教会はこうこう、あの先生はこうこうと口軽く言ってくる人はあまり信頼できません。こういう人は気分しだいでガラッと態度を変えるものです。多くの場合、こういった教会をさ迷う人は心を病んでいることが多いのです。

未納3兄弟の後始末

今回は完全に菅さんのダメージが大きい。小泉氏は与党も野党もこれを互いのけなしあいでなく、積極的な対策を立てる機会にしようとか、なかなかやるものだ。この人物、口を尖らせてつばを飛ばすだけでなく、かなりの策士でもあるようだ。しかし、本質的な議論がなく、どうしてこうも浅薄な話に終始するのだ?

年金問題とリバイバル

前者にはコメントする気にもなれない。ボロボロです。両党ともこれ以上は触らないほうがいいのでは・・・?国民も40%近くが払っていないというモラル崩壊。この国の将来はいったいどうなるのでしょう?

ここでニッポンキリスト教の典型的牧師は、だから伝道、伝道・・・となるわけですが。このパタンはもういい加減にしてよ、と私などは思うわけです。奇麗事を言っている限りリバイバルなどは起こるはずもありません。また今のままクリスチャン国家になったら、相当にキモイ国ができるでしょう。Salt氏の言われるとおり、一度徹底的に絶望しないとダメですね、ニッポンキリスト教は。

 * * *

私は前に自分は財前五郎タイプであって、里見修二とは正反対だと書きました。まあ日記やBBSをお読みくだされば、ある種の人にはエリート意識丸出しの・・・という印象も与えるでしょう。

財前が死の直前に言っていました、「俺は確かに患者と向き合うことは少なかったが、しかしできる限りの努力をしてきた。それがいけないのか・・・」と。彼もあと一歩でした。

クリスチャンになるタイプ、あるいは神を必要とするタイプは、実は里美タイプではなく、財前タイプなのです。神はエサウを憎み、ヤコブを愛したとあるとおりです。ヤコブは一度徹底的にすべてに絶望することが必要です。「ペニエルの経験」により、イスラエルとなるのです。私は、ですから、里美ではなく、財前に魅力と愛着を覚えるのです。

商標登録

もう今年も1/3が終わり。年々、時間の進みが速くなる感じ。
 
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オンライン注文ですが、テープの注文が殺到し、処理が追いつかなくなりました。これから60本ほどコピーする必要がありますので、少々中断いたします。何とぞご了承を。

前にある教会で行ったセミナーのテープも結局100セットほど出て、そこの牧師の方がコピーで追われてうれしい悲鳴をあげたとおっしゃっていました。

不思議なのですが、まったく見ず知らずの方が私のMSGを聞いたといって来られるのですね。2月のセミナーのテープもいつの間にか出回っているようです。私のほうからは一切供給していないのですが。知らない方からテープを購入したとか言われることもあります。

まあ、現在のところあまり細かいことは言っておりませんが、営利目的はちょっと困りますので、ご理解ください。実はこのような意味でも"Kingdom Fellowship"を商標登録申請しております。ネットで検索すると、他に出てくるのですね。排他的権利と同時に責任を明確にする意味があります。

英国のKingdom Faithも実はもうひとつの同名の団体がありまして、紛らわしいわけです。よく間違われますが、.comが英国ので、.orgは別団体です。

メタの病理

今年は何の因果か、英語を持たされている(いいのかなあ〜?)。小生一応読み書きはできるが、実は英語はあまり得意ではない。駿台の伊藤和夫先生の「700選」(年代が分かるが、今もある)で少し自信をつけたが、使い手ではまったくない。

今もFENやDVDの映画の英語字幕でナチュラルスピードのピックアップを訓練中。専門的な話やニュースなどは容易に理解できるのに、日常の簡単なことば(特に米語)がなかなか拾えない。たぶん英語で幼児体験あるいは英語の幼児語を経験していないからだろう。

面白いのはハリウッド映画も60年代の英語はとてもきれいである。例えば「ベン・ハー」など。発音も明瞭でかなり聞き易い。70年代位まではかなりいいが、80年代に入るとガクンと乱れる。特にひどいのがスタローンの英語。イタリヤ系の訛りがあって、言葉も汚い。シュワちゃんはオーストリア訛りで、カッペであるのが分かるが、むしろ聞き易い。ブッシュの英語は実はかなりクリアだ。腹が立つが。

ところでCMで面白いのがある。ぬいぐるみを着た英語のティーチャーが生徒たちに「え〜と、I have a book.」と言うと、生徒たちも「え〜と、I have a book.」と物真似する。すると先生「『え〜と』はいらんよ」と言うと、生徒たちも「『え〜と』はいらんよ」となり、こんな英語を習う前にNOVAとなるわけである。

今日の講義ではまさにこれ。"equipment"の発音が分からないと言うので、「イー、キュー、ユーだから、イクウィップメント」と言うと、学生「イー、キュー、ユー・・・」とやり出す始末。

"I have a book."を説明する英文法は日本語になるわけだが、このように言語を説明する言語を「メタ言語」と呼ぶ。上のCMはメタ言語と元の言語の混同があるわけ。わが学生も同じ。でもあまり彼らを笑ってもいられない。

聖書の御言葉はひとつはロゴスとして、客観的真理を説明する機能がある。それに対して御言葉が御霊によって直接的に語られるとき、レーマとして、すなわちいのちとして経験することができる。御言葉の主観的経験である。

対して神学はちょうどロゴスなる御言葉を日本語で説明するものであり、要するに英文法のようなもの、「メタ言語」である。それ自体にはいのちはない。英語圏の人が英語を理解するのに英文法は必要がなく、直接的に英語を理解するのと同様に、内なる霊は御霊によって照明されて、直接に御言葉の真理を直覚する。ところがこの御言葉の直接経験をすることなく、メタ言語の神学の世界に入り込んで、ケンケンガクガク。ニッポンキリスト教徒は議論がきわめて好きな人種である。

御言葉はもちろん理解することも大切であるが、まず霊の食物として食べること。反芻する動物は聖なる動物であるが、われわれも何度も何度も御言葉を反芻することである。羊は牧草の栄養学は知らないでも、食べることで成長できる。われわれイエスのひつじも同じ。霊的栄養学を理解する人は必ずしも多くはないが、御言葉はまず食べればよい。

5千人は食べて満足した、とあるとおりである。

バプテスマは新鮮です

本日バプテスマがありました。新しい魂が主へともたらされ、キリストの死と復活に結合されて、新しいいのちの領域において誕生しました。毎回バプテスマは新鮮です。これは不思議なことですが、空気がスーと澄んだ感じとなり、私たちの内側までリフレッシュされます。この方のすべてに主の祝福の御手がありますように。

皆さんで夕食をいただいて、デザートにケーキを2つも食べたというか、食べさせられました^^小生、酒はほとんど関心がないのですが(要するにアルコールの薬理作用だけで十分)、甘いものには目がありません。喜んでパクパク食べていると、うん?、何だか顔がホカっ〜としてくるではありませんか。なんとこのクリームには洋酒が入っているとのこと。頭がほんわか気持ちよくなってしまいました。

で、車で帰って来たわけですが、これも「酒気帯び」なんでしょうか?

チャーチスクールその後

いやあ〜、驚きですね。何でこのトピがこれほどに熱いのでしょうか?私的には普通のことを普通にすればいいでしょうに、と思うのですが。

確かに学校におかしな教師がいますし、内容もひどいものがあるでしょう。しかしその中でちゃんと主の手が摂理によって働いていることが見えないのでしょうか?モーセやヨセフが被った理不尽を見て見なさい。同時にそこに神の手が見えませんか?彼らはエジプトで訓練されたのです。カナンの地には老いた父と愚かな兄たちが財産を食い潰していただけです。

私の本質的問題意識は、彼らの動機が自分たちで自分たちを救おうとしていることです。主は言われました、「わたしに従いたいものは自分を否み、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。自分の魂(原語)を救おうとする者はそれを失い、救おうとしない者はそれを得る。」と。

神は自ら助けない者を助けるのです!

4年目に入ったKFC

昨日のBBSの嵐は去ったようですが、天候は寒波が戻って3月下旬並み、北の方では雪もあるとか。夏日のあとは冬に逆戻りと・・・。少々荒れ模様です。

 * * *

まあいろいろありますね。意図せざる形で始まったKFCも4年目に入りました。この間いろいろな人が出入りし、様々の事件もありました。私のスタンスは来る者は拒まずですが、たいてい動機が何か、これが鍵になります。ただ主イエスだけを求めるのか、何か他の動機があるのか。他の動機の人はたいていつまづいて去って行きます。

私はいわゆる顧みと称するケアとか"カバーリング"なるうっとおしいことはしません。それは主がなさることです。そして去る者は追わず、です。また時に内部をかき回す人もいました。このような意図的な作為に対しては明確な態度を取ります。かくしてひとり除名処分を取ったケースがあります。

この意味でひとりひとりが人を当てにするのではなく、主だけを見つめ、主だけに頼っていないと、共に歩むことは困難になります。人間関係は、ですから、きわめてドライというか、アッサリです。格別の求めがない限り、互いのプライバシーにはほとんどタッチしません。ですから人からの顧みや、世話を求める人はフラストレーションを覚えるようです。

私たちは麗しい人間関係を構築するのではなく、共有するものは御霊によるイエスご自身だけです。キリストの交換力だけでの結合ですから(http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Ron/identity7.html)、油塗りと臨在がなくなればただちに解散ということもあるでしょう。KFCに対する神の召命と委託がある限りはここで神が何かなされるでしょう。

ですから私は「10分ごとに笑いを取る説教の仕方を学ぶセミナー」とか「教会成長セミナー」とかまったく関心がありません。しょせん人間業は木、草、藁です。また裸一貫、苦節何十年、ようやくここまで・・・も臭いがきつくてご遠慮です。パウダー感覚でサラサラっと導きに従うだけです。

チャーチスクールは・・・?

いやあ、ほんとに驚きました。BBSでこのトピについて懸念を表明するや、これほどにエキセントリックなレスを次々にいただくとは・・・!?

私がある団体のカルト化の指標として見ているのは、そこの指導者に対して批判的意見を投げてみることです。医師が胸を叩くように、あえて石を投げるわけです。コレに対するそこのメンバーの反応でカルト化はすぐに見て取れます。言うまでもないですが、カルトではその批判意見すら許されない雰囲気が醸されます。

例えば私は今英国のコリン・アーカートとのかかわりがありますが、彼も物言いがはっきりしているために英国では結構批判されています。しかし彼が批判を受けても私とはなんら関わりのないことです。彼は彼、私は私。それぞれのアノインティングに従うことだけ、これがすべてです。パウロは言っています、「ある人はこうしており、別の人はああしている」。

私がニッポンキリスト教で注目株だと言ってくださる人もいるのですが(今回のBBSにもありましたが)、私とはなんらのかかわりがありません。「言動に配慮せよ」と言ってくださった方もいますが、まっぴらご免、です(笑)。もともとこのようなパブリックなミニストリーをする意図もありませんでしたし、何らかの評価を得るつもりもありません。この高々1%の村社会でそれが何になるというのでしょう?

私は今までどおり、淡々と主と私の間にある油塗りに従うだけです。キリストをエンジョイすること、これだけが私の願いです。むしろそのような人の評価はあえて壊すことでしょう。人の評価などはコロコロ変わるものであり、真の自由を損なうだけです。私は自由を享受し続けたいのです。当たり前を当たり前にしつつ。

どうもニッポンキリスト教、真に満足し、健やかな人が少ないようです。「あなたはオンリーワン、神のVIP」と言われると喜んでも、「富む者はますます富み、持っていない者は持っている物までも取り上げられる」というメッセージには腹を立てる。満足と健やかさがないからです。真に満足している人は「VIP、オンリーワン」などど叫ぶ必要もないことです。「富む者は・・・」と聞いたら、喜びにあふれて「アーメン」と応えるでしょう。ますます富む者となるために、キリストを前へ前へと向かって追求するだけです(ピリピ書)。

おかしな「自由・平等・博愛」の価値観がいつのまにか蔓延っています。聖書が言っていることを、私は明確に語ります:神の国の原則は、能力に応じてタラントが分かち与えられ、そのタラントを増やす者が、よくやったしもべとして主から報酬を受けるのです。しかし同時に、自分の弱さにおいて主の恵みは十分に現れ、主は見栄えのしない肢体を格別に整えて下さるのです。

あなた方の言葉はしかりか否かであるべきだとあるとおりです。

Blessings!

竹内均先生逝く

東大名誉教授で、地球物理学者、Newton編集長、さらに代々木ゼミナール校長の竹内先生が84歳で逝かれました。思えば高校時代に、「ラジオ講座」や「傾向と対策」でお世話になりました。田舎で情報がほとんどない中、この「ラ講」が唯一の頼みの綱でした。わが青春のひとコマです。

先生は独特の語り口と分かり易さが定評でした。若い頃に地球物理学のノーベル賞と言われるラグランジュ賞を取られ、また小松左京の「日本沈没」にも自分役で登場されるなど、とてもユニークな方でした。

その後私も東大に入り、東大教官の著作目録があるのですが、それを見て驚きました。竹内先生の著作はほとんどが受験参考書!いやあ、これは変わった東大教授だぞと思ったことがあります。

実際先生ご自身、若い頃は専門分野での業績をあげ、教授になったら弟子を育てつつ論文よりは本を書き、退官したら啓蒙雑誌を作り、最後は幼稚園の園長さんで終わりたいと語っておられました。実に勤勉な誠実な人柄の方でした。

懐かしいですね、わが受験生時代。「ラ講」には、一方で東北大学の勝浦捨造先生がおられました(その後退職し代々木ゼミナールに移られた)。数学の先生ですが、浪花節調で、おおいに励まされたものです。しわがれ声で「三高寮歌」を熱唱していました。この先生も何年も前に亡くなっています。英語では早稲田の西尾孝ですね。この先生も故人です。その他駿台系では、伊藤和夫、鈴木長十両先生にもお世話になりました。伊藤先生とはその後駿台講師になってからご一緒したこともありますが、みなさん故人です。

この前の長さんもそうですが、私の人生のひとコマひとコマを共有された方が次々に亡くなっていくのは少々寂しいことです。ちなみに私の大学の同級生も一昨日大腸ガンで亡くなりました。そんな世代に入ったと言うことでしょうか。人生は文字通り、「サドン・デス・ゲーム」です。

ご冥福を祈ります。

至聖所@車

私は東京湾をグルッと片道1.5時間の車通勤をしています。実はこの車の中が私にとって唯一孤独になれ、運転以外の仕事から完全に解放される時空間なのですね。よってこの往復3時間をほとんど主との交わりと祈りに費やしています。

実に濃厚に主の臨在が迫り、異言がずっと出て来るのです。時に涙もあふれますし、あるいは大声で賛美を叫びもします。何しろこの空間はいくら大声を出そうともまったく問題ありません。聖別された空間なのです。

かくしてこの時間に主のタッチを受け、個人的なミニストリーをいただくわけです。実に癒されます。メッセージもここでインスピレーションをもらいます。またお言葉もかけてもらいます。

CDもよく聴くのですが、もちろんワーシップもですが、実はセキュラーなミュージックも結構聴いています。例えば、EaglesやABBA、あるいはサザン・オールスターズや中村雅俊、時に阿川泰子のジャズ、はたまた高橋真理子のスタンダードなどなど(まあ、オジサン系と言われればそれまでですが・・・笑)。

セキュラーなものを聴きつつも、実は臨在をエンジョイすることができるのです。仕事をしながらでも、講義をしながらでも、キリストに触れることができます。これが霊と魂の分離です。魂の状態によらず、霊が臨在に憩い、主の甘さを享受することができるのです。

私にとってはウォッチマン・ニーとともに、ブラザー・ローレンスがひとつの大きな霊的模範です。

3人の運命

帰国した人質の3名はPTSDと診断されたようですが、今後かなりきびしい人生が待っているでしょうね。普通の歩みはできなくなるでしょう。

もう一度繰り返します:動機がどこにありますか?

もろもろ・・・

2名の人質も解放。どうも何かの戦略がありますね。彼らはファルージャの惨状を伝えるために、あるいはそこに世界の目を留めるために誘拐しているような印象があります。

ブッシュもついに米英単独をあきらめて、というか、この前の演説ではすでに相当に追い詰められて、国連主体にするようですが、これまでメチャクチャにしてしまっている以上、その後始末をさせられる国連もいい迷惑でしょう。

米国型原理主義者たちよ、なおも叫ぶのですか。イスラエルのために神が立てた立派な指導者ブッシュよ、と。狂信ぶりが明らかになるだけでしょう。しかし今回は雑誌や本なども有名な牧師たちがヒステリックに叫んでいました。イスラエルは人を狂わせる霊的な何かを持っています。

 * * *

きょうからバイブルカレッジ再開。7月まで月月火水木金金、休みはナシです。長さんではないが、

  「さあ、行ってみよう!」

北朝鮮拉致問題は・・・?

いったいこれはどうなってしまったのでしょう。怖いですね、マスコミも社会も、すべてが一色に塗りつぶされることは。

自己責任の原則

BBSにも少し書きましたが、今回の件はどこか変です。

人質の人たちには、ぜひ費用を自己負担していただく必要があるでしょうね(登山などの遭難では当たり前のことです)。小泉さんの気持ちも良く分かります。一部情報によると、今回ボランティアをしていた女性については、やはりいろいろな精神的な問題があるようです。

正直言いまして、心を病んでいる人たちが、自分の病気を盾にして、人権とか個人の自由とかを主張し出しますと、その他のふつう人々がえらいトバッチリを食らうことがよくあります。彼ら人をマニュピレーションすることに長けています。

これは教会の運営でも言えることでして、神学の知識や哲学などはよく知っていてもジョーシキがなく、変なこだわりをもって自己主張したり、突拍子もないことを言い出したり、行ったりする人が一人いると、周りはしばしば振り回されます。私も何件か経験していますが、私は決して彼らに譲ることはしません。

わたしのところには牧師からも相談が来るのですね。この種の一人によって教会を滅茶苦茶にされ、ご本人も体を壊して入院したケースなどなど。みな欺かれるのです。この人は病気だから、受容して、何でも許して、まあまあ、なあなあ。これが敵に足場を与えます。

彼らには毅然とこう言うべきです:あなたは今までどおりの生き方を通すのであれば、決して癒されないでしょう。私のペースでやることができれば、癒されるでしょう。それができないのならば、どこか他へ行きなさい。自分で選びなさい。

霊的原則はこうです:

 それぞれが撒いたものを自分で刈り取る。

つまり自己責任の原則です。主の前に立つとき、主からひとりひとりが、「あなたは・・・」と二人称で問われるのである。病気は理由になりません。

今のニッポン、この世も教界も、当たり前が当たり前でない、どこか変ではないでしょうか?

人質3人解放

とりあえず何よりです。

が、無事だったのであえて言いたいですね。真の意味での公共性を学ぶべきでしょう。

あと2人のジャーナリストの行方はどうなっているのでしょう。

ついに人質殺害さる

イタリア人が殺害されました。彼らは本気ですね。

ジャーナリストやボランティアの方々も、ぜひイラクに行く際にはご自分の動機を探ってみてください。本当にイラクのためでしょうか?それとも業績を上げることや自分探しのためでしょうか?

自分の命を危険にさらすばかりでなく、家族を苦しめ、国家の運営が妨げられることもあるのです。大義名分はどうにでも立つでしょう。が、動機がどこまで純粋でしょうか?

しばしばボランティアや福祉などで活躍される方々は、自分が問題を抱え、その問題を解決するための活動であることが多いのです。これは業界の常識です。

私はあまり人間の善意とか純粋な動機などは信じていません。自己(Self)から解かれることはそれほど簡単なことではないからです。というより、「私の十字架」によるしか、まことの自己の解放はないのです。十字架を経ないものはフェイクです。

この意味で、「パッション」などのメディアが伝道に有効であるとは思っていません。クリスチャンとして騒ぐべきものでもありません。今、問われるのは、前から言っているとおり、"マイ十字架"だからです。

TIME誌の写真

TIME誌今週号に3名の写真が出ていました。日本のTVで放映される場面はごく一部です。同誌には今井君が喉元にナイフを突きつけられ、女性の方が顔を覆っている様子が出ていました。

これは家族には見せられません。知らないほうがいいこともあるのです。

私の知り合いの方のご主人は大学の先生でしたが、反イスラムの本を翻訳したため、喉元をかき切られて殺されました。憎悪の霊がモロに吹き出してきています。

実は私は血がダメなんですね。小さい頃から血を見ると、大声で泣き出す有様。例の「パッション」なんていう映画はとてもとても観ることができないでしょう。

幸い、イエスの血は、霊的領域において、今も流れ、私たちを清めてくださっています。この目に見えない霊的リアリティを大切にしたいのです。あまり「パッション」てな映画を論評するのは私には意味不明であります。

新入生風景

大学では一応私も個室をもらっています。今日の午後のひとコマ。

コン!コン!

ノックの音で出てみると、目がちょっと焦点を結んでいない学生が、「あのね〜、隣の先生はどこ?」と一言。

小生(内心、知るかよ〜、なんだこいつと思いつつ):「私には分かりませんよ。」

学生(ぼお〜としつつ):「だって先生は隣の先生でしょ。どうして知らないんですか?」

小生(内心、これはちょいとヤバイぞ・・・):「あのね、隣でも部屋には壁があるでしょ。だからね、わからないの。」

よく見るとドアに足を入れている。新聞の勧誘だろ、これは。押し出すようにしてドアを閉めて、これで引き下がったと思ったら、またしばらくして、

コン!コン!

学生:「あの〜、ぼく3限か4限に授業があるんだけど、時間が分からないの。何時からはじまるの・・・?」

小生(まずいよコレは、と思いつつ):「あのね、君の時間割は自分で決めるんでしょ。教務課で聞いてね。」

学生:「あ〜、そうなんですかあ〜〜」(幽霊のように去りました)

またしばらくして、ワイワイガヤガヤと学生が廊下を通ったかと思うと、

コン!コン!

小生、「何だよ、またかよ」と思いつつドアを開けると、誰もいない。ちょっと先を見ると女子学生がえらく明るい声で、「すんません〜。間違えちゃったあ〜」。

おいおい、ピンポンダッシュじゃないんだよ。何で人の顔見ないうちに間違えたって分かるの。名札で気がついたのなら、ノックする前によく見ろよ、と。

まあ、こんな調子であります、新年度の開始は・・・。

はあ〜(sigh)

キョウビの大学1年生は、ピッカピッカの小学13年生。

ps.でもね、学生ばかりも責められない。大学の先生にも手鏡を使ってしまう御仁もいますしね。あの有名な先生が・・・と。同業者としてちょっとショックでした。

ブッシュの演説

を車の中でFENで聞いていました。彼は相変わらず、テロ撲滅、自分は正しい、自分は911においても非はない、断固イラクの民主化のために軍事力を行使する、大量破棄兵器はまだ発見されていないが、フセインはアメリカの脅威であった、自分には対テロの明確な戦略がある、6月の主権委譲を成し遂げる・・・の一点張りですね。そして対テロ戦と大統領選にも勝利すると。

真に彼がクリスチャンであるならば、神を畏れる姿勢と言葉が欲しかったと思いますが。前にも紹介しましたが、TIME誌で「私は戦争の大統領である。私はここオーバルオフィスで、戦争を伴う外交戦略を、私の思いにおいて決定する」と宣言しているとおり、「私、私、私」を前面に出しています。しかしどうも彼の顔が猿回しの猿に見えるのです・・・。イエスの高貴さがない。

私は対テロ政策に武力行使をするなと言っているのではありません。が、その行使にあたっても神を畏れる霊によってなしてほしいと。God bless Americaが、神が先にありきではなく、自分の決定がまずありき、になっているわけです。彼を祭り上げる原理主義クリスチャンもブッシュと同じ霊を持っているのでしょう。少々怖いことです。今後の彼のお手並みを拝見したいと思います。

イラク人質事件の背景

田中宇氏の論考を紹介しておきます:
http://tanakanews.com/e0413iraq.htm

アメリカの戦略はすでに崩壊していますし、主権委譲も困難でしょう。どうやって落とし前をつけるつもりか、愚かなブッシュよ。

このようなブッシュを礼賛していたあの原理主義クリスチャンたちは、今頃は何を考えているのでしょうか?偉い先生たちもおられましたがね。

聖書を単なる白黒の文字としてお勉強するとどうもおかしな論理がまかり通るようになり、人として当たり前の感受性を喪失するようです。

人質事件と卵の行列−ニッポン人根性−

かなり深刻になってきました。相手の目論見が分かりませんから、手の打ちようがありません。神経戦ですね。

多くの人々が人命優先で、自衛隊を撤退すれば問題解決すると主張しているようですが、本当にそのように信じているのでしょうか?もしそう信じてるならば、愚かです。信じてないのなら、偽善です。私も小泉さんにはいろいろ意見したいことはありますが、すでに派遣した以上、"この事件ゆえに"撤退はできないことです。家族のお気持ちは察して余りありますが、できれば、彼ら3人を止めてほしかったとも思っております。

ニッポン人の面白いことは、自分に降りかかるまではあまり騒がず(これまでにイラク関係でどれほどの人が死んでいると思います?)、自分に降りかかると大騒ぎ。例の浅田農産の時も、"自分が"インフルエンザにかかる危険性がある時には人を自殺にまで追い詰めた人々が、終息宣言が出されて、しかもタダで卵を配布するとなると行列を作る有様。もっとも怖いのはメディアや世論がそれ一色になること。一種の集団ヒステリーですね。

もし3人の人命尊重を盾に自衛隊撤退を訴えるならば、もっと多くの人々のために(前に象徴的写真を紹介しましたね)、なぜうめくことをしないのでしょうか?安全な卵をタダでもらえるとなると我先に行列・・・言葉もありません。

マザーテレサは日本は経済的に豊かだが、心の最貧国だと言ったとか、言わないとか。しかしこの言葉も抵抗なく納得できてしまう昨今です。

ゆすぶりか・・・?

解放が遅れています。それとも元々ゆすぶりだったのでしょうか?

あるいは何かの条件をつきつけてくるのでしょうか?人の良い日本人には読めなくなりました。神経戦の様相を呈するかもしれません。

解放の希望

がでてきた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040411-00000003-yom-int

イスラム教内部の批判もあり、結局犯人たちも自分たちの大義が立たないことが分かったようだ。イスラムの教師に戒められてのことのようであるが、多分犯人たちは幼い者たちであろう。この態度は対して、アメリカは焦りつつ、すでに大義がないことは明白なのに、かろうじて「自由と民主主義」を旗印に、力でねじ伏せようとしている。この大いなる矛盾。

しかし先に書きましたが、私は今回の件で小泉氏を評価したいと思う。もちろんアメリカの顔色を見て、自衛隊を派遣したこと自体は問題があるが、今回は決して引けない場面であった。それに対して、小泉氏はこれまでの政府と異なり、毅然として拒否の姿勢を当初より打ち出した。彼は「腹をくくった」。

主は言われた、「自分の魂を救おうとすれば、失う。失えば、救う。何かを得ようとすれば、失い、失えば、得る」と。先の鶏のウイルス感染で、両親が自殺し、自分は逮捕された社長も、同情する余地は多々あるが、前に書いたように、自らで守ろうとして、自ら失ってしまったのである。もし小泉氏が、どのような結果になろうとも、すべての責任を負うことを覚悟して、家族との面会を拒否したのであれば、これは大いに評価できる。確かに小泉氏はこれまでのニッポン型の政治家とは異なっているようだ。

勝利と自由への鍵は手放すことにある。

小泉氏、家族との面会拒否

彼は腹をくくりましたね。

イラクの件については

しばらく沈黙したいと思います。

本人たちは何らかの覚悟というか、予感を抱きながら、現地入りしたようですが、現在の憔悴した家族の気持ちを思うときに、何も語ることができなくなります。

チェックメイト

今回の拉致についてはソフトターゲットを狙った卑劣な行為であるとの論調がある。確かにそのとおり。しかしこれは私たちの目から見たことに過ぎない。彼らから見れば、自分の家に土足で踏み込まれ、一般市民を殺されている。繰り返すが、こちら側に大義がない!

今回もし3人の命を優先して自衛隊を撤退させれば、ニッポンは甘いとして(すでにそう思われているが)、今後アメリカとの関係に揺さぶりをかけるために、ニッポンがテロの対象となる(実行しなくても脅せば動くとして)。3人を見殺しにするならば、小泉政権は終わる。いずれにしろニッポンにはすでにチェックメイトがかけられている。

しかしニッポンは自衛隊を派遣していながら、自国民を救出することはできず、アメリカに救出を依頼するという。言葉がありません。自衛隊の本来の任務は日本国民の命と財産を守ること。確かに特殊部隊もなければ、訓練も積んでいない。3発の脅しで退避壕にもぐる有様。自衛隊員も手足を縛れたまま何もできず、気の毒。今後自衛隊員で心を病む者が増えるであろう。

これが外的自我と内的自我に引き裂かれた分裂病国家の証明だ。

「3人の解放を祈ろう」とは私は言わない

この手の話が出ると必ずニッポンキリスト教徒は「みんなでひとつになって祈りましょう」とやりだすが、あえて私は彼らの解放を祈りましょうとは言わない。

彼らが、もし真にイラクのことを考えて現地に行っているのであれば、死をも覚悟の上でのはずだからだ。安っぽいヒューマニズムで行ったのであれば、すでに判断ミスを犯している。

本件は小泉氏やブッシュが試されると同時に、イラクに関わるひとりひとりが試されることであるからだ。

陶器師である神はある者を尊い目的のために、ある者を卑しい目的のために造られた。見よ、神の峻厳を!

大義なき者には神の公義のバックアップはない

いよいよイラクは泥沼化。しかし親イスラエルの聖書原理主義者たちは懸命にアメリカの行動を正当化しようとしている。

もともと大義がない。よって神のバックアップがない。よって結果は見えている。ブッシュも内部から崩壊する兆候を見せ始め、純情なアメリカ国民も真実に目覚め始めている。

神の統治は公義による。神はもちろん人の愚かさをも用いることができるが、しかしその不義の実はかならず刈り取る。今回の日本人拉致問題はブッシュの心臓部を貫くことになろう。

試される小泉氏

日本人が3人、イラク人によって拘束され、自衛隊が撤退しない場合、殺害するとのことです:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040409-00000061-mai-int

重装備の自衛隊はキャンプ近くに3発の砲弾を打ち込まれ、退避壕の中に引きこもり中。方や丸腰の民間人はいのちがかかっている。このネジレ現象こそニッポンの病理の象徴です。

さあ、小泉さん、自分の頭で考えなさい。各国もそろそろイラクよりの撤退を考えている情勢です。

ブッシュの焦り

ついに禁じ手をやりました。米軍がモスクを攻撃してしまいました。米の焦りでしょう。

今、聖書原理主義者やブッシュの頭には自分の側から見た価値観しかないのです。この価値観にはまらない者はサタンの側であり(よく聖霊派が自分の気に食わない人につけるレッテルですが)、よって暴力的に壊滅することも善となるわけです。

矛盾する存在である人間そのものを見るのではなく、自分の聖書解釈や自分の価値観というフィルターを通していますから、けっして対話は成立しませんし、したがって、彼らの態度は自分の価値観を受け入れるか、さもなくば死を、となります。

これは一部のイスラエルをアンタッチャブル化する聖書原理主義者にも言えることです。彼らの表向きの遜りに対して、隠されたプライドはものすごく高いものがあります。アメリカという国を見ていてきわめて興味深いのは、この「無邪気な邪悪さ」と言えます。

しかし自ら撒いた種は自ら刈り取るでしょう。ブッシュよ、貴殿の刈り取りは近いことをよく心するように。

宣誓証言の行方

ホワイトハウス側のライス補佐官と安全保障担当だったクラーク氏の委員会での宣誓証言の行方は面白いですね。少し注目しておきましょう。

愚か者ブッシュ-剣を取る者は剣で滅びる-

アメリカがサドル師の私兵組織をテロ集団として武力で壊滅させるらしい。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040407-00000731-reu-int

ブッシュという小男はどこまで愚かなのか。仮に壊滅させたとしても、栄光の殉教として称えられ、結局イラク内で6割を占める、アメリカの介入を歓迎していたシーア派全体を敵に回すことになる。

ブッシュの短絡思考はホントに「アホ」としか言えない。彼の顔が日光の猿軍団のボスに見えてくる。かくしてスンニ派もシーア派も共に反アメリカとなるであろう。彼らのプライドを打ち壊したら、決して「自由と民主主義」などという旗では収拾がつかなくなる。

ブッシュは安全圏にいてノホホンとしているが、最悪の場合、ブッシュ自身が狙われることだってあり得る。徳を忘れた米国型聖書原理主義者よ、よく心せよ。

病んでいる母性

生後4ヶ月の男児の性器をカミソリで切除する母親、塾にいかない7歳の男児を殺害する母親。病んでいる。私は前に日本の病理は母性の病理であると指摘しているが(http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Ron/identity6.html)、霊的には"女の霊"のなせるところである。

現代の日本とニッポンキリスト教を分析するキーワードは、@甘えの構造、A女の霊と病理的母性、B中途半端な知性と言える。その本質は自己がすべての価値観の中心。フリーター417万人、引き篭もりは予備軍を入れて100万人、失業者350万人、もちろんダブりはあろうが、これが現在の日本である。

しかし、教会は「あなたは神のVIP」的な砂糖まぶしの"福音"のみ。切れ味のよいメスによって真理を提供していない。すでに塩気を失っている。しかもその病理に気がついてもいない。人に仕えるために神に背を向け、塩気を失った者の運命はいわずもがなである。世によって踏みつけにされるだけ。リバイバル以前に、実は、サバイバルの問題となっている。

息子の高校入学式

がありました。今年は結構倍率が高く、難化していたようですが、よく通ったものです。実はひそかにずっと主に祈っていたのですが、「道は開いておいた」との語りかけがありましたので、中学の担任のもう一段やさしいところをという勧めを拒否して受けたわけです。

入学式などに出て思うことは、周りの父兄が、まあ、見事にオジサン(少ないが)・オバサンであることですね^^幼稚園頃はみなさん初々しいパパ・ママだったのですが、今や相当にトウが立っているというか、貫禄があるというか・・・。人生はトコロテンだと前に書きましたが、自らの歳を否定できなくなります。

それと公立中学は、まあ、玉石混交というか、色とりどりというか、様々の生徒がいるわけですが、高校では相当にフルイにかけられているので、何となく空気が違うわけです。髪もほとんど黒、黒、黒・・・。今や黒は新鮮であると同時に、ちょっと重苦しくも感じますから、慣れは不思議なものです。NHKの女性アナの髪などは重すぎますからね。女の子などもどちらかというと、ドン臭い感じ。つい私の高校時代を思い出していました。

その中でうちのはちょっと与太り系の雰囲気があります(汗)。髪は元々が茶髪なのですが、それにさらに茶を入れていまして、今回はその上に黒を塗ってという、何ともな状況なのですね。中学1年の時にも2年生二人組みに絡まれて、相手の腹にケリを入れて退散させたことがあり、高校でもこの4月、5月で番を取ると張り切っております。いやはや・・・。

しかし、彼は弱い者にはむしろ味方してやるほうでした。クラスで相手にされないヤツとか、からかわれる子をかばっていましたね。それと決して自分からは手を出さないことを言ってあり、これを堅く守っています。最近では身長は私を抜き、筋肉もかなりつき、フットワークも軽く、パンチもかなりパワーが入っています。普通の子供では相手になりません。来年はプロテストを受けるそうです。

かつてはこんなんでしたが・・・
http://www.kingdomfellowship.com/Cg/Kids.jpg

イスラエルの病理

足の立たないヤシンを3発のミサイルを打ち込んで殺す彼らはパラノイドの重症患者です。イスラエル(アブラハムの子孫の意味での)が神の言葉とメシアを地上にもたらすために経綸的に選ばれて用いられたことは事実ですが、それと現在のイスラエルがなしている行為の正常性とは別の話です。ほとんど病気です。

私が前に予想したとおり(→「論考集」)、ますます重症化しています。神の心は、イスラエルであれ、異邦人であれ、すべての人が救いにもたらされることを願っておられるのです(2ペテロ3:9)。すでにイスラエルの病理がすでにアメリカに感染していますから、今後、ますます躁鬱病患者のようにアップダウンが烈しくなるでしょう。その行動は衝動的にして、意味不明のものとなります。クリスチャンも不用意にイスラエルに関わるならば、その病理性の感染を受けるでしょう。

うめきを分かち合う

本日は、わが誕生日ではないか。う〜ん・・・。早いものです。これ以上は語りません^^。

 * * *

アメリカはクラークさんの内部告発などで、ブッシュ政権を揺るがしているようですし、イラクではアメリカ市民が殺されたり、アメリカ兵とシーア派民衆の間での銃撃戦とか・・・、流血の惨事がますます酷くなっています。

リバイバル新聞に出たブッシュ礼賛のイスラエル・フリークたちは現在どのように感じているのでしょうか?有名なTV伝道の先生もブッシュを褒めちぎっていたようですが。愚かなものです。私はあえて彼らの論調に控え目に抗議しました。「神意は測り難いところにある」と。

このリンク先の写真はイラク戦の象徴となったものです。心してご覧下さい。神のうめきと涙を共有できますか?

http://www.kingdomfellowship.com/Cg/manandgirl.jpg

真理と霊による礼拝

本日のメッセージは大脳生理学と霊との関係を説明しました。実際にはパワーポイントで映像を用いながら説明しています。音声では「ここが」「あそこが」とか言っておりますが、映像がないのでよく分からなくてすみません。

このWEBでは私のメッセージ部のみですが、ライブ録音テープでは2時間のセレブレーション全体が収録されています。いわゆる「聖霊派」よりもはるかにぎやかです^^。真理をかなり理屈っぽく学んだ後は、霊を解放して、主をエンジョイしています。

 今、父は、真理と霊による礼拝者を求めておられる。

真理と霊、霊と真理、このバランスが鍵です。

超能力は?

さっそく先ほどの日記に「ルークさんは超自然的な事を否定するのか」とのお尋ねをいただきました。答えは、まったく逆です。だからあえて警鐘を鳴らしています。

この超自然的能力については私の著書でも触れていますし、ニー、ペンバー、ペンルイス、スパークスなどによって論じられ、さらには鈴木大拙とフロムの共著『禅と精神分析』などで分析されています。

これは、「パラサイコロジー」と呼ばれる領域ですが、これは堕落前のアダムの有していた魂のパワーが、堕落によって潜在化したものと説明できます。アダムの能力は例えば、すべての動物に名をつけたことで推測できるでしょう?

これが現れたのが超能力です。ソ連ではかつて軍事目的で研究されていましたし、FBIの超能力捜査官などもおります。そしてこのような能力を啓発し、あなたも"神(god)"になれると囁くのがニューエイジです。これは人の魂にとってはきわめて魅力があります。「目の欲」を刺激するのです。

しかし上記の聖徒たちが警告するように、これは十字架の道と正反対です。十字架は魂と霊を切り分け、魂(の力であって、機能ではない)を死に渡す道です。その意味で十字架の道は魅力がないのです!人の目にアピールしません。不恰好で、惨めに見える道です。しかし内面は栄光です。20年の幽閉の末、トラクターの上でボロのように召されたウォッチマン・ニーの与った栄光はどれほどのものでしょう!

よろしいか、聖霊派諸氏よ。十字架につけられたキリストのみを語り、誇るところはただ十字架―これがクリスチャンです。単なるふつうのおじさんおばさんとして、普通の人間生活の責任を果たし、普通に生きること。そこに共におられる神が私たちのインマヌエルなのです。十字架により、人であることの祝福と栄光が回復される必要があるのです。

クリスチャンって何者?

どうも聖霊派系の逸話というか、伝説というかを聞いていると、霊能力者まがいの人が、次々に現れ、彼らこそ素晴らしい人であるらしい。私から診ると幻聴か幻覚ではないの(怒らない下さいね)?と思えなくもないのですが(笑)。私も異言で祈りますし、神の声も聞きますし、幻も見ているのですが、「どこか違う」という印象がぬぐえません。

あるホームレス伝道で有名な女性牧師は、突如姿を消したかと思ったら、まったく別の所に現れたりとか(現代のピリポだよ)、はたまた空中を飛ぶようにして移動していたりとか(ドラえもんの話ではありません)・・・・ウ〜ムです(汗)。ちなみにこの話は麻原さんも愛読した学研の雑誌『ムー』に出ていました。

かと思うと、あるアルゼンチンの有名なリバイバリストが祈ると手のない人の手がニョキニョキ生えてきたとか(再生医学ではEB細胞から臓器を作ることもできますが)。アナコンダさんではなく(これはヘビの名前だ)、アナコンディアさんでしたか・・・?これもウ〜ム。

かと思うと神の声を次々に聴くためにのノートを取るのでいそがしく、とりなしをすべきメッセンジャーの話を聞く暇もないとりなしの賜物がある女性の話とか・・・???あるいは、そろそろアメリカの西海岸が火の海になる幻を見ている預言者とか・・・???

しばしばこういった霊能力を誇る人々の家庭や人生には健やかさがない。人間として普通ではなく、少なからず病んでいる。当たり前が当たり前でない。しかしそれが逆に"霊的であること"のひとつの"勲章"になる。私が聖霊派に感じるのは、「あなたの知らない世界」、「何かおどろおどろしい世界」、少なからず恐さを感じますし、情念の世界というか、何かジメッとした感じを覚えるのです。

聖霊派系の雑誌とか新聞から立ち上る独特の"臭い"があります。ニンニクの臭いの立ちこめる部屋にいると鼻が馬鹿になります。本人は分かりません。しかし外の新鮮な空気を吸っていると、すぐに分かります。これは理屈ではありません。だから聖霊派の教理や聖書解釈が正しいとか間違っているとか言う以前に、その臭いが鼻につくのですね。

もう一度言います:霊的になる、聖化されるとは、人になることです。それはあまりにも普通のこと過ぎて、聖霊派の方々の関心はほとんど引かないでしょう。しかし人であることは、それだけで祝されているのです。健やかさ、健全さ、爽やかさ、単純さ、明朗さ、明るさ、平安と安息、伸びやかさ、解放感、満足感、リラックス、自然体・・・。人間であることをエンジョイするのです。

聖霊はイエスのパースンを私たちのうちに造り込む方であり、イエスの聖を実体化してくださる方です。

●Uテモテ4:3−というのは、人々が<健全な教え>に耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め・・・

●テトス1:9−教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは<健全な教え>をもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

●テトス2:1−しかし、あなたは<健全な教え>にふさわしいことを話しなさい。

そしてヨハネはこう祈っている:

●3ヨハネ1:2―愛する者よ。あなたが、たましいに<幸い>を得ているようにすべての点でも<幸い>を得、また<健康>であるように祈ります。

バイブルカレッジ前半終了

前半の12回のコースが修了しました。今回のコースは単なる聖書の学びではなく、御言葉を通して主と向き合い、また自分の心を見つめる作業と課題があり、毎週のプロジェクトとレポートでは皆さん苦しまれたようです。

ミニストリーの本質はいわゆる超能力的賜物によるのではなく、いのちの務め、つまり私たちの自らのいのちの熟成が必要なのです。いのちの成熟のためには苦しみが必要です。自分と対峙し、神と対峙するときに、ショートカット(近道)はありません。苦しむ必要があります。

心を病み、問題をかこつ人の場合、必ず心のどこかに取り繕いや偽りがあります。エレミヤ書に「心はよろずのものよりも病んでいて癒しがたい」とあるとおりです。フェイクを建てようとしているわけです。専門用語では自己防衛機制と言いますが。このフェイクが暴かれ、崩される過程は苦しみがともないます。

この玉ねぎの皮むきの過程には鼻を突く臭いと涙がありますが、これを経なければ、内にあるキリストのいのちが現れません。聖霊派の"油注ぎ"と賜物志向はこの痛みの過程を避けています。クリスチャンが偽善と受け取られるのは、何層もの見かけの皮が張り巡らされているからです。こうして派手なパフォーマンスの"追っかけ"と化します。

真のいのちはある意味で赤剥けの状態において現れます。