2003年12月03日

太平洋戦争開戦の真実

今日のNHKの「その時、歴史が動いた」において、日本がパールハーバーに奇襲攻撃をかける前の外交戦について、新しく発見された資料に基づいて分析されていた。

これによると、アメリカは対日石油輸出を止めたが、日本は東郷大使の妥協案として、南方から手を引くことと中国戦には干渉しないこと、そして石油を売ることを条件とする案をハルに提出していた。

ハルも日本の暗号を解読してその内容を知っていたが、ほぼそれと同じ案を出していた、が、それを知った中国の蒋介石はアメリカが中国を見捨てるとして、イギリスのチャーチルに圧力を加えて、ハルがその案を提出することを阻止した。

驚いたのは、当時日本もアメリカや中国の暗号を解読しており、ハルの妥協案を東郷は知っており、それを表に出せば戦争を回避できることを期待していた。しかしイギリスと中国の裏工作により、ハルはそれを破棄し、いわゆるハルノートを提出した。

かくして開戦の火蓋が期って落とされたわけである。東郷はハルの回答に失望落胆し、もう仕事に対する熱を失ったと書いている。

また今月の「文藝春秋」によると、野村大使が宣戦布告の知らせをハルに提出するのが、パールハーバー攻撃より遅くなったことについて、野村大使らがある外務官僚の葬儀に出席しており、その牧師のメッセージが長くなり、間に合わなかったとレポートしている。

つまりパールハーバーは卑怯な奇襲ではなかったわけである。ルーズベルトはパールハーバー作戦も知っており、ハワイには太平洋艦隊の主要艦船は配備されていたものの、空母が一隻も配置されておらず、かえって「リメンバー・パールハーバー」でアメリカ国内の世論を戦争の方向へとまとめたという説もある。

今回のイラク戦においても、かつてのクルド人に対する姿勢においても、アメリカのご都合主義、シカケにより敵国攻撃の世論を固めて軍事力に物言わすというパタンがつねにあるような気がしてならない。それに対してハッキリと物の言えぬニッポンが何ともやり切れないと思うのは私だけであろうか?