2003年12月10日

貧困な内面世界

私が担任をしているクラスの学生に、今後のイラク情勢と日本の政治経済について予測をさせた。いやはや、そのイメージの貧困なこと。彼らの話の貧しさはちょっと寒くなります。

内面性が貧困ですね。イメージを膨らませるとか、これまでの情報を外挿して予測を立てることができないのです。よって行動がきわめて短絡的。よくある高校生の退学理由も、「学校がつまらないから」、「みんなが相手にしてくれないから」といったもの。

要するに自分がここにいて、なぜ自分が今の立場にあるかについて、快・不快によってしか評価できない。快を追いかけ、不快はものは避ける。ほとんど単細胞動物的"S-Rシステム(刺激反応系)"であって、内的な情報処理やアセスメントはまったく欠落している。求めるのはトモダチと仲良くワイワイすること。ここにケータイが一役買っている。彼らは浮き上がることをひじょうに恐れている。

しかしこれは高校生ばかりではない。クリスチャンもあちこちの教会をさ迷っているジプシーがかなり多い。彼らの判断基準は自分にとって快か不快か。神の御計画から見た神の配剤の御手を見ることができていない。よって、成長することがない。同じところをグルグル回るだけ、年齢だけは重ねている。

1歴王記6:1には出エジプトからソロモンの神殿ができるまでは480年とあるが、使徒行伝13:18-22(合計して下さい)には573年とある。その差なんと93年!聖書は不正確と言われる所以であるが、ちょっと待っていただきたい。士師記を見てもらうと、ヘブル人が他民族に支配されている時期がある。8年(3:8)、18年(3:14)、20年(4:2-3)、7年(6:1)、40年(13:1)だ。さて算数の時間です。合計すると・・・ぴったり93年!

つまり神の目にとって、神の御手から離れた期間はカウントされていないのです!霊的に無意味な時間だからです。単にバプテスマを受けてから何年という物理的時間は神の目において評価されない。霊的内実が問われるのです!

さあ、ニッポンキリスト教の兄弟姉妹方よ、主の前で霊的に内実のある意味を有する時間を過ごしているでしょうか?もう自分の問題の解決とか、自分が快か不快かとか、そういった幼稚な歩みは止めにしませんか。どこにあっても主の御手を認めることです。人とと楽しく社交サロンするのがクリスチャン生活ではなく、神の前でどのような歩みをするべきか−これが本質です。神の前での単独者としてですね。

孤独は成長にとって不可欠なのです。