2003年12月04日

医局と教会

今日の「白い巨塔」の東教授は凄かったですね。去るべき者が自分の育てた者に追われることの嫉妬と屈辱感を石坂さんは熱演していました。人の上に立ちたがる人の精神病理はパラノイドです。サウルの病理ですね。

やっぱり医局と教会はきわめてよく似ています。主任牧師が教授、副牧師が助教授。しばしば副牧師のメッセージの方が信徒の評判がよくなると、主任牧師は心穏やかではなくなるわけです。ある大きな教会でもこうして主任牧師の嫉妬を買って、何人もの有能な方々が追い出されているようですから(汗)。

何々系列とか―これをジッツと言いますが、今の医局は人材派遣業になっているのですね。北海道大学の名義貸しも問題になっていますが。それと領収書の不要な裏金です。教会も同じ。アイツは俺の弟子だとか、自分は○○センセイから按手や個人預言を受けているとか・・・。これが勲章になるんですね。

医局と教会―きわめてニッポン的な、あまりにニッポン的な・・・

ふぅ〜、終わったぁ〜

今日でS台での授業は終わり。高校生に9時まで教えるのは年々きつくなっているなあ。

昨日の日記に同感というメールをいただいて、少々ホッとしている。この手のことを書くと、キリスト教原理主義者からは「反ユダヤ的陰謀論者」とレッテルを貼られるからだ。

彼らは自分たちの聖書解釈を絶対的フレームとして、それを通してしか事実を見ない。よって自然な感情がどこか損なわれているという印象を否めない。血を見れば心が痛む(私も痛みますよ)、人の死にはうめきを覚える。

エレミヤなどの預言者は多分にこの感受性が鋭く、豊かであったのだろう。神の感受性とひとつになった感受性である。神は朴念仁を用いることはない。繊細な霊的感受性を養う必要がある。

最近の課題は、人間性を享受することとすでに書いたが、当たり前を当たり前にとも言える。ニッポンキリスト教で混乱し、悩んでいる方々の話を聞くとここがはずれて、霊能力者を求めたり、学者やカウンセラーを頼る傾向がある。

夢見さんがBBSで書かれたとおり、キリストの御座で私たちはきわめて個人的に裁かれる(滅びへの裁きではない)のである。これによって受ける報いが査定される。再度繰り返すと、主は「あなたはどうだったか」と言われる。私たちはどう答えるべきであろうか?ただ主にお会いできることを喜ぶことができるであろうか?

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唐沢財前は評価が分かれているようである。前のを知っている人々には不評、若い人々には好評だそうだ。私は頭を切り替えて、まったく新しいドラマとして見ている。さて、始まるぞ・・・。