2004年3月

空を打つ拳闘をしない

きょうはトランクルームから4箱戻せた。壁の書庫はほぼ飽和状態。あとはリビングにもうひとつ書庫を備えて、残りも何とかなるか。しかしよく貯めたものだ。前に一度ダンボール10箱ほど捨てたのになあ・・・と溜息。

  *  *  *

息子がボクシング・ジムに通うようになったが、けっこうスジがいいらしく、すでにシャドーではなく、ヘッドギアをつけてスパーリングをやっているらしい。このジムには世界チャンプもいるので、けっこう彼のモデルとなっているようだ。

パウロの書簡はローマ書のように学術論文的なものから、牧会を指示した具体的書簡まで実にレンジが広いが、しばしばローマ兵の装具や、コロセアムで行なわれていた当時の拳闘を見て、それを用いて真理を解いている。そして私の好きな彼の言葉に「空を打つ拳闘はしない」がある。

ニッポンキリスト教の多くの人がどうも体を壊したり、家庭を崩壊させるほどに強迫的な"奉仕"をしているようだが、その実はあまりにも貧弱である。一般に何事によらず、達人は法則をつかみ、急所をつくことがうまい。力はほとんど不要であり、法則に則って、ポイントをつけば、か弱い女性でも大男を倒せる。

しかも達人の動きには無駄がない。ガチャガチャした動きは下手の証拠。ほとんど音もなく、風のように一瞬でケリをつける。かつての日本では、剣道、茶道、華道などの"道"において、この無駄のない動きを追求した。ここに禅が入り、「剣禅一如」と言われるとおり、禅が求める自由に流れる心が鍵であることが分かった。柳生但馬守も「活人剣」において、「およそ心の病は、心が留まることによる」と喝破している。

どうもニッポンキリスト教と触れている感じるのは、騒がしい掛け声と大そうなデモンストレーションだけで、この爽やかに流れる心がほとんど感じられない。ガチャガチャ、ガシャガシャ・・・あっちに油注ぎのある○○師、こっちには癒しの賜物をもつ○○師・・・と。そのようなものを求める以前に、自分の心を見つめる必要がないか?多くの悩めるクリスチャンと接している感じるのは、彼らの魂がきわめて粘着であること、そして自分の心に対する洞察がほとんど欠如していること。

達人の動きは静かであり、爽やかであり、流れるようであり、心がどこにも留まらず、自由に解放されている自然体である。私たちクリスチャンはさらに爽やかなキリストの香が立ち込めれば、これこそ急所をついている。無駄な労力を消耗しない、しかし主に対してはナルドの香油を無駄に注ぐこと。

聖霊派諸氏が血眼になって求める"注ぎを受ける"のではなく、注ぎ出すことである。御霊のいのちの流れは私たちの腹の底から川々となって流れ出ると主は言われるのに、なぜか聖霊派では反対である。その心の動機が急所を外しているのである。自分の心を明け渡し、空を打つ拳闘をしていないかどうか、御霊によってその動機を探ってもらう必要があるのではないか。

私たちはすでにキリストにあってすべてを得ているのである!

ルワンダのプロジェクトX

今日は雨で、トランクルームから運び出すことができませんでした。あと1日−ほぼムリだなあ〜(溜息)

  *  *  *

NHKの『プロジェクトX』は毎回感動を覚えるが、今日のは厳しかった。ひとりのOLがルワンダの男と出会い、人生をかける対象を見つける・・・と、これだけならばよくある話であるが、ルワンダの内戦がその背景にある。

ツチ族とフツ続の二つの部族が仲良く共存していたルワンダをベルギーが歪んだ統治を行なったことにより、内戦と憎悪の嵐がルワンダを包んだ。かくして足のない者、手のない者がちまたに溢れる。

この女性はこのルワンダ人の心を共に担うことに人生をかけた。私たちはしばしば"正しい"教えによって人々を救おうとするが、それは実はヨブの3人の友人の"名アドヴァイス"と化す。彼らはヨブをさらに頑なにし、追い詰めただけである。主は言われた:「泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑え」と。実はこの共有すること、これが一番難しいのである。イエスは私たちのもろい人間性を負ってくださっている。

ルワンダの内戦はイスラエルとパレスティナの争いと重なる。文明国の利害関係に巻き込まれて、現在の中東情勢があるが、親イスラエルの原理主義クリスチャンが「イスラエルを呪う者は、神に敵対し、悪魔につく者である」と、自らの"正しい"教えを叫べば叫べぶほど、現地は過酷な惨状と化す。善悪の木の実を食べてこの平面に落ちた人類の宿命である。

今後イラクも、イスラエルも、ほとんどルワンダと同じ運命をたどるであろうし、多くの人々の血と涙が飛び散ることであろう。神のうめきをどれだけ分かち合えるか、これがクリスチャンの熟成の度合いのバロメーターである。

ふう〜ッ

本日はトランクルームから6箱分戻しました。あと10箱位?壁の書庫は充填率50%です。まだ行けますね。自分を騙し騙し、ようやく道のりの半分。あと2日です。ふう〜ッ

 * * *

すごいソフトを見つけました→http://www.softether.com/jp/

Softetherというソフトですが、EthernetのHUBとLANカードをソフト的にエミュレートして、VPN(Vertual Private Network)をインターネットの中に構築できるのです。つまりプライベートLANをインターネットを拝借して構築できるのです。これを使うと大学のPC、自宅のPC、チャペルのPC(サーヴァ)がシームレスに一元的に管理できます。革命的です。

現在自宅と大学からチャペルのサーヴァにはリモートディスクトップでアクセスし、HPの更新なども家からチャペルのPCを操作して行なっていますが、レスポンスのラグがあるのです。しかしこれを使うと自宅のPC上のソフトでチャペルのファイルを直接操作でき、完全にシームレスになります。ただしファイアウォールを透過するので、セキュリティがちょっと問題となりますが。

そしてこの開発者はなんと19歳の筑波大学1年生!驚きですね。ふう〜ッ。

福音派?

「ルークさんは聖霊派と言われることにえらく拒否反応を持っているんですね」とメールをいただきました。ええ、確かに。正直言って、生理的にその臭いに嫌悪感を覚えています^^(すみません、「聖霊派」の皆様・・・)

しかしこれは私が福音派と言うわけでもありません。福音派は福音派のプライドと臭いがあって、これもあんまり・・・です。えらく立派な神学と理論をお持ちのハイソな先生ばかりで、私などはちょっと・・・ですね。まあ、社会派は論外ですが。

というわけですが、これはその「派」の中の個人個人を嫌っているわけではありません。事実私のKFCにはきわめて様々のバックグランドを持っている方々ばかりです。個人はお互いにキリストのいのちを分かち合う兄弟であり姉妹です。また頼まれれば、どこでもメッセージはしています。真理はパブリック・ドメインですから。

いろいろな慣習や教義はそれぞれですが、私たちはそれをすり合わせることも議論もすることもしていません。ただジーザスにフォーカスしてキリストをエンジョイするだけですね。セレブレーションに入り込むとジーザスのみで、周囲は見えなくなります。

ワンネス・ペテンテコスタル?

ジーザスにフォーカスすることと、「ワンネス・ペンテコスタル(AKA:ジーザス・オンリー)」(異端です)の違いはどこにあるのかとご質問をいただきました。まず確認しておきたいことは、私はペテンテステ・カリスマあるいは第三の波などとは一切関わりがありません。つまり「聖霊派」との関わりはまったくありません。

「ワンネス」は、神の三つのパースンズ(複数形)を否定します。つまり聖霊はイエスの霊であるとし(聖霊が「イエスの霊」と呼ばれるのではなく)、父が子になり、子の霊が聖霊であるとするわけです(あるいはイエスが御霊になった)。よってこれはサベリウスの古典的「様態論」のひとつのヴァリエーションです。日本でも「イエスの御霊教会」とかがありますね。(注意:彼らが救いを得ていないとは言っていない。)

神は人との関わりがあろうとなかろうと三にして一ですが(本質的三一)、人とのかかわりにおいても、もし神が三つの区別されそれぞれ自存しかつ同時・同在する方でなかったら、そもそも十字架の贖いが成立しません(経綸的三一)。ワンネスでは、神のご計画が根底から崩れます。この霊的法理はバイブルカレッジでは詳しく話していますが、おいおいHPにも書きましょう。

「聖霊様」or「イエス様」?

ある聖霊派の方が私のメッセージやKFMのワーシップではすべてジーザスにフォーカスしていることで混乱したと言ったきたことがあった。

彼女曰く:「私はこれまで、三人の神様にそれぞれに義理を忠実に果たすために、お父様、イエス様、聖霊様、ありがとうございます・・・と祈ってきたんですが・・・。これから誰に祈っていいのか分からなくなりました。」というわけ。おこられるかも知れないが、正直言って、心の中で笑ってしまった。なるほど、彼らは三神論に落ちている。

神の三一について二つの異端がある。ひとつは「三神論」、一つは「様態論」(ひとりの神があるときには父のペルソナ(面)で、あるときは子のペルソナで、あるときには御霊のペルソナで現れる)である。

今、神と人の仲保者は人なるイエスただおひとりであるとあるとおり、この受肉し、いまだに人であり続けるイエス(イエスは人間性を脱ぎ捨てて天に昇ったのではない)において回復され栄光化された人間性に私たちは与るのである。鍵は人間性である。「霊的になる」ことや「聖化される」ことは、「人間になる」ことである。霊能者になったり、仙人になることではない。人になるのである。

イエスにおいて回復され栄光化された人間性は、父を100%表現していた。よってこの人間性に与るとは、神の御性質に与ることである(2ペテロ1:4)。これは「神になること」ではない。人間性において神の御性質に与ることである。これを初穂として成就された方がイエスであり、そのイエスのなされた事実を私たちに伝達し、実体化してくださる方が御霊である。

ジーザスにフォーカスすることは実は神の三一をすべてあがめることである。聖書はアダムとエバの結婚で始まり、子羊と新エルサレムの結婚で終わる。主賓は誰か、子羊である!神の永遠のご計画は、イエスにあって受肉した神が、花嫁を得ること。これが結婚の奥義である(エペソ5:32)。かくして神の幕屋が人と共にあり、神と人が共に住まう(黙示録21章)。

ジーザスを知ることは永遠のいのちをもつこと。ジーザスをあがめることは三一の神をあがめること。ジーザスに栄光を帰することは三一の神に栄光を帰すること。かくして私たちのセレブレーションは毎回次の祈りで終わる:

神に栄光がありますように・・・・In the mighty Name of JESUS!!!

聖霊という方

ある方から

1)御霊の内住とキリストの内住の関係は?
2)御父は内住されるのか?

とのご質問をいただき、とても大切なので、ここに回答を採録します:

聖霊は新約においてと旧約においてはその役割において決定的な違いがあります。私が「聖霊派の聖霊知らず」と言うのは決して単なる揶揄ではありません。事実、彼らは知りません。

御霊の内住を得るときに、同時にキリストの内住を得ます(ヨハネ14:15-20)。また御子と御父は"一緒に"信じる者のうちに来てくださいます(ヨハネ14:23)。ここには「"わたしたち"が来てその人の内に住む」とあります。

神の三にして一であることは奥義です。聖霊派のイメージである、「天に父がいて、右にキリスト、地上には聖霊様」というのは三神論です。キリストは復活の肉体を持って天におられますが、同時にいのちを与える霊として(1コリント15:45)、私たちのうちにいます。また子を持つ者を父をも持つのです。父のうちに子がおり、子のうちに父がおり、その相互内住を私たちのうちで実体化される方が御霊です。神はひとりの神です。三者はバラバラの神々ではありません。

聖霊は新約では単なる神の霊ではなく、人間イエスの霊のうちに住まわれる経験を経て、イエスを証しする霊として私たちにあたえられています。よってこの意味での御霊はイエスが栄光を受けられる(=十字架)前には「なかった」(ヨハネ7:39原語)のです。「注がれていなかった」は意訳です。「なかった」のです。

神の霊として聖霊はもちろん永遠におられますが、新約ではイエスを証しする霊とされています。ここがベニー・ヒンや一般に聖霊派の聖霊理解がおかしいと私が言っている根拠です。彼らは旧約的な神の霊の現われを求めるだけで、イエスの人性をあかしし、私たちのうちにキリストを作り込む御霊の働きを知りません。だから、しるしだ、不思議だ、になるわけです。もっと面白いのはヒンの霊的パワーで飛ばされて感激したとか・・・(アホらしい)。西野バレー団の会長でもやってるでしょう。

キリストは父からのものを受け、キリストから御霊が受けて、それを私たちのうちに実体化するわけです(ヨハネ16:14,15)。父と子はひとつです(ヨハネ10:30)。そしてキリストと御霊はひとつです(2コリント3:17)。ただしこれらは位格の区別がないということではありません。

父がいるところには子もおり、子がいるところには御霊がいるのです(ヨハネ14章)。よって御霊は三にして一なる神を私たちのうちに実体化して下さいます。イエスと御霊を切り離してはなりません。KFCのある方が言っていました:「今は聖霊の時代だから、キリストの時代は終わったと思っていた。」と。それどころか、聖霊は「イエスの霊」また「キリストの御霊」と呼ばれています。旧約では単なる「神の霊」です。

新約と旧約には致命的な違いがあるのです。今回のヒンの聖霊論は幼稚であり、彼の人格に欠陥があることもイエスのご人格を証しする聖霊の働きを受けていないためです。はっきり言います、ただ単に癒しが欲しい人は心霊治療家、あるいはオルターナティヴ・メディシンにかかりなさい。

新約と旧約の相違を明確に見ていないので、律法主義や、「主はこう言われる!」式の偽預言者たちに振り回される諸兄が多いのです。天国に行ってパウロと会ってきた超霊的な"預言者"には私はこう言いましょう:「私は常に内なるイエスとお会いして、イエスと会話している」と!聖霊派諸氏よ、ぜひ1ヨハネ2:24-28をよくよく読んでみてください。対してマタイ7:21-23を比べて御覧なさい。何が大切かよく分かるはずです。

さらなる詳細は「Q&A」や「トピック」を参照して下さい。

御霊に酔う

酒もエタノールにフレーバーを入れ、色をつけてガシャガシャとカクテルして飲めば確かに酔うことはできる。しかしアルコール臭くて、悪酔いしそうだ。その後はアルデヒドの悪臭に満ちる。

御霊に酔いたい人も、どうも安いエタノールの酒で酔うかのように、品の無い酔い方をする人がけっこういる。前にここでも秘蔵のビデオをご紹介したが、あれはごく一部。これらはとてもではないが、キリストの高貴にして芳醇な香りがない。

品の良い、十分にねかされた熟成の御霊で酔いたいものだ。

熟成される-コクとマロミを醸す-

いかりや長さんの告別式には1万人のファンが集合した。あの低俗番組と悪名高き長さんの告別式にである。私は正直言えば、ある種の喪失感を覚えている。彼の"味"に慣れ親しんだためであろう。

ウイスキーやワインにせよ、味噌や醤油にせよ、"寝かす"ことが大切である。こうしてコクやマロミが生まれる。熟成である。

昨今のクリスチャンはあまりにもこの熟成がない。エタノールにフレーバをいれ、色をつけ、ガシャガシャとカクテルしたような浅薄さを覚えることを禁じ得ない。

イエスはあの3年半のミニストリーに備えるために、30年の淡々として人間生活を送られた。神が人なる彼をじっくりと熟成させるためであった。徴だ不思議だを目の色を変えて求める聖霊派諸氏よ、よく心されよ。イエスの熟成の30年を思うべきであろう。

熟成したクリスチャン。長さんはこの世的に練られ、あの味を醸した。われわれは大いなるワザをなすことを求める前に(しばしばそれは野心に過ぎない)、主のみ手によってじっくり練り上げられ、コクとマロミを熟成される必要がある。これがキリストの香りを放つ。

美味いクリスチャンとなるべきである。

もっと苦しみなさい

クリスチャンはもっと苦しむべきです。○○ヒーリングなどが流行し、自分の安楽や満足を求める者ばかりの昨今、神の豊かな実を結ぶ苦しみに与りなさい。そうすれば自分の不毛な苦しみから解放されるでしょう。

羅針盤は?(預言を追記)

イラクはますます混迷を深め、イスラエルは自らを苦難の中に追い詰め、アメリカはイスラエルべったりの姿勢、ロシアは虎視眈々と機会を狙いと・・・。アメリカとイスラエルに共通する病理は脅迫反復である。自らの偽りの上塗りをし続ける悲劇。これも私が分析した通りである。
http://www.kingdomfellowship.com/Treatises/index.html

現在、アメリカによる独善的"正義"により、神の公議による統治権が犯されてしまった。テロ撲滅どころか、さらなるテロが起きるだろう。ニッポンも例外ではない。
http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing53.html

クリスチャンの間でもほとんどカルトまがいのイスラエル主義者牧師たちによる「フセインを殺せ」などの愚かな叫びと反イスラエル主義者の叫びに分裂し、また神学論争でも分れ、その隙間におかしな"油注ぎの器"たちが次から次へと登場し、ニッポンキリスト教も無邪気にも振り回されている。

私はいつも言っていますが、聖書預言解釈を得意とする、人の心の叫びを知らない人々のように、「これも聖書の預言のとおりですね。終わりの日は近いのです・・・」としたり顔をする気持ちにはなれない。時代の当事者でありたいと願っている。

どこに心を置くべきか。何を信じるべきか。私は前にこれからはクリスチャンがフルイにかけられる時代となると書いたが、これもそのとおりになってきている:
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Hardcore/hp1.html

私たちが焦点を定めるものは、ただひとつ、十字架である。ここから目を離す者は、目に見えるものにより容易に欺かれ、信仰の破船に遭遇するであろう:
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/Tero.html

神の心と私たちの心がつねにチューニングされ、神のうめきが私たちの心のうめきとして共鳴する霊的状態に留まる必要がある。天の事実が地における私の事実とされること、ここにとどまることである:
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/Iraq_War.html

こうしてここ数年の間に発信してきた私の言葉を読み返してみると、ほとんどポイントをはずしていないことが確認できる。ここで再び私は預言したいと感じる:

多くのクリスチャンが盲目に囚われながら、偽りのリバイバルを求め、また自分は聖書を知っている、自分は霊的に正しいと主張しつつ、兄弟が兄弟を訴え、自分は神に仕えていると思う時代に入るであろう。特に地的イスラエルがキリストの体にとってのトゲとなり、これがために真理を損ね、パウロのガラテヤ書の葛藤が再現され、これによって傷を受ける肢体が多く出るであろう。教会は世の価値観の侵食を受け、霊的真理を主張する人々がむしろ排他的かつ独善的、さらに狂信的と罪定めされるであろう。人々は自分の満足、幸福のみを追求し、クリスチャンですら、自分が恵まれること、自分が祝福されることがすべての動機となり、十字架は忘れられ、自己を「神」とする者が増えるであろう。かくして神のわざは残された者、レムナントに委ねられることになる。彼らは大衆からは評価されず、キリスト教界からすらも排斥されるであろう。純粋な真理を委ねられる者、人から評価されない者、しかし神に愛でられる者は幸いである。最後まで真理に留まることができる者は幸いである。

真理の見極め

今医学では「オルターナティヴ・メディシン(代替医療)」という分野があり、自然治癒力でガンの癒しなどがふつうに起きています。例えば私が東大にいた頃お世話になった人工心臓(世界記録を作りました)の渥美先生のページを紹介しましょう:
http://www.jact.gr.jp/jact/jact.htm

ここにはすでに「スピリチュアル・セラピー」という言葉が出ています。文字どおり「霊的癒し」です。あるいは一般人向けの書籍:「癌が消えた−驚くべき自己治癒力」(新潮文庫)など。

彼らはクリスチャンではありません!つまり癒しなどがあることをもって神の器であること、あるいは真理か否かを証拠立てることはできないのです。では主の癒しとこれらの、しばしばニューエイジが入っている癒しとどこが違うのでしょう?

一言で言いますと、十字架です。十字架があるかどうか、真理と偽りを分ける分岐点はここにあります。お分かりでしょうか。すでに先に述べた聖霊派の有名な"預言者"が「自分は十字架は語らない」と言ったとおり、彼らの癒しは霊的癒しではあっても、そこには十字架がないのです。真理と偽りはこれによって明らかです。御霊は十字架と共に働くのです。

Wake Up!!!(エホバの証人ではありませんが)

ヒンの真実については例えば、アメリカのNBCによる記事があります。偽りの癒しと行方不明の巨額の金の流れ・・・おいおい、これは何ですか、自民党の話ではありません。これが"聖霊(聖なる霊)の器"と称される人物の実態です。
http://www.religionnewsblog.com/archives/00001684.html

また私の元には、金銭問題についてレポーターに突っ込まれて涙目になり、ゴルフ場のある大豪邸に住まいベンツに乗るヒンがレポーターに問われて、「俺にホンダに乗れとでも言うつもりか!」と捨て台詞を吐いて去ったり、また空港で彼の取り巻きがカメラマンを蹴散らかし、その間を悠然と立ち去る姿が収録されたビデオがあります。

「紺屋の白袴」、「医者の不養生」とはよく言ったものです。「聖霊派の聖霊知らず」です。聖霊はイエスを証しする霊です。聖なる霊です。聖霊はイエスのご人格を私たちのうちに造り込む霊です。聖霊は自らを証しすることなく、イエスの言葉を語り、イエスを栄光化する霊です。しかし聖霊派はイエスと聖霊を分離します。ここに致命的な欠陥があります。

「聖霊様現象」をニッポンキリスト教にもたらした超有名なC.Y.氏の息子を巡る暴力団絡みの公金不正流用事件など、どうもこの種の破廉恥な事件が頻発します。しかしヒンについてもこの人についても真実がほとんど語られません。彼らを暴くことまた批判することは"聖霊様を汚す罪"であるかのように、タブーのようです。このような脅しによって真実を葬り去るなどは、ほとんどカルトですね。

どこか間違っていませんか。聖霊派のみなさま。もう一度繰り返します。聖霊は、聖なる霊、イエスのご人格を証しする霊です。そしてイエスはこう言われました:「偽預言者はその実で分かる」と。「実」をごらんなさい。野心と功名心と自己追求の実か、イエスの実であるか、一目瞭然でしょう。違いますか?

盲目の時代

ブッシュの側近による内部告発が続出していますね。クラークさんでしたか、911の後、すぐにブッシュが、イラクとの関係を探せと命じ、ラムズフェルドもフセインを叩けと叫んだそうです。私は前から言っていますが、ブッシュはとにかくイラクを叩きたかったのです。

一説にはブッシュが911を仕掛けたとか、例のキム・ヒョンヒは韓国のKCIAの工作員だったとか(つまり韓国がKAL機を爆破した)、何だか推理小説のように面白い諸説が出てきています。ま、金大中を白昼堂々と埒する国ですからありえないこともないですが。ともあれブッシュが事前に情報を得ていながら何もしなかったのはほぼ確実のようですね。

加えてイスラエルがヤシン師をミサイルで殺しました(個人を暗殺するのに3発のミサイルを打つ神経は?)。シャロンによる確信犯のようですが、アメリカと言いイスラエルと言い、どうも彼らに働いている霊はまともではありません。これは以前も指摘したとおりです。かつてブッシュ礼賛記事を書いた在米の女性クリスチャンがいましたが、ほとんど幻惑されており、カルトです。もう一度繰り返しますが、ブッシュの霊はクリスチャンの霊ではありません。

世界は今、盲目の時代に入っています。何が真理で、何が偽りか、目に見えるもので判断するならば欺かれます。内なる御霊に頼ることです。御霊はイエスを証しする霊、イエスの御性質にふさわしいか否か、基準は神と人のただひとりの仲保者である人なるイエスにあるのです。

ヘブル5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

長さん逝く

いかりや長さんが逝ってしまった。思えば小学校4,5年ごろだったか、土曜日の夜の楽しみは「8時だよ!全員集合」でしたね。その後は「キーハンター」でした。まあPTAあたりでは低俗番組として目くじら立てていたようですが、私はそのような育ちではないので、楽しかったですね。

伺うとあのコントはみな緻密に計算されていたそうで、アドリブはまったくなかったとのこと。それを生み出すまでの苦しみは相当のものがあったようです。

その後長さんは俳優として「取調べ室」などのドラマでいい味を出していました。1万人近いファンが告別式に集まったようですが、長さんの人徳です。こういった苦労人というか、練られた人が逝ってしまうのは寂しい限りです。ご冥福を祈ります。

今、帰りました

伊豆の温泉をエンジョイしてきました。2泊しましたが、ちょっと満足ですね。

メールを見ると560通、といっても大半はスパムですので、リモートで操作して、大事なもののみをダウン、あとは一挙に削除です。いろいろご感想・ご意見をいただき、このような反応をいただくことは励みになっております。

ベニー・ヒンの評価については、まあ、人それぞれいろいろあるようですが、主は「教えを見よ」(真理は○×のセンター試験ではない)とか、「現象を見よ」(悪霊でもし徴・不思議は可能)とか、「聖会を見よ」(欺きは現場から)とは言われず、「実を見よ」と言っています。実を偽ることはできません。

ヒンの実を見てくだされば、議論の余地などはないはずですが、残念ながら、ニッポンキリスト教では情報が届きません。皆さん、いまやネット時代です。せめてネットを検索して御覧なさい。ヒンの本質が分かります。残念ながら、ニッポンキリスト教のメディアがヨイショ記事ばかりなのですね。霊的な"お子様ランチ"を求めるのではなく、大人になって、自ら判断してください、ネ!(参照:ヘブル5・14)

ご紹介−日々の糧@Saltさん−

辛口ミニストリーのSaltさんの「日々の糧」をご紹介します。霊的なパンを提供してくれます。

http://www5.ocn.ne.jp/~ikemoto7/katetop.htm

実はSaltさんは、私のビデオの中に登場して下さっているのですね。カイザリヤの劇場の場面です。

人が求めるもの

サタンの誘惑のチャネルは、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りの3つである。肉体的欲求をサタンは刺激し、それを自らの方法で満たすことが罪である。また見栄えのいいものを追求することも人は大好きである。さらに自分の達成や自分の成果を誇る。

しばしばよく聞く言葉に「聖霊充満」なる単語がある。これを聞いて、私は非常に不思議である。いったいこれは何を意味しているのか。私たちにはすでに聖霊が与えられている。それは信仰によって得たとガラテヤ書に書いてある。

よく「油注ぎを受ける」と称して、「注ぎ、注ぎ」と強迫観念のように騒ぐが、これも不思議である。すでに注がれている!聖霊は部分部分に分けて、ある人には500cc、ある人には1g、ある人には10gと注がれる方ではない!聖霊はひとりのパースンである。今の聖霊派の求め方はエホバの証人の聖霊論的である。何かの力、パワーとしてその注ぎを求めている。

御霊はひとりの<方>である。この方は自己主張をされない。新約においては単なる神の霊として働く方ではなく、イエスを証する霊である。イエスと御霊を分離してはならない。イエスと御霊はひとつである。私たちが御霊を得たことは神を得たことである。すでに三一の神が私たちのうちにいて下さる!すでに私たちはキリストにあって満ち満ちているとコロサイ書に書いてある。問題は注ぎを受けるかどうかは無く、信じるかどうかである。

目に見栄えのいい"油注がれた器"を求める昨今の状況は、実は不信仰の証明であり、貧しさの証明である。外なる器をありがたがる彼らの姿勢は、実は彼らの内側の貧しさと霊性の貧弱さを証しているだけである。

イエスは決して見栄えのいい方ではなかった。仰々しい自己アピールもされない。今の聖霊派諸氏は、イエスとベニー・ヒンが立っていたら、果たしてどちらに群がることであろうか?

あすから3日ほど

温泉にいって参りますので、日記の更新はありません。
一切の日常から離れてきます。

再見!

幼稚なヒンの聖霊論

今回彼は旧約の聖霊を語ったそうですが、幼稚なものです。新約と旧約、つまり十字架の前と後の本質的な違いを知らないようです。彼は十字架を知りません!そしてこれが聖霊派の致命的欠陥です。

私はアンドリュー・マーレーの名著『キリストの御霊』を推薦します(ただし読みこなすのにかなりの知的レベルを求められます)。

アウトラインはこちらを参照してください:

http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Anointing.html

怒られるかもしれませんが、聖霊派の知的レベルを疑いますね。こんなレベルで喜び浮かれ、しかも一面記事になるとは!?十字架を学びなさい。

ヒン師はほとんど"瀕死"ですね。

ベニー・ヒン聖会に参加されたある方のメールです:

... 続きを読む

「白い巨塔」と「白い虚塔」

テレビでもそろそろお花見の話題がちらほら。うちの前の県立三ッ池公園も桜が有名であるが、まだまだつぼみが固い。

この休みのうちに何とか私の部屋を整理しようと日々頑張っているが、今日はトランクルームから6箱分の本を戻せた。壁一面の書棚はさすがにまだまだ収容力がありますね。あと20箱分、何とか来週中にはと思いつつ、動かぬ(動きたくない?)体を叱咤している。

 * * *

「白い巨塔」は関西で40%近い視聴率とか。確かに思った以上によくできていた。田宮版と違う別の作品として鑑賞に耐えた。裁判の論点などもインフォームド・コンセントに重点を置くなど、現代の流れをよく汲んでいた。唐沢君はかなり評を上げた模様。

ひるがえってニッポンキリスト教はどうか。「白い虚塔」になっていないか。真の福音は自己の死を語る。財前と同様に治癒見込みのないステージであること、よって十字架の死と新しく生まれることしか希望がないことをインフォームド・コンセントすること−これが福音である。

「オンリーワンのあなたが高価で尊い」などは、財前が言っていた台詞で一蹴されるだろう:

けい子:「五郎ちゃん、やせたねぇ〜」
財前:「ほんとのこと言ってくれてほっとするよ。みんな顔を引きつらせて、よくなった、とか言うからな。」

福音はまったく希望がないことと同時に、十字架にのみ希望があることを告知することである。「あなたは徹底的にダメだ!このままでは神に見放される!」と告げることである。信じない者はすでに裁かれているのだ!昨今のVIP福音などは世の人からすでに見抜かれている。末期ガン患者に対してお体裁は通じまい。真実を語ることである。

パウロ:「私は十字架につけられてキリスト以外に語ることをすまい・・・私たちには十字架以外に誇るところが断じてあってはならない。」

ジーザス:「人は御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない。」

ニッポンのリバイバルはまず徹底的に自己に絶望することからはじまる!

さらば財前五郎

「白い巨塔」が終わりました。あえて感想は書かないでおきましょう。

昨今の軽薄な視聴率を気にするドラマが多い中で、こういったしっかりしたモノがいい視聴率をマークすることは歓迎されるべきです。

教会も同じです。しっかりしたシナリオによるサービスを提供すること。時には十字架の痛みをも避けないこと。今のお互いにヨイショでは軽薄なドラマよりもはるかに悪い。

メスではなく十字架のキレの良いメッセージが必要です。それにしても、いつから現状のようになってしまったのか・・・。

山崎豊子の『大地の子』もよかった。次の作品『沈まぬ太陽』などのドラマ化を期待したい。ドラマも教会もオトナの鑑賞に耐える作品が切にほしい。

臨在を極める

ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』は救われた頃、1行読んで祈り、また1行祈って読むという具合に、その甘さに浸りつつ何時間もエンジョイしたものです。

当時(80年代前半)は書店にある霊的書物も、アンドリュー・マーレーやスポルジョンなどの古典がほとんどでしたが、いつからか(90年代前半?)聖霊様物や、預言・しるし・不思議、悪霊追い出し物、霊的超能力系が目に付くようになりました。一方で「あなたはオンリーワン・そのままのあなたが高価で尊い」的な物が出回り始めました。

私はそのころからほとんどキリスト教書店に出向くこともなくなりました。それらの本を見るだけで、「ウルサイ」と感じられるのです。ほとんどは霊的なジャンクであって、麗しい油塗りもなければ、深い霊性も感じられません。

そのようなわけで私は昨今の流行にはほとんどウトイですし、あえて積極的情報遮断を実行しています。"聖会"にも出たことは一度もありませんし、アメリカ産の"油注ぎの器"も別に関わりを持つ必要を覚えません。最も油注がれた方が私のうちにおられるのです!

実は真に読むべき本や、知るべき知識はさほど多くはありません。もっとも本質的なエッセンスさえつかめば、何が本物で、何が嘘かは容易に判別できます。

現在、80年代に集めておいた古典が入手困難であり、きわめて貴重になっています。ネットにはクラシックのアーカイブもありますが、本には本の味わいがあります。

ローレンスの達し得た境地にますます憧れます。人間性における日常の生活の中において濃厚な臨在に与ることができる特権−これが祭司なるクリスチャンの特権です。再掲します:

主よ、あなたの家の大庭にいる1日は千日に勝ります。私はただひとつのことを主に願った。あなたの大庭にいてあなたの麗しさをたずね極めることを・・・

  *  *  *

これを書いたあと、ふと思ったのですが、聖霊派の皆様はブラザー・ローレンスといっても「何それ?」なんでしょうかね?

神の臨在の奥義

このサイトの常連のある方がベニー・ヒン聖会の報告のメールを下さった。そのような聖霊派の聖会と称するところで、"油注がれた器"が導くと「今圧倒的な御臨在にあって神の力強い御業がなされています・・・」と講釈があるそうだが(私はその手のものはまったく参加したことがないので分からない)、彼は「果たして臨在はそのような器によってのみ導かれるものか?」と疑義を呈している。

何でも人々の手をお互いにつながせておいて、完全に静まったところで、「タッチ!!!」と大声を上げるのだそうだ。するとビックリした人がよろけるとその反動が周りに伝わり、バタバタと倒れる人が出るらしい。これが御霊の圧倒的臨在による後倒現象の正体のようだ。これは物理の共鳴現象というか、強制振動現象であり、かつてタコス橋が風に吹かれて崩壊したのと本質的には同じ。これで興奮冷めやらぬ人々がベニー・ヒンを礼賛するのらしい。まあ、ショービジネスマンとしては大した物なんでしょうね。

彼の指摘はまことに本質的な問題提起であり、どうも聖霊派の皆様が求める"臨在"と私が経験している臨在は相当に異なっているようだ。どうも彼らは聖霊様現象を"臨在"と称しているようであるが、私の経験する臨在はイエスの臨在であり、それは感じようと感じまいと、目に見えようと目に見えまいと常に変わることがない。時に体さえもまったく主とひとつであることを覚え、皮膚感覚的に臨在を感じることは確かにあるが、何も感じなくとも臨在は確実である。

彼らにはぜひブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯-神のみ前での修練』を読んでもらいたい。ポイントは感覚の問題ではなく、信仰の問題である。感覚的経験や目に見える現象を求める聖霊派諸氏には、ガラテヤ書の「御霊を受けたのは、信じたからか、律法を行ったからか・・・御霊によって始めたことを肉によって完成しようとするのか」という御言葉を指摘したい。

彼らは律法から自由になるのではなく、どうも肉の放縦に落ちているようだ。律法はいぜんとして生きているし、神は無秩序の神ではない。整然として、聖なる、厳粛な、義なる秩序がある。肉の解放を霊の解放と間違えてはならない。

偶像化の回避−人間性を享受する−

この日記もいろいろとご意見をいただいています。私自身のことをここにいわば"晒す"わけですが、これにはひとつの意味があります。それは偶像化を避けるためです。前に少し言いましたが、ホームページを開設し、本も書き、ビデオやテープを出していますと、それを通してDr.ルークのイメージが一人歩きを始めてしまうのですね。

ある種のカリスマ的神秘性を保とうとする人々はほとんど自分のプライベートは公開しないのが鉄則で(例えば、高倉健みたいに)、これは宗教家がよくやることですが、これでは本当の意味での主にある兄弟姉妹の交わりが成立しません。私はこのようなイメージが出来上がるのはむしろ避けたいわけですね。よって昨日のような赤裸々な報告もしているわけです。

聖霊派ではどうもこのような神秘的カリスマ性で売る御仁もいるようで、彼らはある種の霊的超能力というか霊能力を"売り"にしています。透視ができたり、予言ができたり、読心術ができたり、癒しができたり・・・と、何だか「テレビの力」に出てくる霊能力捜査官や心霊治療家みたいな人々がたくさんいるようです。しかし私はこのような傾向には明確にオブジェクションを唱えています。

「霊的になる」あるいは「聖化される」ということは、一言で言えば「人間になる」ことです。素の人間として、神がイエスの人間性において回復し栄光化して下さった人間性を着て、人間であることを享受するのです。神が意図された人間性の究極を極めるのです。

イエスが地上におられる時、彼はどんな人間生活を送られたと思いますか。それは父なる神とのひとつを究極の経験、神との一体感をその人間性において極めた人生だったのです。それがどれほどに豊かであるか想像できますか?私たちは単に罪赦されて天国行きの切符をもらっただけではないのです。この回復され、栄光化された人間性を享受するのです。

神は霊能力者になったのではなく、人になったのです。そして神は人のうちに臨在されるのです。この受肉と臨在の奥義を究めること、これが私の究極の願いです。人であること−何と祝福され、素晴らしいことでしょう!人として生きること、何と豊かな、エンジョイに満ちる経験でしょう!インマヌエルが共にいますからです。

 * * * *

DVDの注文を開始しました。オーダーフォームからご注文ください。書店に出すかどうかは今検討中です。

人間ドッグのご報告

今日も午前10時ごろから午後5時ごろまでサーヴァが落ちていました。チャペルに行ってみますと、PCの電源が落ちているのですね。なぜなんでしょう?

  *  *  *  *

昨日夜9時から何も口にしないまま、ドッグに行ってきました。検便を提出し(これが「冷蔵庫に保存せよ」と言う指示があるので、申し訳なくも、隅の方にちょこっと置いといたんですね^^)、血液、視力、眼底、眼圧、聴力、心電(安静+負荷)、肺機能、腹部各臓器エコー、食道と胃のレントゲン、尿検査、そして最後に直腸診と前立腺肥大の検査と・・・。

食道と胃では発泡剤を飲んで、ゲップを我慢しつつバリウムを飲み、台が横になったり縦になったり、私も体を右だ、左だ、上だと技師の指示に従ってグルグルと。やれやれ。

直腸診では、恥ずかしい姿勢を取らされて、何と肛門鏡で覗かれて、さらに触診で前立腺を探られてと・・・、これは感想を書きようがありません(汗)。

かくして2時間、あっちへ行け、こっちへ来いと言われるまま、あっという間に過ぎました。自覚症状としては、中性脂肪と肺機能は前のとおりですが、胃がちょっと違和感を覚える事があるので("荒れ"だと思いますが)、2週間後の結果が待ち望まれます。

  *  *  *

北海道の流氷は今年は見送りになりました。残念ですが。近間の箱根か伊豆の温泉にちょっと行ってこようと思っております。

人間ドッグ

あす1日人間ドッグに行って参ります。体はまだ旧創造に属しており、精巧なマシンですから、メンテが必要です。いつもは献血の血液検査で主要な数値はモニターしておりますが、2年一度全身を診てもらっています。ただ脳血管系はMRIかCTが必要で、別料金のため、脳は診てもらっておりません。ちなみに最近は西条秀樹といい、長島監督と言い、元気どころがみな"詰まって"いるわけで、私もそろそろ一度は、と思っております。それと強度の近視があるので、網膜検査が必要ですね。キキ・キリンさんみたいに網膜はく離で失明なんてのはご免です。初期に剥離(穿孔)が見つかれば、レーザー光線で焼き固めれば大丈夫なのです。

一昨年度は、胃壁のニッシェ(像)のレリーフ(辺縁輪郭)が荒いと言う所見が出ましたが、実はこれ花粉症の薬で胃が荒れたため。この時期の恒例です。あとは中性脂肪が高いことと、肺の換気機能が悪いことくらいですね。あと十年くらいは生き延びないと責任を果たせませんので、パウロのように「体を打ち叩いて従わせ」なくてはなりませんからね。「私としては主の元に行きたいが、体に留まることはあなたがたの益になる」というパウロの言葉が実感できる歳に入りました。

 * * *

今年はなぜか北海道の流氷ツアーが人気だそうで、料金が昨年よりも2万円も高い傾向です。昨年はカニ食べ放題、バイキング料理食べ放題で、2泊3日で28,500円でしたが。あの顔が痛くなるほどの寒さで流氷をガリガリと割りながら進む船に乗った後は、体がキンキンに冷えているのですが、寒が厳しいほど、熱い温泉にザブーと入ると体がほぐれて最高なんですね。北海道もすでに夏冬と20回近く行っていますが、準外国ですね。実にいいところです。

すべてを単純に-「花紅柳緑、眼横鼻直」の世界-

ニッポンキリスト教と関わって驚いたことがある。それは心を病んでいる人がきわめて多いと言うことだ。統計をとってはいないが、罹患率は世間の平均を越えるだろう。ヤヤコシイ人、粘着な人がとても多い。当たり前が当たり前にできない人が多過ぎる。

人生をエンジョイするコツは、すべてを単純にすることである。かつては私も青白きインテリをやっていましたが、当時は簡単なことをややこしくするのが得意だったのですね。疲れる生き方でした。

寅さんに「とかくインテリと申しますと、テレビの裏の配線のようにごんがらがっていて、色気が頭に上り、イロノーゼにかかります。そこいくとあっしなんざあ、配線は1本だけですから、頭を叩くとコーンと澄んだ音がいたします」という名台詞があるが、病んでいる人はみな自分で事をややこしくし、自分ではったクモの巣にからまっている。ご苦労なことである。

パウロは言っている:「食べ物と着る物があればそれで事足れりとすべきである」と。主は「その日の苦労はその日で十分である」と言われた。キリストにあって軽く生きるコツはすべて単純をするにすること。禅の言葉にこうある:「見性(悟り)とは、腹減れば飯を喫し、睡来たれば眼を合す。花紅柳緑、眼横鼻直。当たり前は当たり前で良いではないか。」

善悪を知る知識の木の実を知って自意識に目覚めた人間の心は意識作用によって汚れを受ける。心が二元論の世界であれかこれかと分裂しさ迷うのである。またある事に執着する。「水は万境に従って転ず。転ずるところ実によく幽なり。」とあるとおり、心もサラサラサラサラ流れることが健康の秘訣。

ところがどうもクリスチャンたちは粘着系の人々が多いようで、自分の聖書解釈を決して譲らず、あくなきギロンのド壷にはまる御仁も多いようである。主は「魂を救おうとすれば失い、失えば救う」と言われた。ニッポンキリスト教徒はどうもこれと正反対の生き方をしているようだ。イロノーゼ・クリスチャンがあまりにも多過ぎる。

人生はトコロテンだ

長男の中学の卒業式があった。彼も無事卒業でき、行き先も決まりと、とりあえず一息です。昨年は長女の高校卒業と大学入学、来年は次女のと・・・。

式の間中、彼の育ついろいろな過程が脳裏に去来していました。中でも、彼は1歳半で川崎病(急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群)に罹ったのですね。これは原因不明の難病でして、免疫系の疾患ですが、手遅れになると心臓の冠動脈に炎症によるコブができて、血液がつまり、心筋梗塞を合併して死に至ることもあります。

開業医は見逃していたのですが、私が気が付き、幸い早い段階でγ-グロブリンの大量投与によって後遺症も残らず完治しました。しかし、一時はもうダメかと思える場面もあったのですが、家内と共に祈ると、主の御手に抱かれた彼の幻が見え、私たちも聖い白いベールで包まるかのように平安で包まれて守られました。今もはっきり覚えていますが、素晴らしかったですね。この時に彼を主にお捧げしたのです。

いつも思うのですが、人生は結局トコロテンです。ベルトコンベアといった方がよいでしょうか。こうやって人生の節目をひとつひとつ経過するうちに、ついにはお墓となるわけで・・・(私の墓は南向きの日当たりの良い斜面です)。クリスチャンにはその先の栄光があるわけですが、地上は寄留者生活です。「芸人は芸をあの世にもってっちまう」が、クリスチャンは地上において経験した主の麗しさ、素晴らしさを持って行き、そのお方に直接まみえることができるわけです。大いなる希望があります。

私も地上での責務を果たしたら、すうっと主の元に召されたいですね。見苦しく長居はしたくありません。夫として、父親として、いろいろな事を通して、もう十分に人生を楽しませていただきましたから。禅の高僧には「もう浮世狂言止めた」と言って自ら食を絶ち、眠るようにきれいに大往生する者もいます。いいですね、「浮世狂言止めた」という台詞。

主と共に刻む時だけが永遠の価値があるのです。

6周年を迎えました

DVDの発売を決定しました。価格などを今調整中です。ただし、英国のDVDはPALフォーマットでして(TVの走査線の数が日本とは異なる)、TVではそのままでは再生できません。フォーマット変換ができるDVDプレヤーが必要です。しかしPC上のDVDドライブではそのままで再生できます。

 *  *  *

このサイトも何時の間にか6年目を迎えました。手慰みから始まったこのサイトですが、えらく巨大になり、マルチメディアへと発展してきましたが、早いものです。

前から言っているとおり、私はパブリックなミニストリーを開始することは人生の計画にはなかったのですね。自分の墓も用意して、自分の人生の設計図を作って、それを着々とこなすことだけを考えておりました。今でも「裸一貫、すべてを投げ打って伝道にいのちをかける」式の"クリスチャン的浪花節"は臭いがきつくてご遠慮です。

ニッポンキリスト教と触れてみて分かったことは、同じ"クリスチャン"と言いながら、同じ信仰を持っているのだろうかと不思議に思う人々もおることでした。何を求めているのか分からない人もけっこうおります。"使徒"や"預言者"になりたがる人や、"霊的超能力"を求めている人、学者先生として大成したい方、数千人の信徒を得たがる御仁に、礼拝堂を3つも4つも献堂することが自慢な先生などなど・・・。

KFCも4年目を迎えますが、私たちはただキリストをエンジョイすることだけを追及しています。その他のややこしいことはできるだけご遠慮しつつ、ただひとつキリストの魅力を極め尽くすこと、これが私のすべての動機です。

主よ、あなたの家の大庭にいる一日は千日にまさります。私はただひとつのことを主に願った、あなたの家にいてあなたの麗しさを尋ね極めることを(詩篇)

http://www.kingdomfellowship.com/Kfc/Worship/worship34.html

この時計は・・・

KFCのサーヴァの時計は原子時計にシンクロしていますので、下のJSPによる時刻はかなり正確です。

(何だ、コレ・・・!?と思われた方のために一言弁明でした。)

Apache+Tomcat

の連携が、やっとのこと成功しました。ささやかな達成感を味わっております。

Unix系はとにかく設定ファイルがややこしく、ネット上を検索した挙句、ようやく決め手をつかみました。これでServletsとJSPが使えます。

「で、けっきょく何ができるんだ!?」と言う声もありますが、要するにサーヴァサイドでJAVAが走るのです。まあこれでいろいろできるようになります。それはお楽しみに。(オンラインバンクや通販などでも使われています。)

例えば→http://www.kingdomfellowship.com/examples/jsp/plugin/plugin.jsp

pluginのインストールが始まりますので、急ぎの方はクリックしないでね。

世間のヒステリックな冷たい風

浅田さんの件は会長の自殺で、会長の告発はなくなったようであるが、社長の息子さんは刑事告発されるようだ。ご両親の自殺と、会社の破綻と、刑事告発と・・・。やり切れませんね。

まずは感染経路の解明など、淡々と客観的な事実の積み重ねをすべだろう。そして浅田さんに不手際か意図的な誤魔化しがあったとしても、元は雪印の怠慢による不祥事とは性質が異なるのだから、せめて民事で処理できないものか。現状は少々酷ではないか?

近所の人も「死んで解決する問題とちがう」とか言っていたが、まだ人への感染が出たわけでもなく、卵も肉も熱を通せば問題ないのだから、消費者側がもっと冷静になればまだ対策は十分に間に合う。ちょっと集団ヒステリー的症状を呈しているようだ。こちらの方がもっと恐い。

関東大震災の時に朝鮮人が井戸に毒を入れたとかの風評で集団虐殺が起きたが、ニッポン人の心理はまったく変わっていないようだ。まことの犠牲の供え物を知らない人々は自家製のスケープゴートを求める。

それにしても野鳥やカラスによる感染拡大とは!エリヤには食べ物を運ぶために神に用いられたが、今回は誰に用いられるのか。まあカラスに責任はないわけだが。

痛ましいことです

浅田さんと奥さんの自殺はなんとも痛ましい限りである。私には見えていたが、周りの人がもっと気遣ってやることはできなかったのか。従業員は「信じられない」とか言っているようであるが、その愚鈍さにあきれる。

また会見の場で若い記者たちが正義のペンを振りかざして、もっともらしい(つまらない)質問で責め立てているを見ると、ほんとに腹が立つ。お前はいったい何者だよ!・・・と。カメラやペンをもたせると普段気の小さな、物も言えないような輩に限って、偉そうに正義感ぶるものである。

浅田さんの処置には確かに問題があったことは事実である。今回のような未経験の事態では情状酌量の余地も十分ある。彼らは老獪な政治家ではない。もっともらしいフリをする記者諸氏よ、カメラとペンを向けて追求すべき対象は他にもっとあるだろう。もっともらしい偽善はやめよ。

人の心を忘れて、すべてがうわっ滑りで、時々の風に流されるニッポンの浅薄さの犠牲者とも言える。

フリーター417万人の衝撃

「NHKスペシャル」の内容はちょっと背筋が寒くなりました。フリーター417万人、そのうち60万人が30台。大学生も10人に3,4人が就職しません。(ちなみに「引き篭もり」100万人と推計されています。)とりあえず日雇いで食っていく、自分の本当にやりたいことを探すと称して(彼らは思いが空回りしています)、ブラブラして、専門的手技も身につけずに、あっと言う間に30台。ここまで来るとすでに時は遅しです。

今の人材派遣の会社はなんだか昔の「女工哀史」の世界を彷彿とします。青森で若者を雇い、関東に派遣して、その上前をはねると言う仕組みです。人がすでに労働の価値観を忘れ、とりあえず「しのぎ」をするだけの形になっているわけです。時間と労力を金に換算するだけのこと。実質的に人身売買です。2050年にはいわゆる正社員とフリーターが1:1になるという予測。人生設計も立てられず、将来への希望もなく、その日暮し。

ニッポンは今おそろしい所に来ていますよ。私たちは20歳前後の若者を20年にわたって定点観測してきていますが、彼らを見ると10年後、20年後が見えるのです。そして恐いことに、私が10年前に予測したとおりの事態になっています。今私には10年後のシナリオができていますが、とてもとてもここには書けません。自分でも恐いです。

しかしゲストがひとりは経済同友会で経営者側、一人は連合で労組側、微妙な緊迫感が伝わってきましたね、彼らのコメントを聞いていますと。NHKですから節操を保っていましたが。

お詫び(ApacheとTomcatの連携が・・・汗)

今グループウエアの導入をはかっており、サーヴァをいろいろいじくっておりまして、昨日はうっかりリモートでネットの接続を切ってしまいました(夜はチャペルがロックアウトになるので、復旧できないのです)。アクセスできなかったことをお詫びいたします。

どうしてもApacheとTomcatの連携がうまくいかないのですね。多分環境変数あたりの設定がうまくいっていないようなのですが。Tomcatが走るとServletsとJSPというサーヴァサイドJAVAが使えるようになります。これからも時々(いや、しばしばかな?)サーヴァが落ちると思いますが、落ち着くまでご了承下さいませ。

どなたかUnixに詳しい方がおられましたら、ご教授ください。

自分の言葉を持つこと

オウム事件の特番があった。中でも林郁夫受刑者のマインドコントロールからの解放のプロセスがよく再現されていた。

カルトで"縛り"に会うと、一番の特徴は自分の言葉を顕著に失う。教祖や指導者の言葉の文字通り"オウム返し"となる。この時独特の違和感("平板さ"と言うべきか)を感じさせるようになる。ちょうどガラス張りのケースに入られているように、その人の姿は見えるが、その人に触れることができないように感じられる。一枚ガラスが間に入ってしまう。

正直に言えば、ニッポンキリスト教と触れていて、同じ感覚をつねに覚える。例えば牧師のメッセージである。ほとんどが同じトーンと内容、喋りぶりから言葉使いまでみな同じである。私のMSGでも時に真似をするが、簡単に真似できるほどにある種の同じ臭いを醸している。そしてまた信徒はその受け売りをもっともらしく繰り返すのみ。

この日記を読まれた典型的ニッポンキリスト教徒の方が、「この日記を読むとルークさんという人が見えてしまう」と言って来られた。これには正直驚いた。日記なのだから見えて当たり前である。この人は何を私に期待し、何を求めているのか。パウロの文書にはパウロらしさが、ヨハネの文書にはヨハネらしさが満ちている。

私は超霊的な"霊能力者"や"聖人"にはなりたくないので、あえてこの日記では普段着の言葉を用いている。この手のWebを開き、霊的な事を書いていると、何時の間にか"ルーク像"が勝手に仕立て上げられ、一人歩きを始める。このような時、私はあえてその像を壊す。人がある期待を私に抱くならば、あえてそれには応えない。私はニッポンキリスト教の牧師像とはまったく異なることを意図している。

ニッポンキリスト教では牧師は信徒が期待する役割を演じ、信徒は牧師に求められる役割を演じており、ひとつの人工的な言葉を共有するのみで、互いの実体に触れることができない。共にガラスケースの中に生きている。

私から見て、すでにニッポンキリスト教はほとんど準カルト化している。

なかなか・・・です(汗)

しかし早いですね、すでに3月。今年もほぼ1/4が終わらんとしています。ルーフバルコニーから冬は富士山がきれいに見えるのですが、日の入りがぐっと北よりになってきています。

う〜む、この春休みにわが部屋の整理を徹底的にと思っているのですが、体がなかなかついていきません。特にこの時期は季節の変わり目でホルモン支配が変化しますので、体がだるくなるわけです。収納家具などは整ってきているのですが、これからトランクルームのあの大量の荷物をもってきて・・・と考えただけで、ボーゼン自失として、めげております。

さて、さて、ポツポツと整理を再開しましょうか・・・。そうそう、この休み中に1日人間ドッグにも行ってこないとね(1年おきに受診しています)。部屋のオーバーホールと共に体のオーバーホールも必要です。

いわゆる検診で出る「正常値」はあまり当てになりません。これは集団の統計学的正常値であって、必ずしも個人の正常値とは一致しません。私は自分の献血の血液検査値を20年にわたって観察しているのですが、個人の正常値は個人のデータの経年変化を追跡する必要があるのです。これはうまくデータ処理しますと初期胃がんなども検出できるのです。

ちなみに私は他の項目には異常はないのですが、なぜか中性脂肪が高いのですね。酒は飲みませんし、食事もきわめて質素で少食なのですが、甘い物に目がないためでしょうか。それと肺の換気機能が弱いのです。肺活量は5500ccもあるのですが、いつもこの検査で引っかかります。幼少時、東京の下町で車の整備士をしていたオヤジの仕事柄、排気ガスを吸って育ち、気管支炎をやったせいかもしれません。

それにしても、「やらねば・・・」と思っていることは多々あれど、体がついていかないこのもどかしさ。歳のせいとは思いたくありませんが・・・。

追記

辛口ミニストリーのSaltさんが実に面白い日記を書いています。カルト国家アメリカと無責任アメリカ人、これはニッポンキリスト教の喜ぶ"ヨイショ預言"をする"油注がれた"輩にも言えることです。

seasoned with Salt→
http://app.memorize.ne.jp/diary/24/57910/

アウトブレイク

ついに自衛隊まで出動です。昔映画で「アウトブレイク」というのがありましたが、これを観た後は映画館とか人ごみが恐くなったものです。

鳥インフルエンザが恐いのは人のウイルスとハイブリッドになることです。これで人に感染するとこれまでに免疫がありませんから、数百万、数千万が死に至ることにもなりかねません。

京都では絶望的な声明も出されているようですが、ここはぐっと冷静になる必要があります。浅田さんへの非難と情報の共有を切り分けて対処しないと、今後感染が出ると、エイズやハンセン氏病の差別問題のようにもなりかねません。

私は一部の聖書預言学者のように「地震に、戦争に、飢饉に、疫病と・・・これも聖書の預言どおりですね」と、高みからのもっともらしい批評はしたくありません。あくまでもこの時代の当事者として関わっていきたいと願っています。なぜなら神はこのような人間と共にいます方、インマヌエルなる方であるからです。

追記

マスコミはこのような時、自分たちこそ正義の使者みたいなノリで書き立てるが、今回の浅田さんは追い詰められると自殺の危険もある。社会が少々ヒステリックになっているようだ。

鳥インフルエンザとリバイバル

牛がだめで、鳥までもアウト。肉は当分食べられないと思いきや、Volksではオーストラリア産の牛のステーキを食べることができました。

しかし今回の京都の浅田さんは気の毒としか言えませんね。彼らの落ち度でウイルス感染が起きたわけでもないのですが、事後処理が問われて刑事告発までもと・・・。もっと迅速な対応があればと悔やんでも遅いですが。

このような時人は、「もしかすると・・・」と思っても、「いや、うちに限って・・・」という思考パタンを取るものです。思い込み(presumption)なのです。もし私が当事者であったとしても、そのように考えたかもしれません。前の雪印の時も同じようでしたが、雪印は自分の落ち度に対して処理が悪かったわけで、自業自得。今回とはちょっと異なります。

主は言われました、「得ようとすれば、失う。失えば、得る」と。このような時には「捨てること」が鍵なのです。ニッポンキリスト教もリバイバルを"得よう"として、アメリカ産の"油注ぎの器"を全頭検査もせずに輸入してきていますが(下手すると霊的BSEが蔓延しますよ)、リバイバルの鍵はまず失うことにある事を理解すべきでしょう。

教勢を得ようとか、1000人教会だ、一万人礼拝だと、真理を曲げて、人に媚びる"福音"を語りつつの現状、どうして聖なる御霊が働かれるでしょうか?それに仮に一千万人が救われたとしても、現状では教会が彼らを霊的に養うだけのキャパがとてもありません。躓かせて散らすだけでしょう。主の時ではないのです。

鍵は、得ることではなく、まず失うことです。

 * * *

サーヴァをApacheとADSLに変えてからレスポンスが格段によくなっていますが、今度はServletを走らせるために、Tomcatをインストールしています。つまりサーヴァサイドJavaを実行しようと言うわけ。

これはGroupwareと言いまして、組織のメンバーで情報を共有するためのシステム(情報ファイル・出退勤・出先・スケジュール・名簿・稟議書・決裁書・掲示板など)を構築するためです。こうすることできわめて円滑な組織運営ができ、しかも自立型の行動を取ることができるわけです。

今、すでにFTPサーヴァは立ててあり、これまでの私のMSGや音声ファイルなどを共有できるようになっていますが(一般公開はしていません)、さらにこれを推し進めようと言うわけです。これでどこからでもアクセスすることができ、情報を共有することが可能となります。

ところが例によってUnix系ですから、設定がややこしく、頭を痛めております。しばらく苦しみますね。

高校入試と内申書

思い起こすに、私の高校受験は悲惨なものでした。中学時代は担任と反りが合わず(何しろ体育と社会の教師でしたから)、内申書などはボロボロ。地方の二流高で、その300人中150番が1年の成績。何もやる気がありませんでしたね。

しかしある事(神の配剤としか言えません)を契機にガゼン燃えたわけです。学歴偏重社会は気に食わなかったのですが、東大をけなすにも外部者がやると「アイツは東大崩れだから」と相手にされないので、中に入って思う存分やってやろうと考えたわけです。

それと東大はとにかく試験の一発勝負で行けるわけ。中学・高校時代にどんなに与太っていようと、その時にできた者は入る。これで人生がすべてブランド・ニュー!ピッカピッカの東大生。この爽快さが魅力でしたね。かくして中学時代の気に食わない担任を下に見下すことができたわけです。

うちの息子も私に似ており、気に入らない教師とはけっこうガチンコして、今回、内申書は少々ボロボロでしたが、内申書によらない試験成績だけで受けることにして、一発でクリアできたわけです。

いやあ、内申書などが一生付きまとったらうっとおしいことはなはだしい。私はこの入試制度はPCのリセットスイッチと同じだと思っております。そうイエス様の十字架も神の前での内申書をすべてリセットしていただけるわけですが。

主の摂理とタイミング

神は現在私たちを火の柱、雲の柱ではなく、摂理によって導いて下さる。長男は一度私立中学受験で失敗しており、勉強には少々トラウマがあったようだ。公立中学に入ってからしばらくは目標をつかみきれない様子だった。

ところが空手を始めて、K-1に入れ込んで、英語がペラペラの元高校教師の角田選手を尊敬するようになった。さらに一昨年にイギリスに行ったときに英語に対する動機付けを得て、それから英語に力を入れるようになると、成績も3から一挙に5に上がり、彼の得意科目となった。

数学と理科はもともとできていたが、勢いで国語も上がり、今回もけっこう高得点を取った模様。社会は私と同じでちょぼちょぼ。結局イギリスで英語に開眼したことが彼の自信を深め、今回の結果に結びついた。

ひとつひとつの些細な出会いと導きに対する小さな一歩の踏み出しは将来への大きなステップである。昨今のヘン(変)テコステ的霊能力を求め、霊能力者になりたがる輩が多い中にあって、小さな日常のひとつひとつの事に忠実でありたいと願う。

まことの霊性とは"超霊的"になることではなく、人間として当たり前を当たり前にして、淡々と忠実に生きることに現れる。聖霊派で霊能力を求める者たちは、イエスの隠された30年の人間生活を黙想すべきであろう。

やれやれと一息

息子が第一志望の県立高校に合格しました。やれやれ・・・。早速ボクシングジム(光ジム:何とか言う有名な世界チャンプがいるそうです)に入会手続きを取るそうです。

昨年は長女が大学受験でハラハラでした。ちなみに来年は次女の大学受験です。彼女はバスケの国体出場をウリにしてスポーツ推薦をねらっています。

これからしばらくはこのような薄氷を踏む思いが続きますね。