2004年07月07日

信仰―安息に入ること

ヘブル書に安息に入ることが強調されている。イスラエルが安息の良き地に入り損なったのは、信じなかったからだと明確に書いてある。この神の民のための安息はまだ残されているから、くれぐれも不信仰によって入りそこなうことのないようにとある。

日本がリバイバルしない理由は簡単である。クリスチャンたちが安息していないからだ。洗礼に至るまでは下にも置かずに気を遣ってもらえるが、いったん洗礼を受けるや、伝道に、奉仕に、聖日礼拝厳守に、十一献金に・・・と次々に急かされる。「一億総動員伝道」とか、私は聞くだけでめげてしまう。「何とか運動」などからは私はすっと距離を置く。

かくして大量のクルシチャンと霊的難民が生まれ、教会をさ迷い歩く。アッチに油注がれた器が来るとか、新しい霊の流れだとか、まさに教えの風に吹き回され、ついに絞っても水が一滴もでない雑巾と化す。

はっきりと言いたい:リバイバルの鍵はクリスチャンたちが真に安息することにある。安息し、潤い、みずみずしく、しっとりと、つやつやと、主にある豊かな富を享受することにある。力の抜けたクリスチャン、安らいでいるクリスチャン、心の底からふつふつと喜びのわき上がるクリスチャン―これがリバイバルの鍵。

ウォッチマン・ニーは言っている:私たちが主のために無駄になるとき、ナルドの香油の香りが満ち、未信者は渇きを覚える。これが真の福音である。イエスのために無駄になる祝福よ!