2004年07月22日

何か変だぞ(2)

どうも世の中も教界も何か変だぞと、直感的に感じることが多い。この第一感を私は大切にしている。理由は分からないが肌感覚で「変だ」と感知する。これはいのちの不思議であり、聖書にも

しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です(ヘブル5:14)

とある。「感覚」である。これは理屈を超えている。しばしばややこしい神学理論などで武装している人が、当たり前が当たり前でないことが多い。彼らはこの正常な感覚を喪失しているからだ。

私がこうやって一応霊的に生き延びているのも、ある種の臆病さによる。私はいわゆる「新しい霊の流れ」やアメリカ産「油注ぎの器」などにはある種の赤信号が点る。「どこか変」と。私たちのセレブレーションだけを見れば、バリバリのカリスマに見えるだろうが、私の語っていることはきわめて「古い」。

ある人が「ウォッチマン・ニーなんかはもう古い」と言ったが、愚かなものである。人体の構造はヒポクラテスの時代から変わってはいない。霊の領域も同じ。聖書には「はじめから聞いているところにとどまれ」とある。

ここで再度、現代のいわゆる聖霊派などの「新しい霊の流れ」や「預言・幻」にはあらためて警鐘を鳴らしておく。そして私たちは聖霊派とはまったく関わりがないことを改めて宣言しておきたい。

ゴルゴ13の名言がある:「俺が生き延びてこられたのは、10%の才能と、30%の努力と、60%の臆病さによる」と。