2004年07月30日

生きることの重さ

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              スコットランドの夕日

NHKで「阿波丸」のドキュメンタリーがあった。

戦時中アメリカの捕虜のために食料などを運ぶために特別に安全航行を保証されていた同船は、実は日本の軍事物資や人材を密かに運搬すると言う特殊任務を帯びていた。

それを知ったアメリカは世論に応えるために捕虜を大切にする目的で同船を見逃す決断をする。ところがある潜水艦がその通達を見逃し、しかも同船を駆逐艦と判断して4発の魚雷を打ち込み、同船に乗っていた2,500名が海の藻屑と化した。かのタイタニック以上の悲劇であった。

駆逐艦と判断した潜水艦のソナー担当者は現在も生存されており、90を超えていた。彼は言う、「確かに私は判断ミスを犯しました。阿波丸は1分30秒でレーダーから消えました。しかしもし再度同じ場面に出会うとしたら、自分は同じ判断をするでしょう・・・」。

ここで私は思わず「う〜ん」とうなってしまった。自分の判断ミスで2500名が死んだことをこの老人は60年以上も背負ってきたのだと。どのような心の遍歴を辿ってきたのだろう・・・。

原爆を落としたエラノゲイの乗組員たちはみな原爆投下に関しては触れたがらず、神経質な反応を見せていた。彼らも自分たちは絶対に正しいと主張していたが、"何か"を負っていることは明白であった。常に自分の良心に自分の正しさを訴えていないと生きてはいけない彼らの心の真実。

もしイエスの血がなかったならば、私は地上に長居はしたくない。歳を重ねることは自分の垢を溜め込むことに他ならないからだ。絶えず自分の良心を自分で宥め続けなくてはならない人生は過酷である。イエスの血がなかったら私はとっくに発狂していたであろう。

まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。・・・そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。―ヘブル9:14;10:22

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採点はかろうじてリーダーを騙し騙しで終わりました。最終成績もExcelで処理し終えて、あとはあす報告書に転記するだけ、と。これが一仕事であるが、ニンジンがぶらさがっている、あと一息だ。