2004年07月28日

「カバリング」について

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前にDr.ルークは「カバリング」にはあまり賛成していなかったが、権威に服することと「カバリング」についてもっと聞きたいとの声がありました。

私が現在言われている「カバリング」から受ける印象は、ある特定の教役者(自称、使徒・預言者・牧師など)の元で、その霊的保護と指導に与るというものです。さらにはある系列に入ることを意味するように感じています。枝教会とか系列教会とか・・・。

私がいわゆる「カバリング」に対して批判的なのは、主イエスと個人または教会の間に、この「カバー」が入ってしまうからです。

BBSでも少し触れていますが、聖書の原則は次の通りです:

1)地上の各地に現れたローカルな教会は、それぞれが自立して、直接に頭なる主につながり、直接の油塗りによる導きと、主に対する責任を負う。諸教会の間に、本部教会や枝教会なる関係はなく、それぞれが対等に自立する。

2)ローカルな教会はどのようなミニストリーを受け入れるか(=服するか)、自己責任で選択することができる。ミニストリーとは個人または教会が主イエスとの関係を深めるために奉仕するものであり、彼らをキリストに根ざし、キリストの中で建て上げることである。つまりミニストリー依存にしてはならず、むしろキリスト依存に導く必要がある。

ここで権威の混乱が見られる理由は、ニッポン人の甘えの病理が根っこにある。「カバリングを受ける」と称してその人あるいはミニストリーに依存したり、自己責任を放棄して、あなた任せになる傾向が強いのである。また一方ではこのような人々が自分に依存していることに自分の価値観を見出すミニストリー提供者も出る。主のひつじではなく、自分のひつじを囲うのである。

お分かりでしょうか?すでに「カバリング」というニッポン・キリスト教語の定義が確立しており、しかも真の意味での権威に服すること(一般名詞としてのcovering)からかなり逸脱しているのです。これは「カリスマ」についても同じです。すでにニッポンキリスト教聖霊派的「カリスマ」の定義が確立してしまっています。私は英語でcharismaticといわれても抵抗ありませんが、ニッポンキリスト教語で「カリスマ派」とは言われたくはありません。

日本語は聖書の真理を理解するためにはもっとも不適切な言語であると感じていますが、日本語の世界は日本人の精神病理によってひとつの閉じた世界ができており、その中で聖書の言葉をいじくるとき、ニッポンキリスト教の「教え」が生まれます。それはニッポン人の病理によって相当にバイアスされているのです。

鍵は言語を超えた霊的リアリティに直接に触れること。「重力は距離に反比例し、質量の積に比例とする」とか「f=G・mM/r^2」と書いてもその意味が分からない人は多い。が、食べ過ぎれば容易に重力そのものは体験し得る。霊的世界も同じ。理解できなくても、経験し得る。だれもが直接イエスに触れ、イエスを知ることができるのが新契約である。

「カバリング」を求めたり、押し付けたりする人々は次の聖句によって霊と魂が切り分けられる必要があろう:

 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟
 に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から
 大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるから
 である。(ヘブル8:11)