2004年07月12日

KFCのスタンス

昨日の内容に早速ご質問というか、クレームをいただいた。ニッポンキリスト教と関わらないとはいったいどういうことか、と。やれやれ。

人間の組織においてはしばしば個人の信条や良心よりも、その組織の決定や存続を優先し、個人が疎外されることが起きる。教団の理事会や、役員会の意志が主の御心よりも優先されることは極めてよく起こる(でしょ?)。しかもその役員会などの力学はきわめて人間的であり、「白い巨塔」的である。特に資金的な繋がりがあれば致命的である。

私たちはこのような圧力からは一切自由でいることを願っている。主と御言葉と個人の良心に忠実でありたいだけである。これを損なうリスクのある関わりは一切避けたい。しかし、もちろん個人レベルでの交わりに対してはオープンである。一対一での神との関係、また一対一での個人との関係。これはキリストを共有し得る限り、大いにウエルカム。

実はこのようなスタンスを取ることには、結構リスクがある。いわゆる伝統を重んじるニッポンキリスト教界からはあまり芳しい評価はいただけないであろうし、また出入りが自由なので、変な人がまぎれることがある。これらの人々がまた自分の歪んだ目を通して見た"KFC"をあちこちで喧伝して回る。

しかし私たちは人の目とか人の評価はほとんど信頼していない。これがいかに危ういものであるかは、私は心の専門家として、また経験的にも熟知している。朝と夕でころころと変わるのが人間である。「人を恐れるならば罠に落ちる」、とあるとおり、神の教会を立て上げることでの最大の障害はクリスチャン自身の心にある。

まことの自由を享受する道は、人を見ないこと、神の前で経済的にも精神的も霊的にも自立すること。そして捨てること。私はただキリストの愛以外には縛られたくないだけであり、自由をエンジョイしていたいのである。メル・ギブソンの「パッション」はあまり・・・だが、むしろ「ブレイブハート」を評価したいDr.ルークである。