* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
ますます混迷の度を深めているイラクだが、ついに邦人2人が殺された。小泉氏と外務大臣(名前を度忘れした)は相変わらずの発言であるが、もし派遣するならばアルカイダの東京のテロが実現するであろう。この愚かな原理主義に色づいたブッシュの戦争は、元々の出発点が間違っていた。よって正義はこちらにないのだ!ゆえに決して勝利することはできない。悪を持って悪に応じれば決して悪を制覇することはできない。よって日本もこれ以上に関わるならば、さらなる悲劇を招くであろう。
今、KFCの追及の中心はキリストにあって回復された人間性を享受すること、人間であることを堪能することにある。
聖霊派では霊能力者に、福音派では学者先生に、正統派では社会運動家(?)になりたがるようである。私たち標準派(?)は人間になることである。
人間生活は来る日も来る日も同じような連続。その中で窒息しそうな人は、一体自分の人生とは何なんだ、と疑問の中に沈み込む。
しかし無限なる神はあえてその座に固執せず、卑しいしもべの様を取られた。これが受肉の奥義である。神が人になり30年以上人として生きた。その死と復活により、失われていた人間性を回復し、さらに栄光化して下さった。
今私たちはその人間性を今ここで愉しむことができる。実は神の意図はそのような御自分の御住まいとなる人を得ることであった。黙示録の究極は「神と人が共に住まう」ことにある。これが子羊と花嫁なる新エルサレムの結婚生活である。
ブラザーローレンスは「落ち葉を拾うことの中にも神がいます時、喜びがあふれてくる」と証している。つまらない単調な人間生活の中に共にいます神(インマヌエル)と交わる時、すべては甘美な経験に変えられる。
神の御計画とは宇宙的な結婚の完成である。今このときその前味わいとして、キリストにあって栄光化された人間性を享受してすること―これがクリスチャン生活である。
Again, Jesus, You are so sweet and more than enough!
TVで人類36億年の歴史として脳の特集があった。例のベストセラー「バカの壁」の養老先生も登場して、サバン症候群や文明を拒否しているアマゾンの人たち、さらにウイリアム症候群の人々をレポートしていた。彼らの率直な感情表現と生き方にある種の感動を覚えた。
サバンの人は他の領域では普通ではないが、例えば、235年5月4日は何曜日かに瞬時に答える。ウイリアムの人々も音楽に対する感受性がひじょうに豊かである。アマゾンの人々は明け透けな感情が豊かである。ダウン症の子供もそうであるが、彼らの無防備な自由な感情表現は感動的である。
今の日本は物事を器用にソツなくこなす人が社会に受け入れられ、できない人は排除される。よって感情を抑え、自分を疎外しつつ、窒息寸前でかろうじて生きている。しかし何かを喪失している。自分の生存を自分で担保するために、自分を削り、自分を脇へ追いやっているというこの矛盾。その中でかろうじてケータイで自分を確認し合う様は、水が鼻まで上ってきて窒息しそうな状態でかろうじて息をしているような感じ。
北海道でキャンプした時、TVも電話も時計も見ない一日を送ったことがある。時間の流れがものすごくゆっくりとなり、ひじょうに豊かな時間を過ごせた。多分縄文時代の人々の日常は現代の私たちよりもはるかに豊かなものであったと思う。前頭葉皮質の抑制から解放された状態である。
自分の生存を守ろうとするために何かを得ることにより、実は何か大切なものを失ってしまう。その失ったものを何かのテクニックで得ようとしてもがく。ここにいろいろな商売が繁盛する。しかし実は当たり前が当たり前であることが一番の幸せ。神がイエスにあって人となったこと-これこそ最も偉大な奥義。
キリストが回復してくださったこの人間性を愉しむこと。聖化されるとは前頭葉の抑制から解放された、御霊に服した状態であり、回復された人間性を享受することである。この時脳内にはβ-エンドルフィンなどのホルモンが分泌され、気持ち良くなり、体も健やかに、お肌もつやつやとファウンデーションの乗りもよくなるわけ。もちろん免疫系も活発になるので、ガン細胞もただちに死滅される。御霊はこうして死ぬべき体にもいのちを与えて下さる。
私が聖書は神学書ではなく、霊精神身体医学書であると言う所以はここにある。
前に私が株でマンションの頭金を作ったと書いたら、Dr.ルークがそんなこの世的なことをしていたのですか?とレスをいただきました。
やれやれ、私は聖人君子ではございません。株には熱中しましたよ。パソコンで分析ソフトを作ったりとか。おかげで経済政治とこの世をたっぷり勉強しました(笑)。それに前にちょっと書きましたが、アメリカのオフィス・ビル投資にも手を出して、集団訴訟して大勝利したとかね。結局残債160億(訂正)をチャラにして、なお7億5千万の和解金を取りました。8年に渡る戦いでしたが、楽しかったです。今はなき長銀などの前でプラカードをかかげてシュプレヒコールをしたりとか。
ちょっとお話しましょうか。裁判はですね、特に民事は法廷の外で勝負がつきます。私たちの場合、途中で裁判官が変わったのですが、コイツが元修習所の所長とかで偉ぶっていて、被告の大企業の顔色ばかり見るわけ。そこで私は専門のプロファイリングで、彼の弱点がすぐに見抜けましたので、丁重に一筆したためたのですね。これが図星でして、彼は次の期日から最後までわれわれのペース、ヘコヘコとね。おかしかったですよ。私がどんなことを書いたと思います?(あのね、人の前で偉ぶっている人ほど実は弱い人なのです。弱点を突けばコロっと逝きます。)
ところで株価について卒研生にシミュレーションをさせているのですが、今流行のデリバティヴという金融派生商品があるのです。これはブラック・ショールズ方程式という、伊藤型確率微分方程式をいじくって誕生したものなんですが、これをEXCELで解かせるわけです。これで株価が予測できて、変動部分をすべてキャンセルして、確実な投資が可能となるのです。
また同じ原理で、ニュートンの運動方程式にブラウン運動の搖動項を入れると、電子の運動がシミュレートできるのですね。これで確率論的なシュレーディンガーの波動方程式を解かずとも、電子の振る舞いが見えるようになります。株価と電子の運動は思わぬところで結びついているのです。
で、何を言いたいかと言いますと、実は株価も電子の運動も影に過ぎないのです。その実体が何であるのか、実はサイエンスでは分かりません。この世のもの、物理的現象も、精神的現象も、実は影です。サイエンスはモデルを作り現象と数値を比べて、現象を記述することで満足するわけです。HOWには応えてもWHYには答えられません。では真の実体・本質・実質は何か、これはキリストです(汎神論を唱えているんではないですよ)。キリストが扇の要であり、キリストがなければ、すべては影、空の空、虚無、ナンセンス。究極の実在はキリストだけです。
この世はもちろん、昨今の教界でもキリスト抜きになっている風潮を危惧しています。霊的になる、あるいは聖化されるとは、このキリストの人間性を内に形作ることに他なりません。真に人となることなのです。聖霊派によくあるような霊能力を得たり、パフォーマンスをすることではありません。私たちの善行や奉仕なども、実体であるキリストを抜いたら単なる中空の殻です。すべてはキリストにあって、キリストのために創造されたのであり、万物はキリストに帰されるのです。
見かけに欺かれることなく、本質を見抜くこと。今後多くのクリスチャンは欺かれます。サタンの終わりの時代の策は、偽りであり、私たちを欺くことです。立派な神学やミニストリーや預言や伝道法や、センセイたちが現れるでしょう。「肉の欲、目の欲、暮らし向きの誇り」が3つの誘惑のルートです。ここに訴えるものはたいてい偽りです。
主は今どこにおられるか、人の注目しない、誰も気に留めない、みすぼらしい、カッコの悪いところです。大衆が熱狂するものは大抵嘘です。ブッシュの不意打ち的イラク訪問―ハリウッド映画のような演出お見事さん。ミエミエですがね。
(ヒッソリと)実はですね、転換社債と株の空売りを組み合わせますと、株が上がろうが下がろうが絶対に益が出る投資法があるのです(会社がつぶれない限りですが)。これを「逆裁定取引」と言います。これもですね、人々が知らないから有効なんです。みんながこれに飛びついたらダメになりますから。株でも本当に儲けている人はコツコツとね、表には出たがらないものです。
※ルークさんの専門って何なんだ?という声(笑)
私はなるべく「バカの壁」に囲まれないように、広く浅くでやっています。
と題して、田中宇氏がまたレポートしている。CFRなどの報告書も元に、かなり差し迫った分析である:
http://tanakanews.com/d1127iraq.htm
私も昨年の冬のコースでかなり煮詰まっていることを講義したが、その後すぐにイラク戦が開始された。次はシリアであることも訴えてきたが、かなり切迫感を覚えている。国際ジャーナリストである田中氏もそんな予感を覚えていることにある意味で怖れを覚えている。ケータイ猿化で平和ボケしている場合ではなくなってきた。
さっき校長の自殺の件を書いたが、この人も物が見えてしまったのだろうと思う。吉田兼好は「徒然に物を書いていると、世の事態が見えてきてしまって、狂ってしまいそうになる」と言っているが、私などもクリスチャンになっていなければどうなっていたことか。現代では庵を結ぶわけにもいかず、できることは永平寺あたりに入ることだろう。道元には憧れていましたからね。あの凛とした空気は身と心が引き締まって背筋もシャンとする。
私の場合、どうしてやっていられるかと言えば、霊と魂の切り分けができているからでしょう。ここでいろいろな病理現象を切り刻んでいると、何の希望もないような気分にもなるが、実は霊に戻る時に、真の自分のアイデンティティを確認し、あらため本当の身の置き所を見出すわけ。自分を取り戻すことができる場所、それは真の至聖所である霊である。心の底からほーっと息がつけ、父の愛がじわーっと迫ってくる。
神の子であり、居場所は霊のうち―ここが開けると物狂おしいこの世(教界も?)でも真の自分を保つことができる。多くの混乱しているクリスチャンは魂の中を果てしなくぐるぐる空回りしている。魂と霊が分離されるならば、ただちに安息に入ることができ、まことの満足も得られるのだが。
ニッポンキリスト教の普通の牧師で、霊と魂の分離などというメッセージをするセンセイはいないし、そもそも何のことか彼らには分からないだろう。いわんやその下にいる信徒をや。弟子は師を越えないとあるとおり。これが教界の果てしないややこしさの理由である。
私と接触するとそれぞれの方がどうも目覚めるので、それまでの生き方に対しても、周囲に対しても、いろいろと白黒をつける必要が出るようである。「うちのセンセイのおっしゃるとおり」であればある意味で自己責任を放棄して楽なのであるが、目が開くと責任と苦しみも背負い込むことになる。バイブルカレッジの受講生の方々もいろいろ自分と周囲に変化が起きてきて戸惑う場合も多いようである。まず霊が開かれるとクリ系の新聞や雑誌を読んでも無意味。またいわゆるキリスト教の慣習や伝統、人の様や評価にも無頓着となる。
なぜなら今この瞬間にいます実質(=ありてある)に触れているからである。かくしてそれぞれが主の前にまず単独者として立って、「あなたはわたしに従いなさい」という主の招きに応ずることがすべてとなる。それは一面孤独の極致であり、人間的な慰めを求める人には耐えられない。しかし実は最も甘美な状態であるのだ!この甘さを経験するならば、目に見えるものは瞬時に意味を失ってしまう。
Jesus, You are so sweet and more than enough!
「新米校長奮戦記」などの著書もある55歳の校長が自殺したとのこと。以前、日の丸の掲揚で悩んだ校長が自殺したが、今回は何が原因であろう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031126-00003036-mai-soci
私の友人の高校の教師や、予備校の先生で高校をやめた方の話を聞くとある意味理解できる部分がある。キーワードは「ナンセンス(無意味さ)」である。
昼間は事務処理に追われ、授業がむしろ息抜きであると田舎の友人の高校教師は言っている。夜中に警察から電話が来たり、子供が行くえ不明だと親が泣きついてきたりと。神経が休まる暇がないらしい。
先にBBSに「存在の耐えられない軽さに耐えかねて」と書いたが、これはキョーイクの現場が一番証明している。積み木の積み方を教えられたとおりに、何度も積んでは崩して、また積んでは崩して・・・このような無意味さというか。(まるで小泉さんと管さんの論戦のようだ・・・・)
ソロモンの嘆き−「空の空、空をつかむがごとし」−である。
田中宇さんのレポートにまた面白い記事があった。
イスラエル化するアメリカ軍:
http://tanakanews.com/d1125iraq.htm
イスラエルではヨルダン川西岸に塀を張り巡らせ、パレスティナ側と隔離策を取っている。くねくねと入植地を取り込みつつ、ややこしいリアス式海岸のような塀を張り巡らせている。テロリストの侵入を防ぐためだそうだ。
一方ブッシュは次期44兆円の国防費を計上し、小型核爆弾の開発も再開するらしい。相変わらず強気の発言であるが、裏は戦々恐々である。
この二つの困った国の共通項は何か?パラノイドである。いずれも外側に強気を押し出せば出すほど、実は内側の小心さを証明している。弱い犬ほどよく吼えるとあるとおり。
かつてはソ連とアメリカで拮抗する形でパラノイド状態がある程度で収まっていたが、ここへきてヴァーチャルな形で仮想敵国を作り上げ、ドン・キホーテよろしく風車に突進する有様を呈している。
パラノイドの特徴は自分が敵意を持てば持つほど、それを相手に投影し、さらに恐れをいだき、敵意を増幅すると言う悪循環に陥る。チンパンに鏡を見せると、自分の姿に攻撃を仕掛ける、すると鏡の中の自分を見てさらに恐れ、攻撃すると言う、まさにひとり芝居。ブッシュとユダヤ人の狂言芝居に巻き込まれる者たちはかなわない。
先週の金曜日、ひとつの講義の日程を変更した。4日前に学務連絡の掲示板で告知しておいたにもかかわらず、きょう訪れた学生はひとり。他の連中は掲示板を見ていない!
この来た学生もいつもは掲示板を見ていないが、私が教室に顔を見せなかったので、念のため確認したら日程変更に気がついたというわけ。
一方でケータイを肌身はなさず、絶えずカチャカチャやってないと不安になる連中がいる。コミュニケーションのアンバランス。大切な掲示板による情報伝達には無関心で、ケータイではつねに相手とつながっていないと不安になる。
どこかいかれています。ある動物学者は「ケータイを持った猿」と嘲笑してしますが、まさに猿の社会。彼らは絶えずある種の声を出しつつ、相手を確認していないと不安になる習性を持っているそうです。同じです。
と、同様に教界でも、絶えず慰め、励まされ、愛されていないと自分の身を持て余す人々。大切な主イエスとの交わりはどこかへ行って、互いの温もりを確認していないとやっていけない甘えの病理。
何でしょう、この危うさ。当たり前が当たり前でない部分を、当たり前でないところで、失った当たり前を補償しようとしているわけです。悩んでいる人々よ、当たり前を当たり前に行いなさい。「悩んでいるからできない」とは言わないように。主は足なえに向かって「立って歩け!」と言われました。
信仰は行いによって全うされるのです。
ニュースステーションによると、当時の副大統領であったリンドン・ジョンソンとその顧問弁護士クラーク氏による陰謀だったとの本が出たそうです。物理的証拠なども提出されており、信憑性はかなり高そうです。
ジョンソンの陰謀説は以前から出ていましたが、やはりという感じですね。裏には石油利権などもからんでおり、現副大統領チェイニー氏と似ています。
みなさん、アメリカを自由と平等の理想国家とする幻想はもう終わっています。私が前から指摘しているとおり、霊的にはメーソン、政治経済的にはユダヤ人によるシカケがあるのです。「ユダヤ人の陰謀」は聖書の言葉です(使徒行伝20:3,19)。
アメリカはある種のカルト国家です。民衆はみなナイーブで、ある意味幻想に酔いつつ欺かれています。感傷的で直情的な親イスラエル・クリスチャンもそろそろ目を覚ますべき時期に来ています。彼らの精神構造はすでに「論考」でも分析しているとおりです。彼らもすでにカルト信者の病理と同じです。
すでにイラクもベトナム化し、ノドを掻き切られる米兵も出ています。イラクの人々のアイデンティティを否定し、自尊心を傷つけた代償は大きいのです。
さあ、小泉氏はここで男になれるでしょうか?引けば腰抜け、進めば血の代償。Be A Man, Mr.Koizumi!
ニッポンキリスト教の種々の問題はほとんどが甘えの病理で説明できるようだ。私も学生時代に講義を受けた土居健郎先生はクリスチャンであり、ベストセラー「甘えの構造」で有名な精神分析学者である。先生の本に「聖書と甘え」(PHP新書)があるので紹介しておきたい。
精神を病む患者さんで年季が入ってくると、薬の知識や精神療法の知識だけは豊富になる人が多い。そしてあの病院のこの先生はかくかくしかじかと、実によく医療の裏話を知っている。これは教界でも同じ。私の元に来る人で、実によくニッポンキリスト教界の裏や有名どころの先生の裏を知っている者がいる。
初めは私もものめずらしく聞いていたが、そのうちに面白いことに気がついた。このようにあちこちを放浪しているジプシークリスチャンの場合、その深層心理に裏切られた甘えが潜んでいることが多い。つまり彼らは教会や先生に対して、自らの甘えの満足を求めているのである。
そこでこのような人の場合、その人の甘えの要求に沿わない場合、容易に次の放浪に出るわけである。そしてこのような人物はあちこちでこのような裏話をするわけであるが、自分の歪んだ目で見た"事実"を話すわけで、その話は信頼できない。真にイエスのみに焦点付けられている人は、そもそも他人に期待することがない。言葉の多弁さと信頼性は互いにトレードオフ(反比例)である。
私のところにもかなり多くの人が出入りしたが、Dr.ルークに躓く者は結構多い(苦笑)。私はニッポンキリスト教の牧師のようにニコニコ(しかし目が笑っていないが)、何でも受け入れますよ、といった対応はしない。ある時期は相手に合わせるが、その間はやたらとベタベタしくるが、相手の甘えが見えた段階では、まずそれを受けることはしない。むしろ彼らの期待と反対に応ずる。なぜなら彼らは自分の甘えを満たすために、人をマニュピレーションすることに長けている。よってそれに一度乗ると、何度でもそのパタンを繰り返す。実に巧妙にして狡猾である。しかも悩んでいることを免罪符にしている。
要するに大人になり切れなず、しかしオツムだけは大きくした者が多い。彼らは知識だけは実によく持っている(耳年増クリスチャン)。しかし自分の内的葛藤は処理できず、周りの人々を巻き込みながら、果てしない泥沼でもがいている。最も深くにある病理は満たされていない甘えである。これは土居先生が日本人の根本病理として提示されたが、ニッポンキリスト教界はまさにその実証例(病理標本)に事欠くことがない。
今日また3人の人々がバプテスマされた。ハレルヤ!彼らの歩みが祝されますように。
真理を語ると必ず何がしかのレスを受ける。この世からはもちろんであるが、教界からも、である。人は真理を嫌う。なぜならば、自分が切り裂かれるからである。自分が築き上げてきたもの、自分の才能、自分の能力、自分の実績などなど、これらがすべて無に帰することになるからである。
エレミヤは叫んでいる、自分が言葉を発するとトラブルばかりが頻発する。私が生まれた日は呪われよ!
真の預言者の道である。大衆からは決して受け入れられない。孤独な道、しかし心のうちに神の言葉が燃えて、それを解放さないではいられない。この苦しさに与ることが預言者の宿命である。
目覚めたら、必ず逆風を受ける。お体裁のキリスト教徒のパタンにはまっていれば、何もない。目覚めたら、語らないではおれない。人はそれを嫌う。主は、今、問うています:
あなたは誰につくのか、十字架の覚悟ができているか?
塾から帰ってきた息子いわく、「アイツ、ショボくなってた」と。ガンつけようとしたら、目をそらしてしまったようです。
息子も唇を3針縫う傷で多量に出血しながらも3発入れたそうですから、相手も相当にこたえた模様。彼の中学はちょいとそっち系で有名で、彼もケンカで鳴らしていたようですが、かえってこういう輩は一度やられるとめげるものです。
私はいつも彼に言っております、"Be A Man!"−主がヨブに語った言葉ですね。
サタンもですね、私たちが権威を行使しないでビビっていると頭に乗るのです。英国のColinが「私たちがサタンをrebukeしなければ、誰がする」と。ハチマキ締めての「霊の戦い」ではなく、rebukeしてやりましょう。
再建主義の富井先生の日記に興味深いことが書いてあった。前艱難携挙説の「レフトビハインド」が5,500万部売れたとのこと※。しかもブッシュもその愛読者であり、自分が預言の成就に貢献していると意識している節があるとのこと。
ttp://www.path.ne.jp/~robcorp/bbs/wwwboard.cgi
(直リンは避けます)
ヤラセですね。ある相場の読みに長けている相場師が、特定の株が上がると予言したとき、それにチョウチンをつける形で株価も上がるわけです。このようにしてできた相場を仕手株相場と言います(私もかつてバブル時代に株をやって、マンションの頭金を作りました)。
すでにヴァーチャルな世界(=ある種の予言解釈)が、それを信じ込んだ人々によって現実化されるという病理現象が起きています。ある面でオウムの犯罪の構図と相似(フラクタル)です。規模が世界的になっていますが。聖書ではなく、聖書の"ある解釈"が世界の悲劇を生み出しているわけです。東京も狙われているようですが。
すでに<現実のヴァーチャル化>がひっくり返って、<ヴァーチャルの現実化>のフェーズに入ってきてしまっているようです。マイケル・ジャクソンも同じですね。ポイントは人々が何を共有しているかが問われます。多数により共有される事が現実化しますから。
※私の弟は翻訳家なのですが、彼が食えない頃、主に憐れみを祈りますと、与えられた本が「ウォーリーを探せ!」でした(ご存知の方も多いでしょう)。これは日本でも1,200万部売れました!(印税で約6億!)主は私たちの祈り求めるところをはるかに超えてかなえて下さる方です。
彼がパラフィリア(性嗜好異常)の一種である少年性愛者であることはそのスジでは以前より指摘されていた。ネバーランドなるオドロオドロシイ場所に少年と過ごしているらしいが、彼は大人や女性は信じることができない、ただ信じられるのは子供たちとして、子供の人権や保護のメッセージの発信し、活動もしていたようである。が、今回の逮捕はその表の顔と裏腹に彼の病理が暴かれてしまった。
成人男性でも成人女性と関係を持つ事のできない"純情な"人物が、少女を相手にする場合がある。成人女性に対する時に自分の真実に触れられる恐れを覚えるのである。先日も書いたが、今日、このような人物がしばしば教育界にいることが不気味である。あの詫間氏による小学生惨殺事件の後、学校は一応外部者に対する警戒は強めたようであるが、実は内部にすでにそのスジの人物が教師として侵入している。
福祉やボランティアなどの場面でも、しばしば裏で性的(に限らないが)虐待がされていることは業界ではよく知られた事実である。なぜならこの領域ではしばしばスタッフ自身が問題を抱え、その問題を福祉・ボランティア活動により代償的に補償するためのものであることが多いからである。
「自由・平等・博愛」なる旗印は偽りであると知るべきである。神を排除したこの世の真実は「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」である。平和主義者や博愛主義者がしばしば最も過酷な攻撃者となることは、十字軍が証明している。
ある集団がカルト化しているかどうか、簡単に判別するリトマス試験的方法がある。そこのリーダーや信条を批判することである。この時のメンバーの反応を見ることにより、カルト度を測定することができる。つまりメンバーがその教祖や信条にアイデンティティを置いている程度と、反論の度合いは正比例する。
私がよく「聖霊派」を批判すると、しばしばお叱りの声をいただくが、その人が「聖霊派」にアイデンティティを置いている証明となる。私は現在英国のコリン・アーカートの影響の下にいるが、彼が批判されても私が反論する必要はない。私のアイデンティティは彼の上にないからである。
「ニッポンキリスト教」という言い方を嫌う御仁もおられ、私の発言を何かの挑発と受け取るようであるが、その人のアイデンティティの置き所が証明されている。キリストと御言葉がアイデンティティの置き所である時、○○派に対する批判も、××センセイに対する批判も、「It's none of my buisiness(あっしとは関わりのねえ事でござんす)」となるはずである。しかし現在の霊的状況はSaltさんもご指摘のとおり、オーディコロンが必要である。
自分というらっきょの皮むきをして何が残るか、反省猿の二郎君に調べてもらうべきである。
昨晩、息子が塾の帰り、他校の悪ガキに因縁をつけられ、顔面を殴られた。不意打ちを食らった彼は一瞬足に来て、クラッとしたらしいが、直ちに応戦し相手は半べそをかいて戦意喪失。彼は口の中を切り、数針縫った。X線では骨折などは観察されなかった。
ケンカのコツはイジイジとやり続けるのではなく、最小限の攻撃で相手の戦意を奪うことである。BBSなどでよくある議論の応酬に継ぐ応酬は疲れるだけである。議論のコツは相手の口を一言でふさぐこと。
サタンは何かと因縁をつけてチョッカイを出して来るが、実はわれわれを恐れている。聖霊派の「霊の戦い」はすでに見当ハズレの「戦い」をしている。聖書をもって神社の周りを「悪霊退散!」と回ったりとか。実にアホらしいし、まさにアニミズム的でありそれ自体がニッポン的。
サタンに処する道も、イエスの十字架であり、「サタンよ、出て行け〜」という私たちの勇ましい声やパフォーマンスではない。すでに彼は敗者である。この永遠の事実を突きつけてやる時、彼は半べそで戦意を喪失する。私たちは空を打つ健闘をすることなく、相手の急所を一撃することにより、良い戦いを戦い抜く必要がある。
ニッポンキリスト教がうっとおしいのは、互いの甘えを裏切らないように、いわゆる「お気遣い」がはびこるからです。信徒は先生の顔色を伺いながら、先生も信徒の評判を伺いながら。こうして互いに相手の目に映った自己像を杖として、自分を支え、自分を確認するわけです。これが日本人に多い対人恐怖の病理です。
御言葉は霊と魂を切り裂くのですが、この十字架のメスのキレがない。ベトベト、ドロドロ、うっとおしいわけ。ある方がメールで、私みたいな白黒明白な人物は珍しい、初めてお会いしたと感想を下さいましたが、まあ、私はしがらみに縛られたくない、楽に生きていたいだけなのですね。箴言にあります:
・人を恐れると罠に落ちる
・あからさまに責めるのは隠れて愛するにまさる
罪定めと健全な批判の区別がつかない人ばかりのようです、ニッポンキリスト教は。「心が痛い」人々が多いのですね(やれやれ)
ニッポンキリスト教がサラサラのパウダー感覚になれば、お風呂上りのようなキリストの新鮮な香りで、もっと気持ちよい爽やかな状態になるのですが、その前に自分の真実が暴かれる必要があるわけです。まあ、癌告知と同じです。
私は「白い巨塔」の財前というキャラにはある面で惹かれますね。あの打算的なストレートなメスのキレの良い医師像ですね。しかしどこか愚かしくて、憎めない。対して里見はややジメジメ的で、きわめて日本人好みです。
よくこんな質問がありますね、「メスの切れのいい腕は立つが冷酷な外科医と、メスの切れが悪く腕はボロボロでも優しくて親切な外科医と、癌を切ってもらうのはどちらにします」と(^^;?
この質問の本質はどこにあると思います、Hさん^^
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高校の教頭が女子生徒に「可愛い子猫ちゃん」なるメールをして停職処分となったとか?中学校の教員は性犯罪を起こす率が普通の15倍あるとか?由々しき事態が教育界には起きているようです。でもね、表に出ないだけで教界の率もかなり高いでしょうね。老いてますます御盛んなセンセイ方がたくさんいらっしゃるようです(汗)。
本日の感想をいただきました。この手の論調では必ずこの種のレスが出ることはいつものとおりですが、実は深いところに裏切られた甘えが潜んでいるのです。これが、愛し合って、赦し合って、慰めあって・・・のベトーっとした人間関係を生み出します。きわめて典型的日本人の反応です。
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ここに詳しいことがありました。ちなみに対象世帯は約1500万世帯で、その中から無作為系統抽出で600世帯をピックアップするようです。統計的バイアスも一応考慮しているようですが、数字はあくまでも統計量ですから、その性質を知らないで盲信するのは愚かです。
これは受験の際の偏差値も同じでして、偏差値で志望校(人生)を決めるのは、われわれからするとナンセンスです。ちなみに私は12月時点である模試で東大の合格可能性が50%でしたからね。一発勝負でも、受かれば灘高だろうと、私のような地方の無名校であろうと、ピッカピッカの東大一年生ですから(笑)
http://www.videor.co.jp/rating/wh/contents.htm
朝日記を書くのもまた一興。イエスはなぜペテロに「サタンよ、下がれ」と言われたのか。イエスは続けて語る、「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と。
今回日本テレビで視聴率操作の件で経営陣が降格、本人は懲戒解雇かつ流用した制作費一千万を返却しない場合は詐欺で刑事告訴もあり得るとのこと。この件ではじめて知ったが、何と視聴率は関東圏の600世帯を調査しているだけ!関東圏にどのくらいの世帯があるのか不明であるが、多分0.何%ではないだろうか?この600世帯が何を見ているかで、製作者とその番組の価値が決められる。いあや、驚きました。統計学的に言っても、視聴率の数字にどれほどの意味があるのか?無作為抽出で選んだとしても、たまたまその嗜好が偏ることは大いにあり得る。せめて数万世帯をサンプリングする必要があろう。
教界でも楽しいメッセージや退屈させない礼拝の方法を伝授する牧師のためのセミナーがあるという。「5分おきに笑いを取る説教」のコツとか。ある有名牧師の説教のテープをいただいて聴いたが、やれやれ10分でギブアップ。立て板に水の流暢な説教はかえって御本人様の強烈なニオイと浅薄な霊性を証明している。人に受けることを念頭においていることはあまりにもミエミエであった。この牧師センセイ、これで信徒を沢山集めて、日本有数の教会という評判を取っていることが自慢であるらしい。商売である。
パウロは言っている、「私は今人に仕えるのか、神に仕えるのか、人に喜ばれようとしているのであれば、私はキリストのしもべではあるまい」と。商売繁盛のコツはきわめて簡単である。人の肉を喜ばせばよい。すべて大衆において受け入れられる物、価値観、思想、人物はみな肉を気持ちよくする。先の600世帯はまさに「お客様は神様で〜す」。
人のことを思い、神のことを思わないセンセイや、臭いものには蓋で表だけを白く塗った教会、チョウチン記事だけのクリスチャン・メディア、どこにエレミヤの叫びがあるのか?かえって信徒様や購読者様を神様にしている牧師やメディアがはびこる。このような風潮にあってどうして大リバイバルなどが起こり得ようか。<リバイバル=教勢拡大>ではない。神はいつの時代にもレムナントによって御業をなさる。大衆はむしろつねに神の敵となる。
今、私たちは誰につき、誰を喜ばせるのか。信仰の根本が問われている。
この言い回しはニッポンキリスト教と関わるようになってよく聞くようになった。というか、私の言葉で心が痛くなる人がけっこういらっしゃるようだ。Dr.ルークの言葉は鋭いとよく言われる。ならば、ペテロに向かって「サタンよ、さがれ!」と言われたイエスの言葉の方がはるかにするどい。
実はこの言い回しの裏には巧妙な自己愛が隠れている。「心が痛い」とはその対象の立場に自分を置いて、自分が傷つくであろう場面が予想された場合、自己防衛する時に使われるようだ。
「心が痛む」のは大変結構であるが、今日ニッポンキリスト教では当たり前が当たり前でなく、黒を黒、白を白とすることで「心を痛める」繊細な方々が多過ぎるようである。姦淫している牧師に対して、「先生が可愛そうだから」として見て見ぬふり。「相手を傷つけたくないので、求められると性的関係も許してしまう」とか。かくして教会の中に罪がいたるところに隠蔽されている。
「相手を傷つけたくない」とは、実は、「自分が傷つきたくない」の裏返し(これを「同一視的投影」という)。自己愛の変形が他人に対して、「心が痛い」と感じさせている。実は自分を愛していることの事実に気がついていない。
「心を痛める」前に、まず客観的な正確な情報を得て、十分にアセスメントし、善悪をわきわえまてからでも遅くはない(ヘブル5:14)。一方的な情緒的な話に踊らされ、見当外れに「心が痛い」とするのが、ニッポン人の得意とするところだからである。メッセージでも語っているが、聖書には一切の甘えの入り込む余地はない。「あながたのことばは、しかりか否かであるべきだ。それ以上は悪から出る」とあるとおりである。
私たちが本当に心を痛めるべきことは、信じない人が多過ぎること−主の十字架が貶められていることである。
アルカイダがエジプトの雑誌で、日本がイラクに自衛隊を派遣するならば、東京の中心部を攻撃すると宣言した。岡本氏はすでにイラクに派遣しなければ、テロリストの思惑通りになるから、必ず派遣せよと報告している。これで政府は完全に前にも後ろにも進めなくなってきた。将棋で言えば、王手金取り、詰め一歩直前である。
ラムズフェルドは日本の主権を尊重するとか言いつつ、本音はすでにアメリカで不満をぶちまけている。ブッシュも早期主権委譲とやらで体よく逃げ出す姿勢を見せ始めた。いよいよ、混乱はピークに達しようとしている
が、それにしても北の拉致問題にせよ、本件にせよ、政府のお偉いさんたちの煮え切らない態度にはほとほと呆れてしまう。結局日本は主権国家ではないことだけが明らかにされている。福田氏の「危険と言えば、危険。安全と言えば、安全。みなさんも分かって・・・ネ♪」にすべてが証明されている。
自衛隊員はプライドがあるし、これまでベンチにいるだけだったから危険を賭しても行きたいと言っている。彼らは男になりたいのだ。せめて武器の自由使用を許可してあげたらどうか。それにしても日本で男が男たり得たのは忠臣蔵まで(そろそろその時期だなあ・・・)。あとはハッタリをかましているだけ。さてさて去勢された国家の、あしたはどっちだ・・・?
11世紀に起きた十字軍の特集があった。時のローマ皇帝の一声で、イスラムによって占拠されていたエルサレムを奪還すべく、燃え上がった人々が十字軍を結成し、イスラムの人々を大量に虐殺した。
見ていて、正直言ってキリスト教は恐いと感じた。絵においてもイスラムを虐殺したキリスト教徒の目が逝っている。彼らは「キリストの名」によって、「神のために」なしたわけであるが、完全にカルト化し、狂信者と化している。宗教は恐い、これが私の実感である。
では私たちクリスチャンとは何なのか。私は自分をキリスト教徒と思っていない。私が信じているのはキリスト教ではなく、キリスト御自身である。宗教ではない!生けるお方との関係である。私たちは別にエルサレムなど奪還しなくとも、どこでもいつでも礼拝することができる。否、むしろそのような礼拝を神は求めているとイエスは言っている。
目に見える場所や方法を、目に見えない方(パースン)よりも優先すること、これが宗教である。現在モリヤの山の神殿の跡には嘆きの壁とモスクが建っている。ディスペンセイション主義によれば、ここに第三神殿が再建され、そこに666が自分を神として立つはずである。しかしこの予言解釈を金科玉条にして、青筋立ててこれを守ろうとするならば、これはすでに立派な宗教である。
イラク戦でもアメリカの一部の狂信的牧師が「サダムを殺せ!」とほとんど逝っている目を持ってメッセージしていたが、これもすでに宗教であり、カルトである。また現在でもイスラエルに入れ込む牧師たちが、ブッシュに対して「イスラエルの領土は一歩たりとも譲ってならぬ、譲るならば神の裁きが下る」と叫んでいるが、これも狂信であり、十字軍と何ら変わりはない。そこに働く霊は御霊ではない。
すでにまことの神殿は建て上げられつつある。まことの神殿とは私たちである。至聖所は私たちの霊である。霊と真理による礼拝、これが神が求める礼拝である。物理的なイスラエルという地は神がメシアをもたらすために経綸的に選んだ地に過ぎない。本質は教会(エクレシア)である。私はイスラエルと教会が置き換わったとする「置換神学」ではなく、「元から神学」を唱えている。神は元々教会を得ることが御旨だったのである!
まことの神の神殿として私たちが建て上げられることが神のエコノミーを完成し、私たちがキリストの花嫁として用意される時、主が迎えに来られるのである。どうして成長していない教会を花嫁として迎えることができようか?一部の人がメシアニック・ジューなどを奉っているが、何も彼らを特別に扱う必要などない。彼らの肉の誇りに応える必要はない。肉のものは何ら意味はない!
イスラエルとエクレシア−あなたはどこで真の礼拝をするのですか?
結局アメリカは都合のよい情報のみを集めて、やりたいからやったわけである。人を治めるに必要な徳を失っていると言っていた。金を中心とした物質主義のアメリカの価値観とみかけの熱心な"信仰"、つまり狂信による米国型原理主義のバックアップによってなされた因縁をつけての戦争である。ヤクザと代わりはない。
すでに私は聖書の言葉を単なる白黒の文字としてとらえ、予言解釈にジグソーパズルのようにのめり込む者たちに警鐘を鳴らした。ここで再び鳴らしたいと思う。人の徳を忘れた統治は、仮に民主主義を旗印としてもフセインの独裁と何ら変わりはない。表がきれいな分、よけいに偽善となる。
"信仰深き"ブッシュに対して<仁・義・礼・智・忠・信・孝・締>の玄妙なる世界を教えてやりたいものだ。
ちなみにバイブルカレッジではようやく預言者たちを終えた。預言者の苦悩とうめきを共有し得ない者は予言解釈などにのめり込むべきではない。イザヤ、エレミヤ、アモス、ホセア、エゼキエル・・・、これらの預言者たちの心の奥深くのうめきと叫びを分ち合うことができることがまず求められるのである。彼らと同じ霊に与ることである。これがオツムを異常にでかくしているニッポンキリスト教の聖書学者・教師たちに最も欠如しているものである。
イラク戦で捕虜となり、特殊部隊によって無事救出され、一躍イラクでの英雄とされたジェシカ・リンチさんの証言が今週のTime誌に取り上げられていた。
一言で言って、要するにヤラセであったわけ。アメリカの大義なき戦いに覇気をもたらし、愛国心を高揚させるために見事に利用された。今、ラムズフェルドが来日しているが、確固たる姿勢を小泉氏はとり得るだろうか?
みなさん、そろそろ気がつきませんか、政治も教界もアメリカ由来のものはあまり良いものがないということに!?
「アメリカから何の良いものが出ようか?」
アメリカの本質は霊的にはメーソンと政治的にはユダヤ人の影の支配です。ブッシュがスカル&ボーンズのメンバーであることはフツウのメディアでも報道されています。今回の日本のイラク援助の資金(ダントツ!)も巡り巡って誰の手に入るのでしょう?
一般社会でも有名なクリスチャン・エコノミストの某氏(オフレコなのです)も背後のユダヤ資本によるシカケを指摘しています。日本のバブル崩壊も見事に演出されたのです。しかしこのことは表で発言すればクレジットを落とされ、「反ユダヤ」のラベルを貼られて、社会的には抹殺されます。
ユダヤ人が経綸的選びの民であり、神の御計画の中で特別な位置を占めることを認めることと、現在彼らがやっていることの真実を指摘することは別の次元のことです。もし天皇が犯罪を犯せば、それは天皇の地位と関わりなく指弾されるべきでしょう。これと同じです。
いわゆるイスラエル・シンパの人はここにバイアスがあり、すべて「反ユダヤ」の烙印を押してしまうわけです。これを「思考停止(エポケー)」と言いますが、この精神病理は教祖に対する批判を一切封じるカルト・メンバーの病理と同じです。
BBSにも書きましたが、今後キリストの体はイスラエルというトゲで損傷を受けることになるでしょう。パウロのガラテヤ書の格闘が再現されます。
BBSにもあったトピだが、どうも聖書のそこそこの知識があり、特に予言解釈などが得意な人々には、人の心の真実を忘れ、世界情勢なども字義通りに当てはめて、評論家的スタンスを取るようになるケースが多い。対していにしえの預言者は政治状況にも積極的に関わり王をいさめ、国を憂えている。
現イラクに関しても、イスラエルの利益との関係でアメリカの行動を正当化し、ブッシュを神が立てた素晴らしい指導者と絶賛する御仁まで出現する。ここにはユダヤ人の選民意識によるプライドとその裏返しのパラノイドを共有する病理が観察される(詳細は「論考」を参照)。知識は人を高ぶらせるとあるとおりである。
ここへ来て、結局私がこれまでに指摘したことがほとんど100%実証されている。一種の病に罹っているが、自分では病識が欠如しており、自分の見方が聖書的であり正しいと主張し続ける。プライドとパラノイドは同じ心の裏表。アメリカは人を治めることの高貴な徳を壊した。
今後、イラクはますます泥沼に陥り、アメリカは主権委譲を急ぐようであるが、彼らが荒らした後の同国は内戦状態に陥ることであろう。かくして再び強大な独裁者が出るまでは収拾がつかなくなるであろう。
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はちこさんのHPが何者かによって抹消されるという事態に立ち入っているとの御連絡を受けた。彼女の日記は楽しみにしていたので、残念である。しかし一体誰がこんなことをするのであろう。
早急な復旧をお祈りします。
大学生が家族を殺し、付き合っていた女子高生が殺人予備で逮捕された。お互いにネット上で付き合っていたらしいが、完全にアチラの世界に逝ってしまっている。言っていることが仮想現実的で、家族を殺す動機もよく分からないし、自分たちも共に死ぬことを計画していたようである。
また一方でケータイに夢中になっていて電車に跳ね飛ばされて死亡する人も出ている。彼らはケータイのメールがないと不安で、すでにケータイ依存症になっている。お互いの人間関係をケータイメールの中でのみ確認することができる。ヴァーチャル化の病理はすでに極致に来ている感じ。メンタルヘルスの講義のネタには事欠かないが、予想以上の病状の進行に少々危機感をいだいている。
現実において自らの身の置き所を喪失したある種の人々が、現実から逃避する形のネット上での刹那の逢瀬に人の温もりを感じつつ、互いの傷を癒し合う。何とも寂しい人のあり方である。
今晩2人の方がバプテスマを受けられた。毎回バプテスマする機会が与えられる度に、内側がとても新鮮にされる。不思議なことであるが、さわやかにされ、新しい息吹の流れを感じる。空気がスーッと澄む感じで、何とも言えない気持ちの良さ。お二人のこれからの歩みが祝福されるように。
で、帰りの道すがら、雨の中、ナビに頼って運転しているとナビが音声で右折を支持したので、広い道に右折で入ってビックリ。何と対向車線に入っていた!進入禁止の標識を見落としたのだ。対向車がパッシングをしながら、クラクションを鳴らしている。一瞬冷や汗だったが、幸い中央分離帯が切れている場所に避難し、正規の車線に戻れた。やれやれ。
夕方、千葉で老人が高速で対向車線を逆走して事故って死亡するニュースを聞き、何を馬鹿なことをしているのだと思ったが、まさか運転歴25年の自分があわやということになろうとは・・・。
ナビはとても便利であるが、これにベッタリ頼るのは危険。信仰の歩みも同じく、人の「預言」だとか、新しい「霊の流れ」などにべったり頼るのはきわめて危険である。聖書という地図の上で、自分で自分の位置を確かめ、内なる御霊の指示に従って、自己責任で歩む必要がある。
主の前に立つ時に、主から「あなたは・・・・?」と聞かれるのである。言い訳は効かない。あなたがたの言葉はしかりか否であるべきだ、それ以外の言葉は悪からくる、とあるとおりである。心の病気や、自分の出自や成育歴、さらにはACだPTSDだと格好の言い訳用語が満ちているニッポンキリスト教界よ、ヨブのように腰に帯を締め、心するように。自戒をこめて。
私はKFCが一緒に入っている民主党の候補者に入れましたが、みなさんはいかがでしょうか?私はやはり二大政党が拮抗する形を期待しています。
社民はすでに時代遅れ、土井党首まで小選挙区では落ちています。共産党は正義感の塊で、弁護士と医者は共産党がいいですが、政治は任せられません。
実は私はかつてある事件で原告団1000人をもって日本の大銀行や大企業を訴え、8年間戦ったことがあります。このときの弁護団は共産党系でしたが、彼らはすごいですね。徹底的に正義を通します。おかげで数十億を勝ち取る大勝利でした。そのうち証をします。
時代の風の流れは変わりますが、神の言葉は変わりません。私たちは絶対的神主主義の国に生きていますからね。この国では主権在民ではなく、イエスにあります。
もいつのまにか第8回目を迎えた。前回から王と預言者たちを扱っているが、このボリュームを3回でこなすことはかなり無理がある。きわめてきわだったハイライトを扱っているが、預言者のポイントは神に立ち返れとのメッセージであり、王たちはこれを拒み、ついには北王国はBC721年、南はBC586年に滅びるわけである。
今日のペンテ・カリスマ系における預言のミニストリーはほとんどがいかがわしいが、20世紀中庸に用いられたオースティン・スパーククス(ウォッチマン・ニーとも交流があった英国のミニスター)の"Prophetic Ministry"を皆さんに紹介した。
マーレーやこういったクラシック系の書物がほとんど顧みられていない昨今の情勢はきわめて危うい。いろいろな自称「預言者」や「使徒」が現れているが、主は「彼らは勝手なことを語っている」と言われていないだろうか?預言者の特質は大衆からは拒否されるのである。
まことの預言者はけッして人受けすることは語らない。先のアメリカの大リバイバルの「預言」などもきわめて嘘臭いと私は感じている。主は決してそのようなことは言われない!大衆受けするものはたいてい偽りであることはほとんど100%間違いない真理である。
この数年、私自身の意に反してニッポンキリスト教のいろいろな部分との関わりを持った。お叱りをいただくことを覚悟の上で率直に言えば、どこも検討外れのことをしているというのが印象である。様々な教界の出来事やアレコレを知れば知るほど私の霊は疲れを覚えてしまう。
あまり目や耳に無選別に何でも取り込まない方がよいようである。これを積極的情報遮断と言う。神との交わりを深め、純粋な御言葉に対峙するために、あえて目に見えることや耳に入ることを遮断する必要を覚えている。アレコレ知ったところで、私の霊的歩みに何の益があろうか。ブラザーローレンスのように、神の御前における臨在にとどまる修練をむしろ必要としていると感じる。
「新しい霊の流れ」とか、「最新の預言・幻」だとか、あそこに「油注がれた器」が来たとか、やれやれ、もう食傷気味である。ニッポンキリスト教はあまりにも野心と人のニオイが満ち、浅薄である。状況を知るほどに「一言物申す」となるのもそろそろ疲れるので、私は数年前のようにニッポンキリスト教からは少し離れたいと感じている。
主の大庭にいる一日は千日にまさる、とあるとおりである。
木曜日の日記はいつも金曜日になるのは、仕事から帰るのが9:30で、食事をして、「白い巨塔」を見て、風呂に入って、それから書くため。
さて、選挙も近くなり、KFCの入っているビル(といっても小さいものだが)に民主党の選挙事務所があるため、人の出入りが激しくなってきた。私も民主党には一度任せてみたいと思っているが、今度はどうであろうか?特に高速道路の無料化を3年でやるというのはどうも?である。また田中知事を国務大臣と兼任とは、ちょっと?である。第一、国造りのビジョンがない。
管さんは正義漢であり、口も立つし、見栄えもいい。が、ちょっと先走っている感じがしている。少々上滑りではないだろうか?以前私は日本のこれからのキーワードが、「ポピュリズム」と「民族主義」であることを述べたが、自民党はまさにこの路線でいくようだが、民主党も同じニオイ。どうも器が小粒であり、私は中曽根さんみたいな人にもう一度と思ってもいる。
日本は形がない国家である。米国が人工的にアメリカ主義にはめて国家を形成しているのに対し、日本はその中心が奪われている。ホンネは天皇を据えたいところだが、今のところそれはできない。かつて三島由紀夫が「このままだと20世紀の終わりに空疎な経済大国が極東にできる」と予言したが、まさにそのとおりになっている。
三島にはすべてが見えていた。私にも見えている。下手をするとこの世に自分の居場所がなくなる感じもしている。彼と違うのは、三島には天皇しかなかったが、私には主イエスがいてくださる。そこで私はかろうじて生きていられる。
BBSでKFCの位置づけについて、福音派でもなく、聖霊派でもなく、正統派(社会派)でもなく、無教会でなく、何なんでしょうとカキコしたところ、「標準派」というご提案をいただきました。なるほどこれはいいかも?
これまでKFCの立場を聞かれても、答えようもなく、ただキリストだけです、としてきましたが、使えるかも知れません。
しかし元々教会(エクレシア)は「召し出された者たち」であって、○○派なんてものはなかったのですけどね。対この世で定義されるべきなのですが、内部でゴチャゴチャと・・・ややこしいことです。「よく分かるキリスト教の教派」とか言う本を見ると、その系譜の複雑なこと。
私は「○○主義」がどうのこうのはまったくわっかりませ〜ん。聖書にこう書いているとならいくらでも語れますけどね。注解書や神学書など参照しなくても、御言葉だけであまり不足は感じていないのですが。
4月に"預言"したとおり、イラクがいよいよ混迷の度を深め、国連はついに撤退。各地でテロが活発化している中、ブッシュは相変わらず、"America will never run.(アメリカは逃げ出さんぞ)"だそうだ。
まあ、ここまで狂言を回してしまうと、今更ケツをまくることもできないでしょうが、苦虫をつぶしたようなあの顔がますます貧相になる。その上、川口外相は「自衛隊のイラク派遣は可能である」とのたまう始末。ここまでアメリカのポチ化しているとは。実質上丸腰で送り込まれる自衛隊員とその家族があまりにも気の毒である。死者は必ず出ることであろう。
大義なき戦争と大義なき死。やり切れません。
いやはや、いわゆる聖霊派(ばかりでもないですが)を通ってきた人々と接していると、目が点になるような驚く話が続出します。ある問題をいさめたところ「Dr.ルークに呪いの預言を受けた」とか騒ぐ人まで出現。やれやれ。
自分と合わない人はすべて悪霊に憑かれており、自分を攻撃してくるとか、意見が食い違うとすべて霊が違っている、自分は聖霊についているが、相手は悪霊であるとか。
彼らは私の専門からするとパラノイドの病理に犯されています。「人差し指と小指を立てている人がいたが、彼は悪魔礼拝者で、こんな人がいる聖会には怖いので参加しないとか」・・・。その後もわけのわからない発言をする人が身近にいたことにまったく驚きを覚えております(汗)。
パラノイドの病理が蔓延すると、誰が悪霊につかれ、だれが敵で、だれが味方かと、互いの交わりが損傷を受けるようになります。私はメッセージでもクリスチャンは神の宮であり、聖霊を宿しているのだから、思いを見張れば悪霊によって影響されることはないと口を酸っぱくして語っているが、どうも話のわからない人がいるようです。これらの人々は何でも悪霊のせいにしており、個人の責任がどこかへとんでいるのです。
今回これらの人々にはKFCを去っていただきましたが、私のもとにくる人々はきわめて多彩で、ニッポンキリスト教の病理の典型的サンプルとなる例が多いのです。彼らを診ていて分かることは、一言、病んでいますね、ニッポンキリスト教界は。リバイバルどころではなく、サバイバルが必要となっています。「リ」と「サ」の一字違いですが、ここをわきまえないと、とんでもないことになりますよ(これも呪いの預言になるんでしょうかね・・・苦笑)。
KFCのメンバーのAさんが、ある牧師に「KFCに定期的に参加している」と言うと、その牧師いわく、「もっとオーソドックスな教会にした方がよい」。Aさん、「アーソドクスな教会って一体何なんでしょうね」と。
私はメッセージでも語っているが、私たちは使徒信条の告白から始まり祝祷で終わる式次第(プログラム)は一切排している。1回1回、主の導きのままにセレブレーションが進む。それは宗教儀式ではない。私たちは宗教をしていない。よって一昨年より昨年、昨年よりも今年、というようにセレブレーションのあり方も臨在の濃度も変わってきている。
オーソドクスな「金太郎飴教会」はこれまでニッポンキリスト教の規格品を大量生産してきたが、しかし伝道にはむしろ障害となってきた。誰しもつまらない窮屈で退屈な礼拝に貴重な休みの日曜日をつぶしてまで参加したくはない。眠たくなる牧師の説教などは、校長や社長の訓示で十分である。
私はメッセージでも語っているが、「ニッポンキリスト教非公認規格外教会」を目指している。しかし私たちのセレブレーションに参加している人は証しして下さると思うが、主の臨在はますます濃厚になっている。いつまでもハズレ・クリスチャンでいたいと思っている。
ただしこれは絶えず主だけを見つめ、主に付き従うことをモチベーションとしていないと、ついていけなくなる。ヘブル人の意味は「川を渡る人」の意味である。アブラハムのように自分の快適な領域を出て、過去を忘れ、前へ、前へとキリストだけを追求する人が、まことのヘブル人である。
クリスチャン生活のすべてを決めるものは、心の動機です。動機がどこにあるか、これが私たちの進路を決定します。教会生活で、人間関係などJesus以外を動機にしているのであれば、必ず失望します。必ず裏切られます。しかし信じない者にはつまづきの岩、信じる者には救いの岩であるJesusをすべての動機とする者は、決して失望に終わることがありません。すべてのモチベーションはジーザスです。主よ、私たちの動機をあなた以外のものから完全にきよめて下さい。
きょうは休みを返上して、OCの日でした。よってバイブルカレッジは休講です。少子化で大学生き残りをかけて、生徒さんを接待するわけです。実際は少々手遅れ、もっと大切なことを忘れているのですね。組織はすでに末期症状を示しています。人を生かす組織を作るには、今と逆のことをすれば絶対ですね。人を見失っています。(どこぞのお国と似ています。)
* * * * *
今回の選挙は「マニフェスト選挙」ということだそうですが、そもそも「マニフェスト」って何なのと思いきや、要するに「公約」です。何でわざわざカタカナにするんだか。民主党にはある意味で期待がありますが、ムード作りになってしまってはいないでしょうかね。
今のニッポンの病理は、政策などで解決するものではありません。たとえば年金にしても、自分がもらえないだろうから、もう払わない−この理屈はまさに自分だけの世界観によります。金は巡り巡って自分のところに回ってくるものです。主は「与えよ、そうすれば与えられる」と言っています。
モラルハザードなんですね。すべてのニッポンの病理のルーツは。ここでも「人の道」が失われているのです。自分しか見えず、自分の論理に従って、自分の世界でしか生きられない人々が世にも教界にも増えてきました。