2004年06月19日

ヨン様と聖書預言

韓国のイケメンスターがモテモテらしい。「冬のソナタ」とかメロドラマを筆頭に韓国映画がヒットしている。NHKでチラっと観たが、なんともこそばゆいというか、日本の昭和30年40年代のよろめきドラマみたいな、ある意味で幼稚な話である。

が、このイケメンスターたちには、実は、日本のタレントが失っているある種のけなげさというか、純朴さがある。人は自分が失ったもの、自分が持っていないものを、いわゆるスターたちに投影して、そのスターの活躍を見ることにより、自分をそこに重ねて、自分のフラストレーションをカタルシスする。ニッポンが失ったある種のけなげさや純朴さを韓国ドラマが提供しているのであろう。

これはちょうど聖書預言の一見矛盾のないきれいな解釈を大事にし、イスラエルを純化してしまう病理と同じである。韓国イケメンスターときれいな聖書預言解釈信奉者の間には同じ匂いを感じることができる。

リーマン予想が解けた!?

150年前に提出されていたリーマン予想が解けたということで、アメリカの数学者が世界の数学者に検証を求めているとのこと。リーマン予想とは「ゼータ関数の零点の実部はx=1/2上に分布する」というもの。コンピュータの実験では確かにそのようであるが、証明はなされていなかった。もしこれが本当ならばスゴイ。もちろん私には分からないので、専門家の検証を待ちたいが、夢がある。かつて四色問題はコンピュータのしらみつぶしで解けた。数年前のフェルマーの予想も日本の夭逝の天才谷山と志村の定理を用いて解けた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%88%E6%83%B3

私の数学との関わりは、実は脳の機能との関係においてである。数学の真理は一体どこにあるのか。脳のニューロンのネットワークとシナプスにおける結合係数の分布にあるとすれば、数学は人の経験の中で作られるものとなる。しかし例えばフィールズ賞を受賞した数学者小平邦彦氏は、数学の発見とはすでにあるものを彫刻のように掘り出していくものであると言っている。つまり数学とは先験的に存在するものを見出す作業であると。とすると数学的真理はすでに脳の中に組み込まれていることになる。数学は一種の言語であるが、もしこれが人間の経験則から構成されるとすれば、どうして世界を数学で記述できるのか分からなくなる。自然界は数学で書かれている。

ヨハネは「はじめに言(ロゴス)があった」と言っている。数学もひとつのロゴスであり、神によって人の知性の中に書き込まれており、だから自然を記述できる、と私は信じている。わたしたち凡人の頭の中にも書き込まれているのである。ただそれが現れないだけである(あるいは記述する術を持たないと言うべきか)。

同じように、神によって律法も私たちの心の中に書き込まれている。新約はこの内なるまことの律法―いのちの御霊の法則―に従うことであり、これは心身脱落すれば、私たち凡人も享受することができる。すなわち内なるキリストに生き出ていただくこと、これは数学の発見と同じ。すでにあるものを形にしていく、つまり実体化することである。これが信仰である(ヘブル11:1)。

内なるキリストを見出すことは、おそらく数学の定理を見出すことよりもはるかに喜びに満ち、栄光である!

 私たちの内なるキリスト、栄光の望みである(コロサイ書)