2004年06月25日

この国を憂う

かつて三島由紀夫は憂国の士として、市谷自衛隊本部において隊員に決起を迫るも、怒声の中で拒否され、ついにボディ・ビルで見事に鍛え上げた腹を切った。彼は予言していた:「このまま行くと極東にほかに何もない空疎な経済大国が残る」と。で、確かにそのとおりになっている。

かつて黒船来航により政治的な引きこもりから暴力的に開国を迫られ、ここで政治的な自尊心を打ち砕かれて、武士道を捨てて西洋文明に追従する猿真似ニッポンが誕生した。ここで政治的アイデンティティを否定され、真の内的自我と外的自我に分裂し、真の自我を抑圧したまま、外的自我は西洋に追い越せとばかり富国強兵に邁進し、ついに日露戦争に勝利し、日清戦争から続くWW2まで戦争に次ぐ戦争にのめり込んでいった。抑圧された真の自我が疼いた結果である。http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing6.html

しかしながら、何の見通しも作戦もないままに、竹やりでB29に立ち向かった結果、原爆を落とされ、ここで軍事大国ニッポンも壊滅した。戦後ニッポンはお仕着せの憲法の下、一路経済拡張路線に走り、バブル時にはボーゲル教授の「ジャパン・アズNo1」で有頂天となり、文字通りに泡踊りをし、これもアメリカの資本にほとんど漁夫の利を渡して、ついに経済もクラッシュした。かくしてニッポンは、<政治的アイデンティティ>、<軍事的アイデンティティ>、<経済的アイデンティティ>の三面を見事に粉砕されたわけである。今のニッポンにははっきり言って何もない!

精神分析の用語に「去勢不安」という単語がある。幼児が「ある人」と「ない人」の存在を発見する時、「ない人」は悪いことをして取られたのだと解釈し、ここで父親との同一視によって取られないように善と悪の価値基準を植え込まれる、これがいわゆる超自我(=良心)であるとフロイトは解く。男は潜在的にこの不安を常に抱えており、これが自分のアイデンティティを否定される時に、男が見せる脆さとなる。

日本の歴史に照らす時、まさにニッポンは去勢に告ぐ、去勢の歴史と言える。今やアメリカに対してはまったくの腑抜け状態。相手の言いなりに、ただ貢がされている始末。かくしてニッポンの借金は2004年3月末時点で703兆1478億円。総額は03年度の国内総生産(GDP)(2次速報値)の1.4倍。生まれたばかりの赤ちゃんも含め国民1人当たり550万円の借金を負った計算だ。加えて合計特殊出生数は1.29。

リバイバルを口先で叫ぶだけのお仕着せクリスチャンたちにはいい加減に目を覚ませよと思いつつ、私もできれば三島みたいに腹を切りたいが、そんな気概もない。今必要なのはエレミヤ的預言者であろう。私自身もどのように祈ってよいかも分からないが、御霊のうめきに委ねるだけである(ローマ8:26)。

人の心の不思議(3)

私のような立場にいると人の心の真実を否応なく見なくてはならない場面に往々にして遭遇する。その度にエレミヤ17:9は真理であることを確認するが、人の心はゆがんだ鏡のようである。

いろいろな面々が私たちの前を通り過ぎていった。不正な金を兄弟姉妹から集め、自分の事業につぎ込み、しかも返済を一切しない旅行会社社長。自分と合わない人に関して「あの人には悪霊がついているから気をつけよ」などの中傷を陰で行い、いろいろな人々に突然絶交状を手紙やFAXで送りつけるご婦人。女子高生と親に隠れて交際をし、それを戒めた私の言葉を呪いの預言として、そのために鬱病になったと訴えるやたらと神学には詳しい中年独身男,etc。

これらの方々は結局私たちから離れた後、私どもを、異端だ、カルトだ、と言い広めて回っているが、これもお決まりのパタン。こういった傾向はこの世の組織でも、例えば大学の学長選挙などに伴って怪文書が流れるなどよくあるが、このような話を見聞きするたびに、黒沢明の名作『羅生門』を思い出す。

お体裁の人を気持ちよくするメッセージで、人を"接待する”牧師もいるようであるが、真実に御言葉を語るならば、必ず人の心は霊と魂が切り裂かれ、その真実が暴かれる(ヘブル4:12-15)。一方でいろいろとややこしい神学論争で、これまた互いに異端のレッテルの張り合いをする先生たちもいる。神学的にいかに正しいかろうが、神の取り扱いがない、いのちに触れないメッセージは虚しいし、それは神に仕えるものではなく、人に仕えるものに過ぎない。このようなメッセージで人を集めて何千人教会などを作っても、神の前でいったいどのような意味があろう。

仏教でも救われるとか(私は禅で永遠のいのちが得られるとは言ってないですよ、念のため)、救いにはイエス以外のいろいろな道があるとか、未信者で死んだ人もわずかの善をなしていれば天国に入れるとか、こういった人間中心の教えが表立って目につくようになってきている。このような霊的偽りの状況において、私たちのような立場にあるとつねに、神に仕えるのか、人に仕えるのか、を直接に主から問い掛けられる。神の言葉を預かることの責任である。

人に仕えるのであれば、御霊の油塗りは必ずストップする。自分がどこにいるのかは、内なる油塗りの感覚で分かる。この塗り油にとどまること(1ヨハネ2:27)―ここにクリスチャンのいのちのすべてがかかっている。