2004年09月08日

ついにロシアも

テロ組織に対して先制攻撃を示唆→
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040908-00000012-yom-int

かつての二大超大国アメリカとソ連の軍拡競争は互いに相手に対する妄想的意識(パラノイド)の結果であった。精神病理に投影という自己防衛機制がある。自分の中に敵意とか憎悪がある場合、その真実を認めたくないために、相手がそれらを持っているとして、相手を恐れる病理である。つまり猿が鏡を見てその中の"猿"を恐れて攻撃するのと同じ。オウムなどのカルトではよく観察される。彼らもアメリカがサリンを撒いているとか、それに対する"正統な"攻撃としてあのサリン事件が起きた。パラノイドの本質にはこの投影がある。

かつてのアメリカもソ連も自分の内なる敵意を相手に映し合って、あの果てしない軍拡競争となった。今またそれと同一の病理があちこちで再現している。私は政治は分からないが、人の心は分かる。よって今後起きてくるであろうことも大体読める。すでに神の統治を壊したアメリカ、元から神を恐れないロシア、そしてイエスに敵対するイスラエル、沈黙の眠れる大国中国、そのハザマにかろうじて去勢されたわが国。この力学に北朝鮮やテロリストが茶々を入れると。

怖いのは前にも書いたバック・フィーバーである。パラノ的心理から些細なきっかけで抑制できない乱射が起こる。BBSにも書いたがすでに世界は心理・神経消耗戦のフェーズに入っている。今後、何が起きてもおかしくはない。

アメリカの行方

NHKの「クローズアップ現代」でジャーナリストのピート・ハミル氏が「アメリカ人は幻想を追っているのです。アルカイダとフセインが関係があり、フセインは大量破壊兵器を所持していたと思い込みつつ、自分たちは世界のために役に立っているんだと信じたがっているのです」とコメントしていた。まさにそのとおり。わたしが前から指摘している通り、バーチャル化の精神病理である。http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing52.html

その根底にあるのは自分のアイデンティティを守ること。それは本来、前に書いた大脳第二層の機能である。しかしアメリカの特殊性は、「アメリカ人」なるものは元々は無いという点。人口国家であり、カルトの教義よろしく、「自由と平等」を刷り込まれた人々の坩堝。彼らは大脳第二層というよりは第三層の思想の刷り込みによるアイデンティティを保つ。よってイスラムなどにも第三層的なアプローチしかできない。日本の場合は以前に書いたとおり、去勢が成功したわけ。(ちなみにTIME誌の今週号によるイスラム内部にも深刻な分裂が生まれつつあるようです。後ほど書きます。)

私はこれまで少々遠慮しつつ主張してきたが、今はっきりと言える:「その精神病理から見て、アメリカは自由と平等を刷り込まれたカルト国家である」と。

気持ち悪さの正体

BBSで書いた後、この世と教界でも働く同じ霊の正体について思い巡らしていた。何なのだろう、この違和感の正体は、と。Salt氏と同じかどうかは分からないが、私の結論は、フェイクを建て上げる霊である。そう、ドラマ「金八先生」を見た後のような違和感。

この世においては真実の在り処が分からないことは言わずもがなであるが、教界においては少々深刻である。フェイク、つまり「作り物」。

80年代、私が救われた頃は書店に並ぶ本にしても十字架をキチンと説いていた。

90年代になってから、一方ではやたらと悪霊追い出し、個人預言、油注ぎ、大リバイバル、霊能力者・・・、一方では「あるがままのあなたが高価で尊い」とか何でもかんでもカウンセリングにサイコセラピー。

2000年代に入ってからクリスチャンたちが何を求めているのか、明確な羅針盤を喪失し、次々に"新しい"教えの風に吹き回されているだけ。

一見すると対象的な両陣営において共通することは十字架がない。共にリバイバルを求めているが、それは数の問題だけ。実質がない。彼らは共に、自分で自分を救おうとしている。いや、うちの教会では「自我を砕きぃ〜」と説教されていますという方、それは十字架ではない。言っている本人が分かっていない証拠。欺かれてはならない。

イエスは言われた、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の魂のいのち(原語)を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の魂のいのち(原語)を失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:22,23)。

魂の事柄と霊の事柄が混同されている。私が砂糖まぶしと言うのはここである。最初に来るものは地のものであり、肉のものであるが、次に来るものは天のものであり、霊のものである。最初のものは拒否される、すなわち死であり、後のもの、すなわち復活の領域のものが受け入れられる。これを切り裂くのが十字架である。

この十字架を経ないで、あなたは神のVIP、あるがままのあなたが高価で尊い、カウセリングにインナーヒーリング。お分かりになりますか、魂を一生懸命に救おうとしている人の業が。第一のものを守り、保とうとしている動機。世のものと何も変わらない。

この上にアレコレ建て上げ、デコレーションケーキのように表は派手にクリームを塗りたくっている。口に入れると甘いが、たちまち泡と化す。一方十字架のリアリティは御言葉のメスと御霊によってなされるが、御言葉は口には甘く、腹には苦い。この苦味を欠いているのが昨今の教界。

過ぎ越しの子羊をほふる時には、苦菜がそえられたことを忘れてはならない。素祭は種入れぬ上等の小麦粉にオリブオイルを混ぜて練り、焼き上げたのちも蜜だの砂糖は禁忌。むしろ塩をまぶしたことを忘れてはならない。同時に使われる乳香は復活の香りを放つ。

死と復活を経ていないものはすべてフェイクである。この世はもちろん十字架を嫌うが、教界にもパン種で膨らんだ外観にその実際はない。どちらにもアクセサリーの十字架はあるが。パン種のない小麦粉と塩気と苦菜と乳香。どれを欠いても生み出されるのはフェイク。リバイバルの実体は死と復活―十字架―である。