2004年09月13日

ヨン様と牧師様

彼らは実に似ている。共にある種の無色さが要求され、生活臭とか思想や信条あるいは評論家的色彩がない方がよい。没個性の無味性が求められる。つまり人々の投影を受け易い"キャンバス"である。人々は自分の無意識的願望をそれぞれに勝手に投影して、代償満足を得る。

考えてみて下さい。北野武が「冬のソナタ」を演じたり、"牧師"として講壇から説教する場面。私はかなり面白いと思うし、一度やらせたいと思っているが、果たしてニッポンキリスト教の信徒の皆様(いや、センセイたちかな)はどうだろう。武が救われるようになれば、ニッポンキリスト教もオトナと言える。

安息の欠如

どうも安息が欠如している人が多い。このような人々の特徴は、前から書いている通り、パラノイド。誰が信頼できて、誰についていれば安心か、これが気になるらしい。私なども"検事"の前で根掘り葉掘り"取調べ"を受けることが度々あるが、その判決は「主文:Dr.ルークを愛の欠如症候群と断ずる」。やれやれ、だったら愛の豊かなセンセイのところに行ったらよろしい。簡単な話なのですが、私にまとわりつくのはなぜ?

これらの人々は結局自分を守りたい、自分の得ているものを失いたくない。前から何度も繰り返しているが、自分で自分を救おうとしている。ここではっきりと言っておきましょう:人を当てにし、人を見ているならば、永遠に安息は得られないでしょう。また人に裏切られ続けるでしょう。自分の魂を自分で救おうとする者は失う―これは法則である。

彼らは自分の思い通りになるように人をパタンにはめ込もうする。これをマニュピレーションと言うことは前にも書いた。精神病理の専門家として言うが、ニッポンキリスト教は病んでいる。学生の物語でも書いたが、彼らは自分のミスを省みることをせず、私の説明責任を問うてくる。同じことがこの業界でも起きている。私はそのような人には「あなたと私に何の関わりがありますか。あなたはあなたで主に従えばよろしい」と申し上げる。霊的世界でも自己責任でお願いする次第。

(この手の話に関わるとほんとエネルギーを吸い取られ疲れを覚えます、はい)