2004年09月27日

感情論からの脱却

ある教会がカルト化しているとかで、私もそこを離脱した方々のお話を伺うことが機会がある。その際ひとつ感じることは、感情論が先行していることである。問題点を伺っても、感情的な発言ばかりで、何が本質か見えてこない。

その牧師が独裁だとか、不倫があるとか、預言が外れるとか、献金の要求が強引だとか・・・、それは現象論に過ぎないのであって、それを生み出した病根が見えてこない。逆に私どもの理解力の欠如を云々される。それどころか私がそこの牧師と似ているとか言い出す人もあるようだ(ヤレヤレ)。

ネットでも色々な議論があるようだが、離脱した方々も自分が経験した範囲での感情論を取り扱っているに過ぎない。そこでの「教え」にアンチテーゼを提出しているに過ぎず、オールクリアして一から真理を学んではいない。つまり形は離脱しても、そこのものをそのまま引きずっている。それではおそらく10年経っても同じところをグルグル回るだけである。

要するに真理がないからである。聖書は一応読んでいるし、御言葉も知ってはいる。が、それが有機的なネットワークとなっていない。メッセージにしても御言葉の部分部分をつなぎ合わせて、「自分が主張したいこと」を、御言葉のカバーをかぶせて主張しているだけ。自分が聞いてきたことを捨てようとしない。お分かりでしょうか。ここでも自分の魂を救おうとしている。霊と魂が分離されていない。

他人が自分のことを分かってくれないと憤りを感じる場合はよほど注意が要る。それはまさに裏切られた自己愛の裏返し。特に日本人の場合は甘えの構造がからむのでややこしくなる。私はそのような場合、「あなたと私に何の関わりがありますか。あなたはあなたで主に従いなさい」と申し上げることにしている。聞く耳をもって、学ぶ姿勢のない人には何らの助けを提供し得ない。

「その日」には主の前に一人で立ち、主に対して自分が何を申し上げるか、その場面を思うべきである。